夜のカフェテラス。実際に来てみれば、ぱっと頭に浮かぶ有名なあれほど綺麗なものではなかった。海外のそれとは少しばかり違うらしい。まあ、それもそうか。十分に酒の回った客たちが、やいのやいのと騒ぎ立てている。もはや気軽に入れるバーだ。火照った顔を嬉しそうに垂らし、肩を組んで語り合う者たちもいた。それとは別に、テラス席の奥にある店内。歩を進めれば、賑やかな場所から少し離れて座る知った顔を見つけて片手をあげた。
「ライ」
 短く名前を呼んで、その男の前に腰を下ろす。ライはこちらを一瞥すると、特に何の挨拶もせず煙草を咥えた。不愛想な男だ。いつも不機嫌に銃をちらつかせる銀色ほどではないが、この男との仕事はやりづらい。仕事仲間と余計な軋轢を生まぬようにする努力くらいしてほしいものだ。余計な力が入りそうになる眉を抑え、出来るだけ声を潜めて話しかけた。
「クライアントは?」
 眼球だけを動かして店内を見回す。テラス連中の仲間らしい数人と、女性四人グループ、一組の男女、そして連れのいないらしい男。こうして見れば、聞くまでもなかった。あいつか。視線だけでライに問えば「ああ」と返事があった。腕時計に視線を落とす。丁度約束の時間だ。
「では、手筈通りに」
 胸ポケットに、事前に渡されたUSBメモリがあるのを確認して席を立つ。中身は知らされていない。コードネームを貰ったとはいえ、降りてくる情報は未だ少なかった。自分はただこれを男に渡し、引き換えに似たような媒体を受け取る。それだけだ。
 潜った直後ならば子供にでもできる簡単なお使いだと鼻で笑ったかもしれないが、今では軽率にそんなこともできなくなってしまった。入った組織はどこもかしこも敵だらけのようで、取引先に裏切られることもざらだ。受け渡し時には、万が一を考えて護衛がつく。今回の護衛がライというわけだ。構成員を使い捨てる印象のあった組織にしては珍しい。
「ハッピーバースデー」
 旧知の友にするような軽い調子で、男の肩を二度叩く。
「ああ、どうも。待ちくたびれたよ」
 男はいかつい顔をこちらへ向けた。自身の隣のカウンター席に指を置き、トントンと音を鳴らしている。座っていいらしい。店員に、男と同じ飲み物を注文した。すぐにカクテルが運ばれてくる。手を付ける気はない。
「プレゼントは用意してくれたんだよな?」
「そう責付かないでください」
 そわそわした様子で、男は急かした。それにニヤリと応えてポケットを叩く。男は一度咳払いをして、乱暴に頭を掻いた。余裕がないのか、そう見せているのか。どちらにしても無駄話をする気はないらしい。
「お返しも、期待して良いんですよね?」
 渡した直後、とんずらされても敵わない。暗にメモリは交換だと言えば、男もそこは心得ていたらしい。神妙に頷いてみせた。
 途端、男の身体が軽く揺れる。
「あっ、ごめんなさい」
 誰かがぶつかったらしい。見れば、先ほどいたカップルの女性の方だ。ほろ酔いで高いヒールなんて履くものだからふらついたのだろう。ゆるく纏められた髪の間から見える耳がピンク色に染まっていた。
 ぶつかられた男の方は、愛想よく「気にしていない」と笑っている。目立たないためには最良の対応だ。美人に鼻の下を伸ばしているようにも見えるが。女性はひとしきり謝って化粧室へと入っていった。そばを通る際に、ふわり。女性らしい香りが鼻を掠めた。
 男は女性を目で追っている。コホン。咳払いをすれば、男はきまり悪そうに居住まいを正した。仕切り直して、お互いに警戒をみせながら受け渡しをする。
「失礼、確認させてください」
 端末に繋いで、ジンへと転送する。すぐさま問題ないとの連絡が返ってきた。それに安堵して男の方へ目を向ければ、男は懐に右手を忍ばせたまま驚愕していた。
「問題ない、だって? 貸せ」
 男は焦った様子で、こちらの端末を奪い取ろうとする。だが、そうやすやすと手渡すわけにもいかない。寸でのところでひょいと躱す。その拍子に、下からカシャンと硬い音がした。察して、見るより先に踏みつける。それから足元を確認すれば予想通り、デリンジャーだ。
