※自傷表現あり

「またやったのか」
「ぁ、あ……ぃ、いちごぉ?来てく、れたの」
 午前三時三四分。彼女からの「手首を切った。消えたい」の連絡にスリープモードだった一号は即座に支度を整え、ヘド博士へ就業までには戻るという旨のメッセージを入れ彼女の自宅へと急いで飛び立った。
 自分が来たぞという合図のインターホンを押してから、鍵のかかっていない玄関の扉を開け、部屋へあがると彼女は部屋の電気もつけずにリビングルームで蹲って血の気の失せた顔でえぐえぐとしゃくりあげながら泣き続けていた。
 明かりをつけると惨状のすべてが晒される。帰宅してすぐそこにへたり込んで事に及んだのだろう。その手元には血のついたカッターナイフが転がっており、手首からぼたぼたと溢れた血がフローリングを濡らしている。
「見せなさい」
「ごめっ……ごめ、なさぃ、ぅ、嫌いに、ひッ……なんないでぇ……」
「嫌いになんてならない。大丈夫、傷口を見るだけだ」
「ぅっ、ひッ、ごめん、ふ、ぅうっ、ごめんなさ、い゛っ」
 ゆっくりと彼女に近寄り目線を合わせてしゃがみこむと、彼女の体はびくりと強張った。
 なるべく痛みを感じないようにと優しく彼女の腕を持ち上げる。数分前につけられた切り傷は以前付けられたものに重なるように何度も切りつけられている。
 悲痛に歪む顔は涙で化粧がどろどろに溶け落ちてしまい、お世辞にもきれいとは言える状態ではなかった。
「まずは傷口を洗おう。ついでに洗顔もできればいいが……立てるか」
「ぅん……うん、ぅ、立てる、たつ……」
 よろめきながらも立とうとする彼女を支えながら、一号は抱えていくほうが早いな、と考え「無理しなくてもいい」と伝え、力の入っていない彼女を抱きかかえ洗面所へと連行した。
 自分で洗える、としゃくりあげながらも言う彼女を床へと下ろし、今度こそその背をしっかりと支えた。
 ゆっくりと流れる水とともに、薄められた彼女の血が排水溝へと流れ落ちていく。
 人造人間故にその躯体に血の巡っていない一号には、彼女の痛みに共感はできないが、冷水が沁みるのだろう彼女のぎゅっと瞑られた真っ赤に腫れたまぶたに心が切りつけられる思いだった。
「顔も洗えるか?」
「ぁ、あらえる……」
 手首を伝う水の冷たさに、彼女はなんとか冷静さを取り戻した。
 やっちゃった。本当はこんなことやめたいのに。
 彼を試すような真似も、自身を傷つけることも。
 一度情緒がおかしくなってしまうと、自分では感情がコントロールできなかった。
 自身の背を支えてくれる一号の手のひらの温もりに、彼女は自分のしでかした現状が情けなくなり、またじわりと涙が溢れてしまいそうだった。
 これ以上彼に迷惑はかけられない。そう思い、せりあがる涙を鎮めるように、温水にはせずに冷水のまま顔中の汚れを洗い落とした。
 洗顔が終わる頃には血はすっかりと止まっていて、家庭での処置で十分そうだった。
 一号は再び彼女を抱え、リビングへと戻りソファへと座らせるとキャビネットから救急箱を取り出し着々と手当ての準備を進めていく。
「昨日……いや、今日の分の薬は飲んだのか」
「まだ……」
 今まで薬だけは忘れずに飲んでいたのにどうしたのだろうか。
 几帳面な彼女のその行動を不思議に思った一号は「今からでも遅くはないから」と水を汲んでやり、彼女の横へと腰を下ろした。。
 シートから錠剤を取り出そうとする彼女の指の動きはひどく拙く緩慢で、一号には煩わしささえ感じられた。
 そのまま見守ってもよかったが我慢ならず、「貸しなさい」と甲斐甲斐しく錠剤を一つ一つ彼女の手のひらに開けていく。すべて開け終えると「ありがと」と口元だけを無理に釣り上げて笑う彼女に、ああ、またやってしまった、と一号は反省した。
 過保護すぎた。彼女も子供ではないのだからあのまま見守るべきだったと。自分は薬の封も開けられないーー何もできないーー人間だと卑下しかねないと内心気が気でなかった。
 彼の心配をよそに、薬を飲み終えた彼女は特に気にした様子もなく、短く広げたラップにワセリンを薄く延ばしていく。
 それをぺたりと傷口にはりつけると包帯を取り出し「一号、あの……」と申し訳なさそうに上目遣いで彼を見遣った。
 元来人に頼るのが得意でない彼女のこういった不器用さを、一号は愛おしく思っていた。衝動的に連絡してくることはさておいて、だ。
 すぐに彼女の意図を汲んで、彼女の腕を取りガーゼをラップの上から当て、受け取った包帯を巻いていく。
 しばらく沈黙が続いたが自責の念からか、巻かれていく包帯をガラス玉のような瞳で眺めながら彼女がぽつりぽつりと話し出した。
