上手く動かない足を必死に前へ出し、息が上がるのもそのままにひたすら走った。全身に余計な力が入ってしまい、酷く疲れる。それでも立ち止まるわけにはいかない。後ろを確認する術はないが、誰かがつけてきているような気配はいつまで経っても消えなかった。
 交差点を曲がれば、大通りだ。人通りも多くなるはず。最近名を聞く探偵事務所だってある。もうとっくに日も落ちた頃だが、夜分遅くというには少し早い。営業時間内であることを祈りつつそこへ向かった。
 カランコロン。目的地まであと十歩ばかりというところで、一階にある店の扉が開いた。中から男性が出てくる。店員だろうか。男性はこちらを見て何事かと驚いた表情をしたが、私の後方に視線を移すと、その顔が一気に険しいものに変わった。
「こちらへ!」
 突然、ぐっと腕を引かれて体勢が崩れる。彼はそれをしっかりと受け止めると、流れるように私を店内に押し込んだ。
「……逃げたか」
 私が走ってきた方向を睨み、男性は低い声でこぼした。扉をゆっくり閉めると、私へ向き直る。一瞬前とは全く違う、じわりと安心させるような笑みだった。助けてくれたのだろうか。あのストーカーから。
 なんとかお礼を言おうと息を吸い込む。それを吐き出す前に、男性が私を客席へと案内した。「少々お待ちを」と店の奥へ消えたかと思えば、毛布と紅茶まで手渡される。対応の良さに感心しながら、謝罪とお礼の言葉を述べた。男性は「当然の事をしたまでです」と優しく私を見つめた。彼はそのまま向かいの席に腰を下ろす。
「安室透です。ここでアルバイトをしながら、私立探偵も営んでおります」
 唐突に自己紹介をしたかと思えば、慣れた様子で名刺が取り出された。見れば、確かにそう書いてある。私も同じように名刺を差し出して頭を下げた。
「それで、xxさん」
 安室さんが真剣な顔をしてテーブルの上で指先を組んだ。
「差し支えなければ、先ほどのことについてお話していただけませんか」
 思い出して、すっと背筋が凍る。膝に掛けた毛布を握る手に力が入った。毛利探偵に相談するつもりだったが、安室さんに頼るのも良い考えかもしれない。ひとつ頷いて、記憶を辿りながら言葉を紡いだ。
 ここ二週間、後ろをついてくる人の気配がしていたこと。最初は気のせいだと思っていたが、外にいるときはずっと視線を感じるようになったこと。一週間前から非通知で無言電話が来るようになったこと。そして今日、ついに声をかけられたので怖くなって逃げだしてきたこと。
 安室さんは時折質問を挟みながら私の話を聞いていた。そして話を聞き終えると、見事なまでに目元を優しげに細めて言った。
「でしたら、この僕にお任せください」
 そう自信たっぷりな様子を見せられては、彼に委ねる他ない。躊躇することなく、お願いしますと返事をした。


 あれから数日経ったが、嫌な気配は消えない。安室さんとも頻繁に連絡を取り、毎日のようにポアロへ逃げ込んでいる。そのまま家まで送ってもらうことも屡々ある。クライアントとはいえ、世話のかかるやつだと思われているだろうか。申し訳なくは思うものの、安室さんが迎えてくれるあの空間が私の唯一の逃げ場なのだ。家にいるときでさえ安心していられない。インターホンが鳴るたびに肩が跳ねる。携帯が非通知の着信を知らせているときも、一人でじっと気付かないふりをして恐怖に耐えるしかない。
「いらっしゃいませ、xxさん」
 今日も駆け込み寺の鐘を鳴らして中へ入れば安室さんがカウンターの奥で仕事をしていた。すっかり常連になってしまった居心地のいい喫茶店の席に座る。閉店時間が迫っているからか、店内にお客さんは少ない。
「犯人は絞り込めつつありますが特定にはもう少しだけ時間がかかりそうです。すみません、怖い思いをさせ続けてしまって」
 安室さんは声を潜めて言った。現状、タクシーとしての役割しか果たせていないと思っているらしい。とんでもない。こちらからしてみれば、それだけでも大変ありがたいことである。連絡していただければいつでも駆け付けますから、とも付け加えられる。社交辞令だとしても頼もしい限りだ。

