篠突く雨の音に発砲音が混じった。薄暗い倉庫に響いた反響音が鳴りやまないうちに、ガシャンと大きな音がした。私を庇うようにして立っていた金髪の男性は、ふうと息を吐くとこちらを向いた。
「怪我はありませんか」
 優しい表情をした端正な顔に見下ろされる。あ、えっと、なんて意味を成さない言葉を繋げながらなんとか頷いた。ひゅう、と雨を乗せて風が吹く。感じた肌寒さに腕を擦ると、目の前の男が自らの上着を脱いで私に羽織らせた。ぎょっとして思わず大丈夫ですからと断ったのだが、有無を言わせない雰囲気に圧倒され受け取った。
「すみません、ありがとうございます」
 頭を下げると、人の良い笑みが返ってきた。それから心配そうに眉を下げて、男性は私をじっと見つめた。
「女性がこんなところに一人だなんて、危険ですよ。一体どんな用があったんです?」
 答えようと口を開いて、返答が用意できないことに気が付いた。どうして私はここにいるのだろう。そもそも、ここはどこ? 言い淀む私を見て、警戒していると思ったのか男性は懐からカード状の紙を取り出した。流れるような動作で目の前に差し出されたそれには職業と名前、それから連絡先が記されていた。
「申し遅れました。安室透、私立探偵をしています」
「ご丁寧に、どうも」
 何となく受け取る。続いて私も名乗った。自分の職業は分からない。しかし、親から貰った名前だけは忘れていないようでそっと安堵する。親の名前と顔は浮かんでこないけれど。そこまで考えてさっと血の気が引いた。
 急にふらついた私を、安室さんが大丈夫ですかと支えてくれる。目の前が酷く歪み、頭が混乱していた。私はxxxxで、この人は安室透さんで、それから、それから。他には何も浮かばなかった。どうして何も分からないのだろう。そういえば、安室さんがくれたこの紙は、なんという名称だったか。ずるずると座り込み、安室さんに促されるまま深呼吸をする。いくらか眩暈が引いた気がした。
「落ち着きましたか?」
 気遣うような声色にゆっくりと肯定する。すみません、と寄りかかっていた上体を起こした。無理やり口角を上げて安室さんを見上げれば、何か聞きたそうな瞳と目が合った。なんとなくこのまま視線を合わせているのが耐えられず、目を伏せて言葉を紡ぐ。
「わから、ないんです。自分の名前以外、なにも」
 息を飲む音が聞こえた。厄介ごとに出くわしたとでも思っただろうか。そう思うのも無理はない。安室さんが何かを言いかけたが、それが音になることは無かった。
 これからどうすれば良いのだろう。記憶がないどころか、持ち物も見当たらない。とりあえずは、警察にでも行くべきだろうか。安室さんには申し訳ないが、最寄りの警察署まで案内してもらいたい。恐る恐るその旨を伝えれば、案外あっさりと希望が通った。
 車を止めてあるからと案内された駐車場まで付いていき、どうぞと開けられた助手席のドアをくぐる。雨はまだ降り続いていて、安室さんが差してくれた傘には容赦なく水滴が打ち付けられていた。座りざま半分濡れた安室さんの肩に気付いて、居たたまれない気持ちが募った。

