「ネコ?」
「ほら、あそこ」
夕飯の買い出しの帰り道、路地裏のそばを通りかかったときに、彼女がそう声を上げた。立ち止まった彼女の指先の延長線を目で辿ると、一匹の野良猫がのんびりと毛づくろいをしていた。彼女の声に反応したのか、ネコはこちらを向きゆっくりとまばたきをした。
「ほんとだ、こっちを見てる」
「かわい〜。ちょっと撫でさせてくれないかなぁ」
「おっ、近寄って来るぞ」
「わ、わぁ、ふふ!くすぐった。人懐っこいねキミ」
彼女の足元に尻尾を立てながら擦り寄るそのネコは、人間相手だと言うのにまったく物怖じせず、ごろごろと喉を鳴らしている。随分と人に馴れているようだ。
「撫でてほしいの?んふふ、ふあふあだ」
ごろりと転がり、どうぞ撫でてくださいといった様子のネコに、彼女は一瞬で虜になったようだった。しゃがみこんで、ネコの頭や首、背中、全身くまなく撫でている。彼女にされるがままのネコは、目を細めて満足げだ。
「そんなにネコ好きだったっけ?」
「動物全般好きだよ〜。けど猫ちゃんは特段好きかも」
「へぇ、知らなかったや」
「2号もちょっとだけ猫ちゃんっぽいよねぇ」
「え、そうかな」
「頭部パーツがすこしだけ猫耳っぽいし、あと瞳孔も細くて縦長だし」
彼女の目には、このネコとボクが同じように映っているということだろうか。それは、なんというか心外だ。ボクは彼女の前では常にかっこいいガンマ二号でいたいのに。
「目を離した隙に、ふらっとどっかに行っちゃうとことかさ」
「ボク、鮫モチーフなんだけど」
「知ってるよ。総合的に見た雰囲気の話ね」
ネコっぽい雰囲気ってことは、やっぱり可愛いと思われているのか。これは困ったことになった。早急に彼女の意識改革が必要だ。
「ありゃ、もうフられちゃった」
彼女の猛烈なサービスに満足したのか、自由気ままなネコはおもむろに立ち上がり、するりと彼女の手の平からすり抜けて、元いた路地裏に帰ってしまった。
「バイバ〜イ」と後ろ姿のネコに手を振る彼女は少し寂しげだ。
「撫でられて良かったね」
「うん、まだ撫で足りないけど……」
「はいはい、早く帰ろう」
ネコに夢中になってる間に、夕日はすっかり落ちかけていた。もうそろそろ、町中の街灯に明かりがつく頃だろう。
夕飯のグラタン、楽しみなんだろ。僕のその言葉に「そうだった!」と勢いよく立ち上がり、ぼ〜っとしてると置いてっちゃうよ!と彼女は足早に帰路につく。その背中を追いながら、グラタンが楽しみだという、あどけない彼女の可愛さに免じて、最初に道草食ったのはキミだろ、とは言わないでおいた。
「いいなぁ猫ちゃん、飼いたいなぁ……」
「飼ってみたら?」
「だめだよ、今だって自分の世話もままならないんだもん」
そう言ってソファに深く腰掛けて、膝の上の虚空を撫で続ける彼女の姿は、あまりにも気の毒だ。夕飯を食べ終えてからずっとこの調子なのだ。彼女ならいい飼い主になれると思うけどな。
「なら、ボクで我慢しなよ」
居もしないネコを一所懸命に撫で続ける彼女を見ていられず、思わずそんな台詞が口から飛び出す。
「えぇ?あらま〜〜おっきな猫ちゃんだこと」
ソファに寝ころび彼女の太ももに頭を乗せる。所謂膝枕だ。頭部パーツをぶつけないように、気を付けながら彼女の方を向く。
「ほら、撫でてもいいんだよ」
「んん〜〜ふあふあじゃない」
「そこは想像力を膨らましてなんとかして」
「肌もひんやりしてるし……」
「温度調節するから、ほら」
「それならまぁ、なんとか」ジェネリック猫ちゃんに成りうるかも?などという不穏な言葉が聞こえた。しまった。もしかしてボク、自分から可愛いと思われる行動をしてしまったか?
