「別れてもらえませんか」
 呟くように、しかしはっきりとそう告げた。カラン。零さんの持っていた箸がフローリングに転がった。視界の端にそれを認めながらも、零さんから目は逸らさない。青い瞳が大きく揺れて、形の良い唇も震えだす。心なしか青ざめているようにも見える。しかし一言たりとも言葉が紡がれることは無かった。
 無言は肯定。都合の良いようにそう解釈をして、口角を上げた。転がった箸を拾ってテーブルに戻す。零さんは私をじっと見つめたまま、ぎゅっと眉を寄せて何か言いたげにしていた。生憎、心を読む術は持ち合わせていないので言葉にされなければ分からない。
「さよなら。今までありがとうございました」
 綺麗に笑えた自信はある。座ったままの零さんに軽く頭をさげた。目の前の彼はそれに少し目を見開いて、身じろぐ。零さんが癇癪を起こす前に、三十六計逃げるに如かずとその場を後にした。背後でうめくような声がしたが、聞こえなかった振りをした。

 何となく急に全てが面倒になって出てきたは良いが、これからどうしようか。エントランスを通り抜けて最寄りの駅まで来たところで考える。
 今日は一日何をしていたのか、誰と会ってどんな話をしたのか。至る所に付けた盗聴器で知っているくせに、一々聞くものだから嫌気がさしてしまったのだ。恋人だという妄想を正すよりも、破局に持っていった方が簡単だ。そのことに気が付いたのは、零さんと暮らし始めてから随分経ってからだった。それから別れ話をする機会をうかがっていたのだが、今日、深く考えることなく消費してしまった。上手くいったのは良いが、もっと計画的に実行するべきだっただろうか。後悔しても仕方ない。
 軽く息を吐いて、周囲の高いビルを見上げる。確かこの辺りにビジネスホテルがあったはずだ。そろそろ終電で、どうせ遠出はできないのだからここで一泊くらいしても問題ないだろう。駅に隣接した立地が売りのホテルチェーンを見つけて歩き出した。

 うまいこと部屋が空いていて良かった。受付を済ませてキーを貰う。朝食付きで一泊八千円。まあこんなものか。カードキーをかざすと電子ロックが青く光った。ドアを開けて部屋を見回す。シングルベッドに机と椅子、テレビ、鏡。何の変哲もないビジネスホテルの一室だ。荷物を部屋の端に下ろしてベッドへ倒れこんだ。硬い感触がする。それでも疲れた体には十分で、段々と意識が遠のいていった。ああいけない。まだシャワーも浴びていないのに。そうは思えど睡魔はじわじわと脳を侵食し、ついには私を食い尽くした。