 つきましたよ、という言葉と共に車が止まったのは山奥の一軒家だった。別荘のように見える。最寄りの警察署をお願いしたはずなのだが、これは一体。随分と長い事車に揺られていた自覚はあったが、それほど辺鄙なところなのかと勝手に納得していたのだ。それともこれが、警察署というものだっただろうか。混乱した頭では上手く情報が処理できない。考えていても分かりっこないと、疑問をそのまま安室さんにぶつける。
「ああ、ここは僕の所有する別荘です。諸々の説明は中でじっくりとしますから、こちらへ。雨に濡れたままで風邪を引いたら大変です」
 ううん、尋ねてもよく分からない。初対面の男性に別荘へ連れ込まれる、と。そこだけ見れば怪しい事この上ないが、人の良さそうな安室さんに危ない雰囲気はない。もっとも、話を聞く以外に選択肢は初めから存在しないのだが。頭上にはてなマークを浮かべながらとことこと安室さんについていく。
 お邪魔します、と玄関から入る。一人暮らしには大きすぎるリビングが見渡せて、その奥にはアイランドキッチンまである。安室さんは奥の扉へ入っていったかと思うとすぐに戻ってきた。丁度予備があったので、と渡された女性ものの服に、もしかして彼女さんのものではと冷や汗が伝った。
「どうかしましたか? 体を冷やすといけませんから、そこの脱衣所で着替えてください」
 服を持ったまま動かない私に安室さんが声をかける。いくら何でも彼女さんのものを着るわけにはいかないと、渡された状態のまま返せばクツクツと笑い声が聞こえた。どうやら以前通販で間違えて買ってしまったものらしい。彼女なんていませんから安心してくださいと脱衣所に押し込められた。
 着替え終えてリビングヘ戻る。三人掛けの皮ソファに安室さんが座っていて、私に気が付くと紅茶を用意しましたとローテーブルの上を指さした。恐縮しながらソファへ腰かける。渡されたカップの温度が冷えた手をじんわりと侵食した。
「それで、xxさん」
 安室さんが身体ごとこちらへ向き直る。私も釣られて姿勢を正した。
「まず、謝らなければいけないことがあります。訳あって言えないことも多いのですが、先ほどお伝えした名前と職業は仮の物なんです」
 はあ、と自分でも間抜けな声が漏れた。理解の遅い私にもわかりやすいように、彼がかみ砕いて教えてくれた内容はこうだ。零と呼んでくれと言った彼は警察関係者だそうで、仕事の一貫として安室透を演じているらしい。記憶が戻るか、あるいは身元が明らかになるまで私を保護してくれるそうだ。確かに名前しか分からない今の状況では、身元の特定など不可能に等しい。行く当てもない。警察であれば安心かもしれない。税金の使い道はこんなところに、なんてどうでもいいことを覚えてしまった。
 私の保護や調査については零さんが担当となってくれたようで、今から知らない人に会うよりもずっと良いと安堵した。口調が敬語でなくなってもどことなく穏やかなままで、人当たりも良い。不幸中の幸いというべきか。
 ご迷惑をお掛けしますと深々と頭を下げる。迷惑なんかじゃないと優しく手を握りながら元気づけてくれた彼に、心がほんの少し軽くなった。

+++

 xxと初めて出会ったのは警察学校時代だった。彼女ができたんだと嬉しそうに話す友人があまりにも幸せそうで、他の仲間とこっそり彼のデートへ赴いた。始終締まりの無い表情をしていた友人の隣を見て、体中に電撃が走った感覚がしたのを今でもしっかりと覚えている。生まれて初めて一目惚れをした。それも大切な友人の恋人に。最初は罪悪感や自己嫌悪でいっぱいだった心も、“彼氏の友達”としてxxと接しているうち、どうしてもxxが欲しいという願望で塗り替えられていった。
 冗談を言うような調子で「あいつなんてやめて俺にしろ」と誘いをかけるところから始め、マメに連絡をとり、友人には恋心と悟られないよう気を付けながらxxへと必死にアプローチをかけた。警察学校を卒業して、潜入捜査官という職についてもxxへの恋情は消えなかった。それでもxxは俺に靡かず、同じく潜入捜査官となった友人を一途に想い続けていた。xxの隣に当たり前のように何年も居座り続け、これから先もずっとそうだと信じて疑わない友人に何度嫉妬したことか。xxが友人の名を紡ぐたびに、腹の底からせり上がる汚い感情が溢れ出ようとした。それでも彼が大切なことには変わりなかったし、xxも彼もそう簡単に諦められるものではなかった。
 だから彼――スコッチが死んだとき、散々嘆き悲しんだあとに残ったのは彼の無念を晴らしたいという弔う気持ちと、xxがやっと手に入るというほの暗い歓喜だった。あいつならきっと、自分の変わりに彼女を幸せにしてくれと言うだろう。そう勝手に解釈をつけて、ドロドロした身勝手を胸にxxへスコッチの死を告げた。さめざめと泣く彼女を一心に励まし、可能な限り傍にいた。数カ月経ってxxも落ち着いたであろう頃、以前よりもずっと親密になったと確信していた俺は、思い切って告白をした。結果は惨敗。「まだ彼が忘れられないの」と悲しみと愛情を乗せて微笑む彼女に、なんと返したかは覚えていない。死んだお前にだって勝てないのか、スコッチ。心の中でそう自嘲したとき、自分の中で何かがはじけた。
 忘れられないなら、忘れさせてやればいい。xxがあいつを想ってそんな表情をするくらいなら、忘れてしまえばいい。辛い事や苦しいことは、全部俺が塗り替えてやればいい。そんな最低なことを考えていると、ますます清く誠実な友人には敵わなくなる気がしてやるせなさが渦を巻いた。

