「一号……ガンマ一号!」
夜が深まり街も寝静まった頃、充電ポッドでスリープ中だったガンマ一号は彼女のその呼びかけに反応し、すべての機能を再開させた。
「どうかしたか」
「お願い。二号は出かけてるし、貴方にしか頼めないの」
「私にしか?緊急事態か」
「ラボに向かいながら話すからとにかく付いてきて」
一体なんなんだ。まだラボに残っていたのか、とか二号が居ればそっちに頼んだのか、とか言いたいことは山ほどあったが、ひどく怯えた様子の彼女に一号は黙って付いていくしかなかった。
静寂の廊下に二つ分の足音が響く。
「それで、頼みごととは?」
「ラボにゴ………が出た」
「ゴ?出たとは?」
「ゴから始まる名前で触覚の長い名前を言うのも憚られる虫のことよ」
「ゴキブリか」
「全部言うな!!せっかく伏せ字にしてるのに」
「情報共有はきちんとしておかないといけないだろう」
伏せ字、が何のことかは一号にはわからなかったが、彼女の挙げた特徴を元にはっきりとその名を口にした。
万が一間違った情報をもとに任務を遂行して失敗してはいけないという懸念からであった。
「とにかく、現場に着き次第迅速に奴を処理してほしいの」
「承知した」
一号には、たかが虫一匹に怯えるなんて、普段滅多なことでは動じない彼女からは想像もできなかった。
怯えている彼女には悪いが、可愛らしい一面もあるのだな、と自然と自分の口許が緩むのを感じた。
「見える?あそこにいるの」
「ああ、確認した」
ラボに二人が到着した頃には、殲滅対象は我が物顔で部屋の中央に佇んでいた。
対象を目で捉えた瞬間、彼女の顔が嫌悪と恐怖に歪められる。
その表情を見た一号はさっさと始末して彼女を安心させなくてはと思案した。
そう思うが否や、行動に移すのは早かった。
「殺虫剤は」
「必要ない」
「え、いやいるでしょ殺虫剤」
その言葉を発した時には、一号の姿は彼女の隣にはなかった。
気づけば対象の姿も見当たらない。
どこにーー。
そう思った瞬間、眼前につやめく拳が差し出された。
「捕まえたぞ」
あろうことか、彼は素手で生け捕りにした。ゴ…を。
しっかりと己の手同士を貝殻つなぎにし、逃げられないようそこに封じ込めた。
まさか素手でいくとは思ってもみなかった彼女は、予想外の展開に咄嗟に後退り、軽いパニックに陥った。
「ヒッ!!嘘でしょ無理なんだけどやだほんとにやだ」
「それで?ここからどうする?」
「まってこっちに近づけないで!!!!」
「ム、わかった」
指示を仰ごうと、こちらに近づいてくる彼に彼女は待ったをかけた。
対象は彼の手の中に閉じ込められていて姿は見えなかったが、その中でまだ奴が生きていると言う事実が、彼女にとってとてもじゃないが耐えられなかった。
それ故、恐怖のあまり口走ってしまった。
「もうなんでもいいから早く始末して!!」
今この状況で発するには考え得る限り、もっとも最悪な言葉選びで。
「了解」
くしゃり――。
軽い乾いた音をたて硬い手の平に押しつぶされ、あっけなくその命は奪われた。
彼女の畏怖が籠められた悲鳴がラボ中に響き渡る。
「うわァァああああああ!!!!」
「な、なんだ」
「よよっ、よく、よくもそんなばっちぃことを!!」
「なっ!なんでもいいから始末しろと言ったのは貴方だ!」
「するにしても他にいくらでも方法があるでしょ!」
「これが一番確実だろう!」
やってしまったからにはもうどうしようもないのに、完全にパニックになってしまった彼女には彼の所業について糾弾することしかできなかった。
一号にとっても、彼女のその言動は予測不可能なものだった。
始末しろと言われたので指示通りに行動したにすぎなかったのだ。
それなのに彼女の口から今まで聞いたこともないボリュームで悲鳴を浴びせられ、糾弾されるとは考えてもみなかった。
しばらくそうやってしょうもない言い合いを繰り広げていたが、ふいに呑気な声が二人の耳に届いた。
今しがた帰宅したばかりのガンマ二号である。
「ただいま〜二人して何してるんだ?」
「二号!帰ってくるのが遅いぞ!」
「ええ〜?まだ零時にもなってないよ」
「二号!あんたの兄ちゃん悪魔みたいなやつよ!」
