もう限界だ。
自分で言うのもなんだけど、よく頑張ったほうだと思う。そもそも、頑張るようなことでもないんだけど。
事の発端は数ヶ月前、兼てよりお付き合いしているガンマ一号と初めて一夜を過ごした時のことだ。
緊張した面持ちで私を押し倒した彼を見上げた瞬間、えも言われぬ高揚感を覚えたのは記憶に新しい。彼はきっとこういったことは不慣れどころか未経験であろう。ハジメテくらいは、たとえことがうまく運ばなくて焦れったくなっても、焦らせず彼のペースに合わせてあげようじゃない。そんな考えは次の瞬間呆気なく霧散することになる。
ゆっくりと顔が近づいてきて、ふに、と柔らかく数回唇を合わせるだけの、可愛らしいキスが落とされる。一号って何気にキス好きだよなぁ、なんて呑気に考えていたのも束の間。唇の隙間から忍ばされた舌はどんどんと深度を増して私の口内を暴いていって、夢中で舌を吸われたかと思えば、気づけば舌を吸われたまま、あれよあれよという間に服を肌けさせられ、あまりの展開の速さに訳のわからないままに、人工物とは思えないほど滑らかで潤んだ舌が私の肌を濡らしていた。
そりゃもう、ハチャメチャに舐め回された。体中、彼の舌が伝っていない所などないのではと思ってしまうほど隅々まで。あとついでに数カ所の噛み跡とうっ血痕も添えて。
百歩譲って噛み跡とキスマークは見えないところだったらいい。別に害はないし。つけられた瞬間は多少痛いけど……まあ許容範囲内だ。
けど体中舐め回されるのは、なんとなく、はっきりと言葉には言い表せられないけれど、やめてほしかった。舐められる感覚が嫌だとか、潔癖症だとかそういったことではない。なんせ恥ずかしいのだ。嫌悪なんかのマイナスな感情で彼の行為を否定しているわけではない。全身を味わうように、ゆっくりじっとり舐められるのが、羞恥で体中をかけ巡る血液が沸騰しそうなほどただただ恥ずかしくて、その恥ずかしさのあまり、いっそ死にたくなるからやめてほしいだけ。ただそれだけだった。
それなのに件の元凶に、それとなくやめてほしいことを伝えれば「すまない、その……興奮してしまって、つい、抑えが効かなくなってしまって……」などとしょぼくれて申し訳なさそうに言われてしまえば、なあなあに許すしかなかった。
こうして絆されながらも羞恥心に耐え続けた結果、遂に我慢の限界に達した私は実力行使に出た。 体中を舐められない為にできることは何かないかと色々考えた。服を着たまま致す?いいや、気がつけば身ぐるみ全部剥がされていて肌を唾液でべちゃべちゃにされるのが目に見えている。
舐めた瞬間にペナルティを科すのは?一号だって私に嫌がらせしたくて舐めているわけではないし、行為を中断させてまで罰を与えるのはちょっと可哀想、かも……? なら、舐めたくなくなるような肌になればいいのでは……⁈ そう思いついた瞬間、私はドラッグストアへと向かっていた。
苦味のある成分が比較的多く含まれていそうなボディクリームを適当に数個見繕い、帰宅後即お風呂に入り、買ってきたばかりのそれらを一個一個きちんと肌に塗って、テイスティングした上で、一番苦いと思ったものを使うことに決めた。
これなら勝つる──。そう確信めいたものが、確かに私にはあった。少しばかり憂鬱になりつつあった一号との逢瀬が、勝ちを確信した瞬間──勝ち負けの話ではないけれど──期待に変わって、早く約束の時間にならないかなぁ、とさえ思った。
赤ちゃんの誤飲防止の為にわざと苦く作られているおもちゃみたいになる必要が人生の中で出てくるなんて思いもしなかったけど。
お風呂あがり、きちんと水滴をタオルで拭き取って、まだほかほかと湯気が上がっている肌にボディクリームをくまなく馴染ませる。仄かにジャスミンが甘くも爽やかに香って、昔読んだ小説に似たようなシーンがあったなぁ、と思い出し少し苦笑する。自ら怪物に食べられる為に、そうと知らずにせっせと下準備をする健気な人間達に同情しながら、この作戦が無事うまくいくことを祈った。
♡♡♡
「ちょちょちょ、まってまって、あの……一号さん?」
