その日はとても風の強い日だった。
 春の嵐は地面をがらりと桃色に染め上げてしまった。桜の花びらの絨毯は行灯に照らされて妙に艶やかに浮かび上がっている。
 風は轟々と時折音を立てて平子の羽織をはためかせていた。
 何となく気味が悪くなり家路へと急ぐ。
 今日は仕事は遅くならないと言っていた。どこかの隊が大怪我をしたという話も聞いていない。
 きっと、この時間なら彼女はもう家に帰っていて、女中のトメさんの作った晩飯をつまみ食いしてしまおうか真剣に悩んでいる頃だろうから。彼女が真剣に眉間に皺を寄せている姿を笑ってやればいい。
 そう思って、袖に手を突っ込んで暖を取りつつ早足で歩いた。
 何時もどおり明かりの付いているはずの家は何故か薄暗く、平子は背筋が粟立つような感覚に慌てて家の戸を開ける。

「ただいまァ、帰ったで」

 何時もなら、何時もならば、霊圧探知に長けた彼女が先に玄関に居て、おかえりなさいと迎えてくれるのに。

「千代…?」

 乱暴に草鞋を脱ぎ捨てると居間の襖をこれまた乱暴に開けた。明かりのない薄暗い部屋の床に、黒い塊が見える。

「千代!?」

 慌ててその何かに駆け寄って抱き起こせば、んん、と短い唸り声がして薄く目が開く。

「あ、れ。真子さん?」

 まだ寝ぼけ眼で呂律のいまいち回っていない口調で自分の名前が紡がれる。

「ふふっ、おかえりなさい」
「ん…ただいま」

 深い溜息と共に千代の肩に顔を埋める。

「どないしたん」
「別に。床に転がっとるからびっくりした。今日はどしたんや」
「お貴族様の対応にもうてんやわんややったんよぉ」
「そか」

 千代は平子が何も突っ込んでこないことに首を傾げたようだった。そら大変やなぁってオマエも貴族やろ!、なんて軽口が飛んでくるものだと思っていただけに拍子抜けだったのだ。
 晩ご飯の支度しますね、と立ち上がって大きく伸びをすると、千代は台所へ向かった。ホタルカズラの入った扉を開けると天井から光が差し込んでくる。いつもの明るい我が家に平子はホッと息をついた。

「今日はトメさん、そら豆焼いてくれとったみたい」
「あぁ、春やもんなぁ」

 ことりと鮮やかな緑が食卓に並ぶ。春、と言って帰路に見た薄桃色の地面が脳裏に浮かんだ。

「隊舎沿いの桜、みんな今日の風で散ってしもてたわ」
「あら、勿体ないですねぇ」
「ん?今日飲んでもええのん?」

 お猪口に注がれた日本酒に首を傾げる。真子さんはすぐ調子乗って飲みすぎるからダメ、と節制されがちなのに。

「まぁ、花見酒もええかなぁって」

 うちにも、と空のお猪口を平子に差し出す。トクトクと注ぎながら平子は、話聞いとった?と返す。

「春の名残で花見酒」

 そう言いながら平子の顔に手を伸ばす。ほら、と楽しそうに見せられたのは一本の桜の花。どうやら突風に煽られた時に髪に付けて帰ってきたらしく、どうりで寝起きに千代が笑ったのだと合点がいった。

「花びらやなくて丸ごと付けてくるやもん」
「ずっと頭につけてアホみたいやん、早よ言うてや!もう付いてへんか?」
「ん〜〜あ、こっちにも」

 クスクスと笑いながら取るものだから、妙に気恥ずかしくて思わず千代の額にデコピンをかます。
 全てが取れて漸く酒に手を伸ばす。香ばしく焼かれたそら豆を口にしながら、酒がスッと喉の奥に消える感覚に舌鼓を打った。今日は少し上等な酒を出してくれたらしく、辛口の酒が喉の奥をするりと通り抜ける。

 何時もと同じようにご飯を食べて風呂に入って。けれども今日は特に本を読む気にもなれなくて、縁側でぼんやりと空を見上げていた。薄い雲が風に流れて三日月は隠れたり現れたりを繰り返す。

