「ん゛っ……う〜ん、う゛ぅ……」
彼女は悩んでいた。昼食に食べた魚の骨が喉に刺さったのか、違和感をおぼえていたのだ。水を飲んでも米を食べてみても全くとれずに、そうこうしている内に昼休憩が終わってしまった。
どうすることもできず、仕方なく業務に戻ったのだが――。
「どうかしましたか」
隣で彼女の資料の整理を手伝っていたガンマ一号が声をかける。
さっきから作業はしつつも妙に咳払いが多く、落ち着きなくそわそわしている彼女に、何か不調でもあるのかと思ったのだ。
「それが、昼食に食べたお魚の骨が喉に刺さってしまったみたいで」
少し痛むと言うか、違和感があるんです。困ったようにそう言う彼女を、一号は不憫に思った。
人間にはそういった苦労もあるのかと。魚の骨でさえ、その身を傷つけるのか、と。
「骨が喉に?」
「そうなんです。お水を飲んでも取れないし」
困ったなぁ。資料をファイルに仕分けながらそう独りごちる彼女を救ってやらねばと、彼は決心した。
なにせスーパーヒーローあれかしと造られた存在なので。目の前で困っている人を見て見ぬふりはできなかった。
「よければ見てみましょうか。私なら多少奥に刺さっていたとしても見えるはずです」
「えっ、でも」
「もしその傷から化膿でもしたら大変だ」
「そんな大層な傷じゃ――」
「さぁ」
「ええ……う〜〜ん……それじゃあ、お願いします」
一号のその提案は、完全に善意からのものであった。
妙に押しが強いのは、彼自身気づいてはいなかったが、彼女のことを好ましく思っていたからである。
ちっぽけな魚の骨であろうと、彼女を傷つけるものはこの世から排除したかったのだ。
なぜか照れているのか頬を少しだけ染めながら口をあけて、不安そうにこちらを覗く彼女にはなにかクるものがあるな。一瞬そんな不埒な考えが脳裏をよぎったが、苦しんでいる彼女を救うべく、気をしっかりと取り直した。
「失礼」
向かい合って座り彼女のおとがいを親指で押さえ、喉がよく見えるように少し上に向かせる。
彼女を苦しめていた正体はやはり魚の骨で、口蓋垂のすぐ近くに浅く刺さっているのが視認できた。
「目視で確認できるほど浅い場所に刺さっていますね。傷もさほど深くはなさそうだ」
「ほんとですか。なら放っておいてもいいかなぁ」
「手で取りましょうか」
「えっ?!いやいいですよそんな、そこまでお世話になるわけには」
というか、手で取れるわけがないだろう。そう思いはしたが彼女は口にはしなかった。彼なりの善意からの発言だろうと推測したからだ。
何か適当な理由をつけて断ろう。そう思っていたのに。
「いいえ、取りましょう。では」
「は?!ちょっとまっ!!ぅぐっ!!」
頬を掴んで口をあけられ問答無用で人差し指と中指を突っ込まれた。
断ったのに。取れるわけない。苦しい。顎が外れそう。なんで。勘弁してよ。
次々と溢れる文句は口にはできず胸中に浮かんでは消えた。
どれだけ息苦しさに喘ごうとその手は止まらない。彼の腕を掴んで静止しようとしてもその体はびくともしない。
「う゛っっ、ふ……」
「あと少し……」
「ッッッ〜〜〜〜!!」
不幸なことに、彼女は嘔吐反射がひどかった。
歯医者に診てもらえば器具が舌先に触れるだけでえずくし、日常的に行なっている歯磨きでさえ、不意に吐き気を催すので大変難儀していた。
それなのに、この仕打ち。
まさか口に指を突っ込んで骨を取ろうとする奴がこの世に存在するだなんて思いもよらないだろう。否、実際ここに一人いるのだが。
そんな彼女がこの場で吐いたとしても誰が責められよう。
舌根をひんやりとした手袋に撫ぜられ、彼女はもう我慢の限界だった。
「グっ!!ゔぇ、んぐっ……ゔっ!!」
吐いた。いや吐かされた。加減知らずの善意十割の人造人間の手によって、それはもう盛大に。
食道をせり上がってくる吐瀉物を感じながら、火事場の馬鹿力か自身でも信じられないような力でどうにか一号の手を口から引き抜き、衝動のままに吐いた。
胃がぐるぐると燃えるように熱い。
鼻に抜けるツンとした独特の酸味に涙が出そうだった。
自身の手を受け皿にすることもままならず、吐き出したもの全てを太ももで受け止めた。
お気に入りのスカートに、ついさっき食べたばかりの昼食だったものが広がる。
大切な資料にかからなかったことだけは、不幸中の幸いと言えよう。
「ぅぉえっ……けほ、ぁ、はぁっ、はぁ……なに、するんですか……」
肩で息をし、涙目でこちらを睨む彼女に一号の思考回路はそれで埋め尽くされた。
"かわいい"
頬は紅潮し、息は絶え絶え。きちんと閉じられた太ももには今しがた吐いたばかりの吐瀉物が溜められている。
苦しんでいるのに、守るべき人なのに。
自身の行動によって、彼女が苦悩している。
彼女の苦痛に喘ぐ声が、歪む表情がひどく蠱惑的で、もっとその声を聞きたい、その表情を眺めていたい。そしてそれを、自分だけのものにしたい。そう思った。
そのことを自覚した途端、ぞわぞわとしたなにかが電力とともにその躯体に駆け巡る。
それは支配欲か、はたまた加虐心か。それともその両方なのか。
こんな感情、スーパーヒーローとしてあってはならない感情だ。
謝らなければ。そう思い口を開いたはずだった。
なのに、なぜか気がつけばキスをしていた。
無論、彼女は吐いたばかりなのでその口許はゲロまみれである。が、それごと舐めとるようにして彼女の唇に食らいついた。
その柔さを知ってしまえば、あとはもう何も考えられなかった。
「?!っ〜〜!!」
そのとき彼女の心を支配したのは恐怖。ただそれだけだった。
無理やり口に手を突っ込まれ、吐かされたと思ったら今度はキスである。好き合っている者同士でもないのに。たった今ゲロを吐いたばっかりなのに。
意味がわからなかった。
複数回上唇を食まれたのちに、ぢゅる、と音をたてて唇が離されると、放心する彼女を尻目に一号はすっくと立ち上がった。
「着替えや掃除用具を持ってきます」
そのまま動かないように。そう言って何事もなかったかのように部屋をでていく一号を、彼女は黙って見送ることしか出来なかった。恐怖で腰が抜けていたからである。
あと服がゲロまみれで人前に出られる状態ではなかった。
「ぁ、喉痛くない……」
喉の違和感はすっかりなくなっていた。嘔吐した際、上下する喉の動きで取れたのだろう。
イカれたあの人造人間が帰ってくる前になんとかしなくては。そう考えるも体は全く言うことを聞かない。
人前でいい歳して吐いたという事実。
無理やり吐かされたという屈辱と、吐いた瞬間を見られたことによる人としての尊厳の崩落。
そしてそれらを仕方がないとはいえ放置されているような現状。
彼女のガンマ一号に対する信頼は、地獄の底まで落ちていた。
たった小さな魚の骨をとるために、失ったものは互いに大きすぎるのかもしれない――。