「暖かいねぇ。ほんとに猫ちゃんみたい」
「お気に召したのなら良かった」
このぬくもりで興が乗ったのか、後頭部や頬をひっきりなしに撫でられる。その手つきは驚くほど優しく、また暖かい。意図的なのか、たまに頬をかすめる親指がくすぐったい。ボクにも母親っていうのがいたのなら、こんな感じなんだろうな、とぼんやりと思った。
それにしてもなんだかモヤモヤする。自分から言い出したことだけど、ネコの幻影に囚われすぎじゃないか?この子。キミが撫でているのはネコじゃなくてキミの恋人であり、ヘド博士の傑作である人造人間ガンマ二号だぞ。彼女はボクを撫でているのに、本質的なボクを見ていない。それってすっごく悲しいし悔しい。居たたまれたくなってきて、思わず声をかける。
「……もう十分なんじゃない?」
「よしよし猫ちゃん……へへへ」
「ちょっと!聞いてる?」
「かわいいねぇ」
「もう!ごっこ遊びはおしまい!!」
起き上がって、彼女から距離を取った。
「ひん、私のキティ……」
「ボクは子猫じゃない!」
「ほら、可愛く鳴いてごらん、にゃんって!」
「いやだ!」
しつこく顎を撫でようとしてくる手を掴み、背後からぎゅっと抱え込み、ソファに座りなおした。
やっぱり前言撤回。この子は動物を飼ってはいけない部類の人間だ。一度飼ってしまえば、ネコのお世話にかまけて、本人の生活がグズグズになる可能性大だ。
不平不満が飛び出すかと思いきや、意外にも彼女はボクに捕まったまま大人しくしていた。
少しの沈黙の後、彼女が僕の肩に後頭部を預けた。上目遣いの瞳と視線が交わる。
「甘えたいのなら、構ってって言っていいんだよ」
どうして。見透かされているんだ。言葉にしていないし、表情にも出さないように気をつけていたのに。
バレたのなら、隠す必要もないか。ずっとひた隠しにしていた思いを吐露する。
「…………ネコじゃなくて、〈ボク〉に構ってよ」
彼女を抱え込む腕に力が入る。たったこれだけで、今までのモヤモヤがチャラになるわけでもないけど、そうせずにはいられなかった。
「なんか、嫌だったんだ。キミがネコに夢中なのも、自分から申し出たとはいえ何かの代わりにされるのも」
「ごめんね、意地悪しすぎたね」
先ほどと同じく、彼女の親指が優しく頬を掠める。意地悪。なら、彼女がネコに固執していたのは、わざとだったということか?何故?
「二号、甘えたいのを我慢してる時に声がちょっとだけ上擦るの、気付いてる?」
「……知らなかった」
「それを確かめたくて、意地悪しちゃったの」
なんだそれは。人間で言うところの癖と言うやつだが、ボクにとっては不具合だ。今度博士に相談しよう。
「普段、他のことに関してはもっと素直なのに、なんで甘えたい時はそうじゃないの?」
「自分からこうして甘えるのは、かっこよくないだろ」
キミの前ではずっとかっこよくいたいんだ、とは甘えてしまった手前言えなかった。
「甘えたいときは甘えたっていいんじゃないの。それで普段のかっこよさが損なわれるわけでもないし」
「嘘だ、さっき散々かわいいって言っただろ」
「それは、ジェネリック猫ちゃんに対してであって、二号自体に言ったわけじゃないよ」
「完璧にボクのことネコだと思いこんでたってこと?」
「まあ、それはそうです。すいません」
やっぱりあのネコ狂いは演技なんかじゃなかったんじゃ?
「私の二号をかっこいいと思う気持ちを嘘だって疑うなら、二号の考えるかっこいいを、正解を教えてよ」
きっと相違はないと思うけど――
その言葉に、これはチャンスだと思った。仕返しをする絶好のチャンスだと。
「言ったね?」
「なに?私、変なこと言った?」
「キミがまいったって言うまで、ず〜っとかっこよく居続けるから、覚悟しろよ」
こうなったら彼女がかっこよすぎて死んじゃうって言うまでやってやろう。もう二度とボクを
ようやく自分の立場をなんとなく理解したらしい彼女が、居心地悪そうに身動ぎする。逃してやるもんか、絶対に。散々意地悪されたんだ。ちょっとくらい仕返ししても、バチは当たるまい。ヒーローとしては、良くないことかもだけど。
――僕はこのモヤモヤした感情の名前を、まだ知らない。