 安室さんのシフトが終わるまで店内でゆっくりしていれば、窓の外に不穏な人影が見えた。まさか。見ない方が良いとは思いながらも確かめないわけにはいかず、暗くて分かりづらい輪郭を追う。ああ最悪だ。出待ちするほどのファンなのね、なんて冗談も笑えない。
 指先が、嫌に冷えた。紅茶のカップを両手で覆う。温かいはずのそれは、私に熱を分けてはくれなかった。カタカタと音がする。無意識に震えていたらしい。ぱっとカップから手を離して、両手を胸のあたりでぎゅっと握った。
「どうかしましたか?」
 安室さんが異変に気付いてこちらへ歩み寄った。私は顔を青ざめさせたまま、ゆっくりと店の外を指さす。彼はそちらへ視線を向けると、すぐに顔色を変えた。
「あの男が、例の?」
 確認するように私へ囁く。コクリ。声も出せぬままに頷くと、安室さんは何事か呟いて私の冷えた手を握った。温かい。
「先に裏口から出ていてください。僕もすぐに行きます」
 男から私を隠すように移動すると、安室さんは「さあ」と急かした。離れた手がまた冷たい。心細い気持ちをなんとか奮い立たせながら安室さんを待つ。数分もしないうちに待ち人はやってきた。
「よかった」
 安堵して出た声は、自分で思っていたよりも掠れていた。安室さんはそれに優しい表情で返すと、ゆっくりと私の手をとった。さもそれが当たり前であるかのように歩き出す。重ねられた安心感を振り払う事も出来ずに疑問符のついた視線だけを投げれば、安室さんは「震えていたようでしたので」と更にきゅっと指先を絡めた。嫌でしたか? その問いに慌てて首を振る。嫌ではないが、そんなことをされたら意識せずにはいられない。妙に気恥ずかしくなって、視線を彷徨わせた。


 安室さんから、犯人を特定したとの連絡があった。被害が尾行と電話のみであり、身体的な危害を加えられていないので捕まえることは出来ないが、警察に厳重注意を頼んでくれたらしい。良かったですね。安室さんがいつもの調子でニコリと笑った。私も釣られて同じような顔をする。ありがとうございましたと深々と頭を下げ乍ら、僅かに芽生えた惜しい気持ちに内心苦笑した。
 もう大丈夫ですよ、という安室さんの言葉通りそれからストーカーの気配がすることは無かった。これは本格的に解決だろうと安堵する。だから、気を抜いていたのかもしれない。
 仕事帰り。夜道を一人でゆっくりと歩く。あれこれと考え事をしながら家路についたからだろうか、カチャリと家の鍵を閉めて靴を脱ぎかけたとき、ドンドンドンと強い力で扉が叩かれるまで、全く異変に気が付かなかった。
「xxちゃん? いるんでしょ、今さっき帰ってきたところ、ちゃァんと見たよ」
 打撃音の間に、ねっとりとした男の声が扉越しに聞こえた。ひっ。引き攣った声を洩らしてから勢いよく片手で口を塞ぐ。扉が壊れてしまうのではないかと心配になるほど大きな音がする。恐怖からくる涙で視界が滲むなか、しっかり鍵とチェーンがかかっていることを確認してからリビングへと這って逃げた。
「あ、あむろ、さん、ごめんなさ、あの」
 身体を小さく縮めて電話をかける。真っ先に助けを求める先で浮かんだのは安室さんだった。
「たすけて、くださ、こわくて、わたし、また」
 やっとのことで声を絞り出し、迷惑だっただろうに安室さんは文句の一つも言うことなく「わかりました」と返事をしてこちらへ向かってくれるようだった。少しでも孤独を感じないようにと通話を切らない配慮までしてくれる。一心に押し当てた携帯電話から聞こえる励ましの声に縋りついた。

 数十分して「着きましたよ」という安室さんの声とともに、電話の向こうからも私を呼び続ける男の声がした。そこにいるらしい。彼も、男も。途端、通話が切れた。同時に男の声と扉を叩く音も止む。何度か別の大きな音がしたかと思うと、扉の向こうから安室さんの声がした。
「xxさん、終わりましたよ」
 恐る恐る、ロックを解除して扉を数センチ開ける。求めていた金色と褐色に酷く落ち着いた。安室さん。続ける言葉もなく呟けば、その大きな身体に包まれた。また、だ。今度は全身が温かい。その時、安室さんが心の中で計画通りと口角を吊り上げていることに気付けるほど、私は聡い人間ではなかった。


リクエストありがとうございました。

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