「……仕事で、やなことがあってね、やっぱりわたし出来損ないなんだって、帰ってきてからずっと泣いてたら……薬飲み忘れちゃって」
「あぁ、辛かったな」
「そ、それで、ぅ……もっといやになっちゃって……ごめんね、こんなこと、だめだってわかってるのに、一号に迷惑かけちゃうし一号のこと独り占めしちゃだめって思ってるのに」
 包帯はとうに巻き終わっていた。じっと俯いたままそう漏らす彼女に、一号はやるせなくなった。何度彼女に寄り添い労わりの言葉をかけても、殆どといっていいほど自身の想いが伝わってないように思えたからである。一号は彼女のためなら今のように明け方であろうがすぐさま駆けつけたし、可能な限りそばにいるようにしている。それでもまだ、彼女のためになにか出来ることがあるのではと模索している最中であった。
「迷惑だなんて思っていないし、もっと頼ってくれて構わない」
 本心である。顔を覗き込むしっかりと目を見て伝えると今度は柔く口許を綻ばせ「……ごめん、ね……ありがと」とそれだけいうとそのまま彼女は黙りこくってしまった。
 そろそろ薬が効いてくる頃だろう。そう思い一号は彼女を寝かしつけることにした。
「今日はもう寝なさい。寝室まで連れていこう」
「うん、うん……ごめんね」
 以前より随分と軽くなってしまった彼女を横抱きにし、寝室へと運びゆっくりとベッドへと横たわらせ、自身のマントを外し、するりと彼女の横に向き合うようにして寝ころんだ。
 ぐ、と引き寄せると彼女の体は何の抵抗もなく一号の腕の中へと収まってしまう。その体はひどく冷えてしまっている。
 自身の熱を移すようにしっかりと抱きすくめると、彼女は小さく身じろき「あのね」と呟いた。彼女の言葉を一音も取りこぼさない様に、一号は少しだけ腕にこめた力を抜いた。
「血が、血がね、流れてるのみたら、ぉ、落ち着くの。汚い血が……出ていってるみたいで、それで、今日は思ってたよりや、やりすぎちゃった……ごめんね……」
「……そうか。話してくれてありがとう。……今日は休みだったな。眠れそうか?」
 ゆっくりと背を撫でると次第に彼女の体が弛緩していく。薬が効いてきた証拠だ。あと数分もすれば眠りに落ちるだろう。ぼんやりとした様子で彼女が答える。
「ぅん、寝れる……。一号、私が寝たら帰っちゃう、よね……?」
「そうだな、六時には発たなくてはいけない。だが夜……二一時頃には戻ってくる。それまで待っていてくれるか?」
「ほんと?待つ、待つ……よ……。早く、まともに……なれるよぉにがんばる、から……す、て……」
 ーー捨てないで。
 くたりと脱力した彼女を抱きしめ、そう続くのだろうな、と一号は推測した。
 こんな状態の彼女を見捨てる事など出来るわけなかった。きっと彼女は自分が傍を離れた瞬間、ぷつりと現世との関わりを自身の手で絶ち切ってしまうだろう。そう思った。
 彼女とて出会った頃からこうだった訳ではない。
 心身ともに健康で、花が綻ぶように笑う、穏やかな人だった。その笑顔には一点の濁りすらなかったのに。
 彼女を取り巻く環境が、彼女の人生を無茶苦茶にしたのだ。
 元々生真面目で頑張りすぎるきらいのあった彼女は新卒で入社した所謂ブラック企業で弱音を吐きながらもなんとか頑張っていた。しかしそんな彼女の頑張りも虚しく同僚の侵した重大なミスを押し付けられ、事実無根な噂まで広がり職場に居づらくなって退職へと追い込まれた。
 思わぬ対人関係の縺れに彼女の精神はぺらぺらに磨り減っていた。
 そこに加えて不慮の事故による愛する両親との死別。
 ぎりぎりのラインで耐えていた彼女の心はついに決壊した。
 悲しみを忘れたくて酒をあおった。
 苦しみから逃げたくて手首を切りつけた。
 そうしているうちに彼女は、気づけばありとあらゆる方法で自身を傷つけ、そうすることになんの躊躇いもなくなっていた。
 それも一号の献身的なサポートによって、ここ数ヶ月はやっと自傷行為も落ち着いてきて、以前と同じようにとはいかないが徐々に笑うことも多くなっていたのに。
 彼女の苦しみを完全に取り去ってやれないことを、一号は不甲斐なく感じていた。
 着実に良くなっているはずなのに、なぜか少し進展してはまた後退するような感覚があった。
 朝日が昇る。カーテンの隙間から差し込む光はいやに輝かしく、全てを照らしつくし呑みこまれてしまいそうだった。
 彼女にとって眠っている時だけが安寧でいられるのだ。
 今だけは照らしてくれるなとその光を遮るようにして一号はもう一度彼女を強く抱きしめた。


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