「悪魔ぁ?何したのさオニーチャン」
「二号がいてくれたらこんなことにはならなかったのに!」
「おい。その言い方では私に不手際があったみたいだが?」
なんだなんだ。帰ってきて早々板挟みのような状態になってしまった二号は、ひとまず周りの状況をぐるりと確認した。
ひどく動揺して今にも卒倒しそうな彼女。その彼女の唯一の弱点といえば、虫だったはずだがラボ内にその存在は確認できない。
よくよくみてみると一号の手は不自然な形で握り締められている。
原因はこれか?となにやら不服そうな兄弟機に声をかけた。
「一号その手、なに持ってるんだ?」
「ゴキブリを握り潰した」
「うわばっちぃ!!」
彼女もまさか一号が素手で虫を握りつぶすとは夢にも思わなかっただろう。
道理で、帰ってきたときのあの言い合い。
ようやく二号にも彼女の動揺が理解できた。
どこからとりだしたのか彼女は一号にゴミ袋を差し出した。その腰は明らかにひけている。
「と、とにかく、その潰したやつはこのビニールに入れてゴミ箱に捨てて」
「手袋も捨てなよ。汁まみれだろ」
「博士に頂いた大切な装備を捨てるなど――」
「その博士に頂いた大事な手袋をつけたままゴ…を握りつぶしたのはどこのどいつよ?」
「そもそも素手で掴むか?慎重さが足りな過ぎないか?」
「グゥ……私は、言われた通りに……」
なぜ彼女を助けたはずの自分が責められているような状況になっているのか。全く腑に落ちない一号だったが多勢に無勢。
哀れガンマ一号。人並みはずれた力を持つものは、その力で正しく人を導けば英雄と崇められるが、ひとたび力の使い方を誤ると、時として畏怖の対象として怪物と同等の扱いを受けるのだ。
あの時手洗い場に向かう一号の哀愁漂う背中と言ったら!これは後にこの時を振り返り、心底楽しそうに笑う二号の言葉である。
「一号ちゃんと手洗った?」
「洗った。指示通りアルコール除菌もした」
「よしよし。それじゃ、ちょっとかがんでくれる?」
「?これでいいか」
「おっけ〜バッチリ。退治してくれてありがと」
ちゅ、と軽い音をたてて一号に触れられた彼女の唇は、初心な人造人間をフリーズさせるには十分な柔らかさだった。
「じゃね、おやすみ。いい夢見なよ」
「いいな〜ボクにもキスしてよ」
「また今度、何か手伝ってくれたらね」
「おやすみのキスでもいいよ」
「生憎キスは安売りしない主義なの」
「ちぇ〜、なら次は絶対ボクを頼ってよ」
「わかったわかった」
「……人造人間は夢を見ない」
「返事遅!そういう挨拶だよ。マジレスしないで」
今度こそバイバイ、ほんとにありがとね、おやすみ!そう言ってラボの扉は閉められた。
まだ研究を続けるのか、もしくは徹夜コースなのかもしれないな。
無理して体を壊さなきゃいいけど。そう思いながら、二号はいまだ処理落ち気味の一号の背を叩き、「ほら帰るよ」と腕を引いて歩き始めた。
「どうした?なんか震えてないか?」
「彼女がオレの頬にキスを……」
「あ〜〜はいはい、よかったネー」
歓喜に打ち震えてたワケね。なんだか釈然としない二号はそれ以上何も言わないでおいた。
過去に数回、今回の一号と同じように害虫駆除を頼まれたこと。それに対しての謝礼にキスをしてもらったことなど一度もないこと。だのに目の前で頬とはいえ兄弟機にキスするところを見せつけられたこと。
彼女のあの口ぶりからして、そのキスには感謝以外の感情が籠められているのだろう。
傍から見れば二人はどう見ても好き合っている。その事に気づいてないのは、当の二人だけなので、外野があれこれ口出しするのはなんだか馬鹿馬鹿しく感じられた。
あれだけアプローチされて気づかない一号も一号だ。
どこで一号と自分とでここまで情緒の発達に差がついてしまったのか、二号は不思議でたまらなかった。
「一号ってたま〜にすっごくお馬鹿になるよな」
「搭載されているCPUはお前も同じスペックのはずだが?」
「ほら、そういうとこだぞ」
「……たった一匹で頬にキス、ということはもっと沢山の虫をけしかけてそれを駆除できたとしたら……?」
「いや悪魔的発想すぎるだろ」
これ以上拗れる前にさっさと付き合っちゃえよ、まったくもう。