 お腹に何か重いものが乗って、圧迫されている。金縛りというやつだろうかと思ったが、あの独特な痺れる感触は襲ってきていない。ただ窮屈で、試しに力を入れた指は難なくピクリと動いたのが分かった。恐る恐る目を開ける。暗い部屋の中、人型が見えた。悲鳴が喉の奥で閊える。暗くて私の上に乗る人の顔は見えないが、よくよく目を凝らせば知った男だと分かった。
「起きたのか、xx」
 零さんは穏やかな口調で、ゆっくりと私の頬を撫でた。どうしてここに。ゾワリと鳥肌が立つ。携帯はあの部屋に置いてきたし、このホテルは全室オートロックだったはずだ。ピッキング技術は電子ロックにも通用するの? なんてとぼけている場合ではない。
 お腹の上に乗っている男が邪魔だが、横に手をついて無理に起き上がろうとする。零さんはそれに気が付いて、少しだけ腰を浮かせた。おや、どいてくれるのか。なんて僅かな期待は裏切られ、その大きな身体は少し下にずれただけだ。私が逃げ出さないための重りは太腿あたりに健在だが、呼吸は大分楽になった。上半身も起こすことが出来る。起き上がったことで一層零さんと顔の距離が近付いた。息が、少しだけ荒い。
「どうして、どうして。教えてくれ。何が気に入らなかったんだ?」
 大きくて骨ばった手は、横についたままの私の手を上からぎゅっと包み込む。零さんの吐息が上から降ってきた。暗さに慣れた目でも、表情はよく見えない。
「過ぎた束縛が嫌になった。それだけです」
「束縛?」
 淡々とそう告げれば、零さんは心底不思議そうに首を傾げた。何のことだとも言いたげなその態度に、僅かに眉を顰める。本当に心当たりがないのだろうか。はぁ、と聞こえるように大きくため息をつく。ビクリと広い肩が揺れた。
「GPSで逐一私の居場所を把握し、盗聴器や監視カメラで会話や行動を記録。外出報告をしなければ私のいる場所に飛んでくるし、他人と連絡をとることさえも制限されて、零さんが認めた人としか電話もメールもできない。携帯のペアリングでプライバシーも何もあったものではありません。これのどこが、束縛ではない、と?」
 じっと睨むように見つめれば、私の手を握る腕に力が入ったのが分かった。
「全部、あなたのためだ。あなたを守るため。いつ危険な目に合うかわからないから、そうなってもすぐに助けられるようにいつも見ている。あなたに近づく人間だって、必ずしも善良だとは限らない。xx、あなたを守るためにはこうする他ないんだ」
 とんでもない、押し付け理論だ。そもそも零さんと関わらなければ、危険な目にあうこともそうそう無いのだ。零さんと暮らす前の私は、謎の黒い組織とだって何の縁もなかったし、行く先々で事件に出会うこともなかった。
「本当に、そう思うんですか?」
 挑発的に見上げる。自分とさえ、一緒に居なければ。聡明な彼がこのことに気付いていないはずはない、と思うのだが。零さんは苦しそうに唇を噛んだ。うう、と低い声が漏れている。何度か浅い呼吸音がした。もしかして、泣いているのだろうか。確認するため、試しに目の下に触れようとして、やめた。また勘違いされても困る。
「確かに、あなたを守るためだけじゃ、ない」
 妙に上ずった声は、暗闇の中で一層響いた。
「xxのことは全部知っていたい。あなたの全てを俺が持っていたいし、俺の全てをあなたが持っていて欲しい。俺にはあなたが必要で、同じくらいあなたに必要とされたい。どこにもいかないで、ずっと隣にいてほしい。他の男に――いや、女にさえ、あなたを近づけたくない。あなたが心変わりするはずはないが、不安なんだ。だから俺の存在を思い出させるものをあなたの傍に置いておけば、あなたはずっと俺の事を考えてくれると思った。存在を感じてくれると思った。それがマイクやカメラであれば、俺もあなたの全部を知ることが出来る。こんなに幸せなことはないだろ」
 一気にまくしたてられ、眩暈がした。力が抜けそうになるのを一所懸命に堪える。ぽつり。布に、水滴が落ちる音がした。やはり、泣いていたのか。目を凝らして零さんの顔を見つめれば、潤んだ瞳が伏せられて、涙が長い睫毛を伝った。
 泣き落としは、女性の特権ではなかったのか。別れを撤回する気にはならないが、少しだけ罪悪感が滲む。何と声をかけるべきか悩んでいれば、上から近づいてきた彼の額が私の額に合わさった。鼻も触れる。このまま、流されるわけにはいかない。あやうくキスでもしそうな程に近づいてしまったので、あと一歩というところで顎を引いた。数センチの隙間が隔たる。零さんから動揺の声が漏れた。
 なんで、どうして。零さんはわなわなと震えだしたかと思えば、私の両手をやっと解放して懐を探った。カチャカチャと金属音がする。聞いたことのない音だ。上に乗ったままの彼を眺めていると、硬くて冷たい何かが胸に突き付けられた。
「俺のことが嫌いになったのか? あんなに好きだと言ってくれたのに。いやだ。いやだいやだ。俺を拒絶するなんて許さない。あなたも俺から離れて、消えていくなんて、絶対にさせない。ずっと俺と、俺だけと一緒にいてくれ。それができないなら、今ここで、あなたと二人だけで、全部終わらせる。あなたが隣にいない未来なんて意味がない。そんな未来はいらない。だから、最期は一緒に」
 ね、と私を覗き込んだ零さんは、きっと笑っているのだろう。一方私の表情は引き攣るばかりだ。そろりと視線を下ろす。どうやら、私の胸に当たっているのは日本で個人的な所持が認められていない危険物であることがわかった。守ると言った舌の根の乾かぬうちにこれだ。呆れてそっと目を細めた。恐怖が無いとは言わないが、殺されない方法は心得ていた。
 ゆっくりと銃口を握って、押し返す。まだ、死にたくないなあ。そうヘラリと笑えば、ぐっと零さんの喉で息が詰まった。その喉元に顔を寄せる。ごくり。大きく嚥下したのがわかった。それから嬉しそうな笑い声が直に伝わる。
「なんだ、xx、あなたはなんて酷いひとだ」
 また何か幸せな解釈をしてくれたらしい。零さんは銃を放り出し、優しく私の背中を撫でた。
「俺の愛を試したんだろう? ここ数日は帰りも遅くて、不安にさせたな。こんなことをしなくても、俺にはxxしかいないんだ。十分伝わっているだろ」
 先程までとは打って変わって快活な口調で、零さんは言った。よかった、よかった、としきりに呟いている。命の危機は脱したが、また誤解を深めてしまった。零さんに気付かれないよう、今日何度目か分からないため息を吐く。逃げ場はあの世にしかないのだろうかと途方に暮れた。


ウスターさま、リクエストありがとうございました。
降谷さんは厄介ですが、何でも幸せな方向に考える天才なので、ちょろいのです。
応援の言葉ありがとうございました。頑張ります。

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