「なにか不都合でも?」
「いや……え〜〜っと……。なんていうか、なんか、こう……変だな〜ってこと、ない?」
「変、とは?」
一号は私の質問の意図などまったく理解できないとでも言うように、首を少しだけ傾げてじぃ、とこちらを見つめてくる。なんだその首の角度は! 可愛いな! いやそうじゃなくて。
「いつもと違うな〜、みたいな?」
「……? いつもと違わず貴方の素肌は眩いが」
「いやそういうことじゃなくってぇ……」
おかしい。あれだけ全身くまなくボディクリームを塗りたくったというのに、一号は臆することなくいつもと変わらず肌を舐めていった。あまりの躊躇いのなさに、下着を剥ぎ取られそうになったのを慌てて止めたほどだ。私を押し倒して跨ったまま、一号は少しだけ考え込むようにして一切の動きを止めると、すぐに何か思いあたったのか、私の首元へ顔を寄せて、すん、と鼻を鳴らした。
「そういえば、なんだかいつもより芳しいような……。何かつけているのか?」
「えっ……。匂いだけ? 味しない?」
「残念ながら私に味覚は搭載されていない。食事を必要としないからな」
「えっ⁈ 嘘でしょ!」
「嘘じゃない。嗅覚は人命救助に必要だから搭載されているが……それが何か関係が?」
「じゃ、じゃあいつも私のこと美味しそうにぺろぺろ舐めるのは……」
「それは貴方が恥ずかしがっている姿をみたいからそうしているだけだ」
「え⁈」
思いっきり後頭部を鉄アレイで殴られたかのような衝撃を受けた。『恥ずかしがってるところを見たいから舐めている』って言ったのか? この男は。こんな透き通った曇りなき眼で。
「すまない。あなたの照れている顔は貴重なので、つい……」
「つい……!」
なんて男だ。この間は「興奮してしまって抑えがきかない」って言ってたじゃん。それが、本当は私を辱める為にわざとやっていたとは……! ショックと共に屈辱である。
当の一号も少しは悪いと思っているのか、しゅん、と目を伏せて謝罪を口にする。
「すまない、こんなヒーローらしからぬ行いは良くないとは思ってはいるんだが……」
「ヒーロー以前に手段として舐めるのは人としてちょっと特殊だと思うけど……じゃあこのボディクリームも意味なかったかな……」
前も同じような言い訳を聞いた気がする……わざとやっているのは確定だが、彼の中で理性と本能が戦っているのもまた事実なのかもしれない。残念ながら悉く理性が負けてるけど。
私のぼやきを聞いて、一号はちょっとだけ目を丸くしたかと思うと、私の柔く頬を撫でて、困ったように少しだけ笑った。
「香りは好ましいが……というより、私の為にこの香りを?」
「香りが目的じゃないけど、まぁ……」
まさか苦味の為に塗っている、なんて言えるわけもなく、濁した言い方をしたけれど、一号は気にもしていない様子で、なぜだかとても嬉しそうにはにかんで、私が止める間もなくキスされそうなほど近くまで一号の顔が迫ってきて、思わずぎゅっ、と目を閉じた。
するり、と逃がすものかと言わんばかりに絡められた一号の指先は嫌に熱い。
「嬉しい、私との時間のために、私を想ってくれて」
「え、わっ……⁈ ちょっ、ま……っ‼︎」
「文句なら明日聞く、それに、言うことは出来る限り何でも聞くから──」
首元にぬるり、と熱くぬるついた藤紫が這って、思わず身震いする。やばい、なんでかわかんないけどなんか焚き付けちゃったっぽい。
一号の為にではあるけど、勘違いなんですけど! なんて言い出せる間もなく、一号の舌はそれ単体がまるで生き物かのように、私の肌を遠慮なく擽っていく。何がそんなに一号のツボにハマったのか、よほど興奮しているのか、たまに柔く歯まで立てられて、その夢中さから、これは酷いことになるぞ、と私はこの後我が身に降り注ぐ身勝手な愛を受け入れるべく、一号の首に腕を回して、ぎゅっと抱きすくめてから彼にバレないように溜息を一つだけはいて、ようやく覚悟を決めた。
誤嚥防止のおもちゃ並みに苦くなろう作戦は、こうしてあえなく失敗に終わったのだった。お陀仏!