だいぶ日が長くなったある日、桜がはらはらと夕方の河川敷を舞うのをぼんやりと眺めながら歩いていた。会議の終わり、今日はいい天気だからといつもより少しだけ遠回りの穏やかな時間。
 数歩後ろを副官が付いてきている。1人で散歩をしたかったのに仕事から脱走されては困りますからと副官は首を横に振った。お互いに会話はないまま、川のせせらぎだけが耳に届いていた。

「何されてるんですか、隊長」

 自分が急にしゃがみ込んでごそごそと手を動かしているのを不審に思った藍染が声を掛けた。

「菜の花、美味そうやん」

 ぶちぶちと繊維が切れる音がする。できるだけ蕾の開いてないものを、小太刀で摘んでいった。1束満足いく量が取れると伸びをしながらまた河川敷を歩いた。これは胡麻和えにしてもらうか、辛子和えにしてもらうか。
 想像だけで空腹が進んで早く家に帰りたくて仕方がなくなる。

「なァ、今日は別に定時で上がってかまへんよな」
「そうですね、明日馬車馬のように働いてくだされば構いませんよ」
「いや、締め日間近な案件なかったやろ!」
「庶務が黙ってますよ、隊長」

 げぇ、と顔を顰めながら菜の花を片手に抱いて、また気怠くなって背中を折り曲げた。休みの日に花見をしたいが果たして休日まで保つだろうか。


= = = = =


「ただいまァ」

 もそもそもと草履を解きながら菜の花を脇に雑に置いた。空腹感も襲うがそれよりも今日は任務で汚れから先に風呂に入ってしまいたかった。

「お帰りなさい、真子さん」
「風呂先行ってかまん?」
「あら、湯船沸かしてへんですよ」

 慌てた様子で踵を返す千代に湯浴みで構わんよ、と返す。

「ん、これ」
「あら」

 千代に菜の花を渡すと大きな欠伸を1つした。今日は疲れたからさっさと風呂に入ってさっさと飯を食べて、さっさと寝てしまおう。
 そう思って自分にしては烏の行水で風呂を済ませた。居間に戻ると千代がちょうど一つ目のおかずを机に並べたところだった。

「えらい早いやないですか。ご飯もうちょい待っててくださいね」
「別に慌てんでええよ。今日何なん?」
「ふきの炊いたやつとさわらの塩焼き」
「ん?菜の花は?」
「へ?」

 2人して頭に疑問符を浮かべながら目を合わせたあと、千代はちゃぶ台の上に視線を移した。自分もつられてそちらに目を向けると花瓶に菜の花が生けられていた。
 大きくて豪勢な、記憶があっていれば1番家で高い花瓶。菜の花には些か派手すぎてどうにも馴染んでいなさげな飾られ方をしていた。

「これ、食べる用やったん?」
「おん」
「……そうなん」

 何処となくガッカリした様子で千代は口に手を当てていた。

「まぁ…今までそんなんしてくれたこと、ないですもんね」

 千代の綺麗な指先がツンと開きかけの蕾を突いた。唇を少しだけ尖らせて、不服そうな様子だ。

「いや…」

 平子はどもりながら菜の花をもう一度見た。言われた通り、結婚してから花なんて贈った事はない。そんな事をするなんて柄でもないし、照れくさすぎてしようとも思っていなかった。
 想定外だったけれど、彼女は花を贈られたのだと思っていたらしい。食用だと気付いて拗ねている。
 そう気付いた瞬間、ぶわりと顔に熱が集まった。気のせいだと思いたくて口はへの字に曲がるし、今すぐに菜の花を庭に投げ捨てたい衝動に駆られる。

「真子さんてば」
「ぅ、や…なんや」

 視線を逸らす平子にずいずいと近寄る千代。平子は腕を伸ばして近寄るなと無言で拒否を示す。

「耳まで真っ赤よ」
「嘘やろ!」
「ふふ、真子さん、これ貰ってもいい?」

 嬉しそうに笑う千代を弱々しい手つきでシッシッと追い払った。空いた片手は顔を隠すのに使っていた。あぁもうこんなはずでは、と口はますますへの字に曲がっていく。

「ね、ダメ?」
「嫌や」
「おねがい」
「…なんやねん、もう。花贈るとかキャラちゃうやろ。やめてや」
「欲しい」
「うっ…」

 払っていた手を一回り小さい両手がぎゅうと握る。こんな顔をされると、もうダメだった。言うことを聞かざるを得ない気持ちにされてしまう。照れ臭くて堪らないのに、惚れた弱みとはこの事で。

「千代に、やる」
「ん、ありがとう」
「…その辺で摘んできたんにようそんな喜べんな」
「ふふふ、これがええの」

 やる、なんて酷く適当な返事にも千代は満足そうに笑みを見せた。

「あァもー!ほんま!」

 平子は顔もロクに合わさず小さくため息をつくと乱暴に菜の花を花瓶から抜き取って台所へと足を向けた。
 床に水が垂れるのもお構いなしで、千代もあまりに突然のことに反応が遅れてしまう。

「真子さん…?やっぱ食べるん?」

 千代の問いにも無言のまま、まな板の横に菜の花を置くと戸棚の奥をがさごそと漁っていた。あった、と小さな声とともに手に握られたのは花瓶がひとつ。白地にシンプルな浅葱色のラインの入ったそれ水を入れると菜の花を適当に生けた。

「こっちのが、合うやろ」
「わ」
「野の花にあれは合わんよ。白百合とか生けるやつやろ」

 顔が赤いまま、平子は視線を斜めに落として千代に花瓶を押し付けた。

「貰うんなら、綺麗に生けぇ」
「うん」
「ちゃんと世話したら1週間くらい楽しめるやろ」
「うん」
「…満足か?」
「うん、照れた真子さんが可愛くて」
「おい」

 顔の赤みはまだ取れないし千代と目を合わすこともままならない。苦し紛れに苦し紛れに花瓶を替えてみたがやはり恥ずかしい。

「腹減った」
「今ご飯よそうから持ってって?」
「ん」

 元々家の中で口数が多い方ではないが、今はかつてないくらい口調もぶっきらぼうだ。対称的に千代は鼻歌を歌いながら焼き魚を皿に盛り付けていた。

「なぁ」
「なぁに?」
「花貰うの、そんな嬉しいもんなん?」

 茶碗をちゃぶ台に置きながら、聞いてみるものの顔を見る気にはなれなかった。

「やって、特別な日みたいな感じするもの」
「ふぅん」

 千代の声色はいつもより少し高い。こんなに喜ぶのなら、もっと早くに贈ってもよかったかもしれないなんてことを思いつつもやはり照れ臭さは抜けなかった。

「うちね、黄色いお花が好きなんよ。覚えといてくださいね」
「ん」

 花束なんてやはり買うのは気恥ずかしくて。黄梅、水仙、向日葵。彼女の好きそうな花を見かけると、その度にこの日の千代の顔がよぎった。
 誕生日と結婚記念日に花束を贈るようになったのも、この日がきっかけになった。尤も、なんでもない日に贈るのはもっと気恥ずかしくて、なかなか出来やしなかったが。
 それでも時折、気まぐれに彼女の好きな黄色い花を一輪、机の上にそっと置いてみることがある。幸せそうに笑いながら枯れてしまうまで毎日水を替えて、水切りをして丁寧に世話をしていた。そんな姿を見てしまうと、気恥ずかしさを押しやってでも花を贈りたくなってしまっていた。
 ほんの数日間の確かな幸せの形に、花を贈るというのは悪くないと思うのだった。