 一度抱いた濁った感情というのはそう簡単に消えるはずもなく、ジンから「スコッチの女を始末しろ」と命令が下ったとき、チャンスだと思った。xxをひと気のない倉庫へと呼び出し、組織からくすねた薬を盛ってやれば流れるように事は運んだ。もともと恋人の死で弱っていた彼女の精神は、信頼していた俺に裏切られたショックと薬の作用で容易く崩壊する。スコッチの死を告げた日もこんな雨だったか、と外を見遣って呟いた。焦点の合わない瞳で立ちすくむ彼女へ手を伸ばす。反応はない。もっと大きな刺激が必要だろう。“始末”用に持っていた銃を壁へ発砲した。小さくxxの睫毛が震える。すぐさま持っていた銃を遠くに放り投げた。
「怪我はありませんか」
 振り返りざまに優しく問いかければ、xxは困惑した様子ながらもコクリと頷いた。
 それから計画していた通りにxxをセーフハウスへと連れ込み、嘘と本当を織り交ぜながら状況を説明する。最初こそ幽かに警戒の色を見せたものの、最終的にはご迷惑をおかけしますと頭を下げた彼女を、どうしようもなく愛しいと思った。

 xxを保護してから、いくつか季節が廻った。未だxxの記憶は戻らない。あの日、倉庫で聞いた銃声と雨音が彼女の記憶の始まりのようだ。何か思いだせるかも、と理由をつけて何度も一緒に外出をした。名の知れた観光名所から知る人ぞ知る秘湯まで。かつてあいつと行ったのだと聞かされた場所には、もう俺との思い出しか存在しない。そう考えると、心臓のあたりがきゅっと甘い音をたてた。
 今日はxxお気に入りのフラワーガーデンへ来ている。園内を一通り回って、休憩がてらベンチへ腰かけ薔薇園を眺めているときだった。
「私、このまま記憶が戻らなくても良い気がしてきました」
 ふいにxxがそんな事をいうものだから、勢いよく隣を向いた。驚いて見つめれば、xxはへらりと笑って「なんて」と付け足した。俺が何も言わなかったから、否定されるとでも思ったのだろうか。あるいは本当に冗談だったのか。それでも一縷の希望を捨てきれず、どうしてかと問えばxxは恥ずかしそうに笑った。
「零さんが、いてくれますから」
 やっと、やっとか。歓喜と緊張で狭まった気道のせいで、呟いた彼女の名前は音にならなかった。震える手で隣に座るxxへと手を伸ばし、その細い体が壊れないようにそっと包み込む。少しの間。弱い力で回された背中の小さな手に、積年の想いが報われたことを感じた。
 悪いなスコッチ、もう俺のものだ。


リクエストありがとうございました。
応募ページを公開した直後にゆうなさまからの回答が届き、その内容に思わず「天才か……」と拝み倒しました。企画を心待ちにしてくださっていたようで、とても嬉しかったです。
本当にありがとうございました。

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