「…何かあったん?」

 髪を拭きながら千代も寝室にやってくる。

「や、なんも」
「ふぅん」

 当たり前のように隣に千代も座る。まだ肌寒い夜の空気にふるりと肩を震わせていたので、自分のひざ掛けを千代の肩にかけた。

「もう少しお酒飲みますか?」
「ん?やー…ええわ、大丈夫」
「そ」

 そういえば、と千代は言いながら平子の手を取った。触れた肩と腕から伝わる熱が心地良い。

「真子さんに起こしてもらった時ね」
「ん?」
「あぁ、死ぬならこうがええなって思ったんよ」
「…は?」
「もし死ぬなら、真子さんの腕の中で死んでいけたらなぁって」
「縁起でもないこと言うんやない」

 突然何を言い出すんだと思わず握る手に力が入る。

「別に普通やないの」
「今聞きたァないんですゥ」
「え〜〜」

 何時もなら、きっと普通に受け止められたのに。何がいけなかったのか。
 死と隣り合わせの稼業をしていると、こういった類の話はそれこそ大して重たくもない日常会話として差し支えのない内容としてよく飛び交う。
 中にはどの死に方が理想か、なんて話が 瀞霊廷通信に特集される事もあるくらいで。
 平子はぐるぐると思い返すがイマイチ胸が閊える原因に思いたる節が見つからない。

「真子さん、ここ座らして」

 千代がトントンと指したのは自分の膝の間。体勢を整えると千代は自然な動作で自分の腕の中に収まる。

「あぁ、あったかぁ」
「オレを懐炉がわりにすんなや」
「はいはい」

 肩にかけていた膝掛けを2人の膝に乗せれば、ぬくぬくと冷えた空気の中で心地よい温かさが沁みる。

「やっぱ、ここがええなぁ」
「夏にならんかったらええのにな」
「そうやねぇ。ほんま、すぐに変わってまうんやもの」

 すぐに変わる、そう言われてハッとする。一晩で散ったはずの桜が目の前で吹き荒れたような気がした。

「なぁ、さっきの」
「はい?」
「アレ、あかんで。オレより先に死ぬんはナシ。オレが死んでから死んでくれ」

 抱きしめる腕にほんの僅かに力が篭る。

「隊長さんより先に死んだあかんってまた難しいこと言わはるわぁ。うち、ただの下っ端やのに」
「おーせやせや。やから精進してくれや」
「ちぇ、ええ案やと思ったのに」
「まぁでも確かに悪ぅはないな。ま、お前の腕ン中でオレが死ぬ場合やけど」

 危険な任務ばかりが付き纏う日常で、確かに彼女に看取られるならば。それは穏やかな最期かもしれない。

「オレが死んだら泣く?」
「さぁ、どうやろね」
「いや泣けや」
「ふふ、大丈夫。真子さんがうちを泣かせる事なんてあれへんよ」

 あやす様に腕をぽんぽんと叩く。彼女がそう言えば本当にそんな気がしてくるのだから不思議だった。

「真子さんはうちがおらん様なったら泣く?」
「…泣けへんわ」
「あら、仕返し?」
「そろそろ寝よか」
「せやねぇ」

 きっと、瞬き1つ、刹那の間に景色は変わる。それは良い方向にも悪い方向にも、平等に、残酷に。

「どしたん」
「なんかまだ考え事してそうな顔しとるから」

 もそもそと狭い布団の中に千代が潜り込んでくる。彼女の腰に腕を回せばやはり温かい。
 いつだって他人を眺めるのが好きだった。他人の感情の機微を眺めるのは面白く、支えてやるのも人の成長を見守るのも、得意の領分だった。
 そうやって多くと関わる中で、中々思い通りにならなかった彼女は、時折こうして気まぐれに擦り寄ってくる。

「おやすみなさい、真子さん」
「ん、おやすみ」

 彼女の髪から僅かに漂う薄く甘い香りに酔いしれながら、平子はゆっくりと目を閉じた。きっといつか、全てが色を変える日が来る。それは明日かもしれないし100年後かもしれない。
 そしてこれは、いつかそんな日もあったと思い返すであろう、いつかの夜の話になるのだろう。
 もし例え、そのいつかが来たとしても。彼女が隣に寄り添っていた日々だけは、いつまでも掌に残るに違いないのだと、愛おしい存在にそっと唇を落とした。