「どういうつもりです?」
 睨みつければ、男はぐっと歯を食いしばった。
「畜生、話が違う。ウイルスはどうなった」
 口の中でそう言ったのが聞こえる。ウイルス? 不穏な単語に首を傾げるが、それは後で良い。この男は逃げる気だろう。ライに目配せをした。ライは席を立ち、不自然にならない程度に出入口の方へ移動した。退路を塞いでくれたらしい。
 がたっと男が椅子を蹴散らし、走り出す。しまった。退路は出入口ではないらしい。ライのいる方とは逆、店の奥にある化粧室へ向かう男に舌打ちをした。
 逃がすものかと自分も急ぐ。タイミングが良いのか悪いのか、化粧室の扉が開いた。先ほどの女性だ。女性は目の前に迫った男に驚いて悲鳴をあげる。危ない、このままでは彼女が。焦燥に駆られ、大声を出そうとしたところで女性が勢いよく扉を閉めた。鍵のかかる音もする。咄嗟のことで動けないのかと思いきや、中々の判断だ。化粧室は男女兼用で、この一つしかない。いくら男に筋力があったとて、短時間で扉を破るのは容易ではないだろう。
 退路を断たれた男は悔しげに立ち止まると、くるりと踵を返した。こちらへ向かってくる。自棄になったらしい。こうなればこちらのものだ。ふっと笑って男のために道を開ける。後ろにはライが控えているのだ。逃げられまい。思った通りで、男は簡単に拘束された。
 一件落着は良いが、随分と目立ってしまった。好奇の目に晒され居心地の悪さを覚えていると、警察手帳を持った人物に話しかけられた。カップルの、今度は男性の方だ。刑事がこんな騒ぎに出くわせば、当事者に声をかけないわけにもいかないだろう。忠実でよろしいことだが、今は具合が悪い。先ほど踏みつけたデリンジャーをまだ隠せていないのだ。ライを探すが見当たらなかった。自分一人に取引相手と面倒ごとを押し付けて、さっさと帰ったらしい。この、裏切り者め。どうしたものかと視線を彷徨わせれば、いつのまにか女性の方も化粧室から出てきたようだった。彼女も、刑事だろうか。

「拳銃を所持した犯人確保のご協力、ありがとうございました」
 酔いを感じさせないほどにしっかりとした声色で、彼女は言った。取引相手の男は銃刀法違反の現行犯となった。こちらは簡単な事情聴取をうけただけだが、もう帰ってもいいらしい。面倒なことになったと内心思っていたのだが、こうもあっさり解放されてしまうと逆に疑わしい。何か裏があるのではと彼女をじっと見つめるが、無垢な微笑みで返されてしまった。杞憂か。
 それでは、と優雅に連れの男性刑事と店を出て行った彼女を見送る。緊張の糸が僅かに緩んで目を伏せれば、床に手帳のようなものが落ちているのが見えた。何だろうと拾い上げる。
――警察庁情報通信局所属 xxxx
 彼女の顔写真と共に記された文字を読んで、目を見開いた。そうか、そういうことだったのか。思わず感嘆の声が漏れる。
 つまり、彼女はすべて察していたのだ。こちらの状況も、敵の企みも。察したうえで、それを誰にも悟らせることなく俺に手を貸してくれた。男が動揺して言った「ウイルス」は、こちらへ寄越したメモリに入っていたはずだったのだろう。何が起こるはずだったのかは分からないが、あちら側に有利な展開となっていたはずだ。あの時、彼女が男にぶつかったとき、隙を見て細工をしたのではないか。情報通信局職員であれば遠隔操作でウイルス除去も不可能ではない。勿論それなりの腕は必要だが。退却の妨害だって、計算してのことだったのだろう。お陰で随分と助かった。それに、こう考えればあの杜撰な事情聴取にも納得がいく。
 大したものだ。彼女の香りを思い出して、小さく笑った。それから手帳にある名前をゆっくりとなぞる。xxxx。噛みしめるように心の中で呟く。その瞬間から、指先の文字列が至極大切なものに思えた。


 それからいつ彼女と恋人になったか、正直よく覚えていない。xxとの思い出はすべて忘れまいとしているのだが、これだけは思いだせなかった。しかし、それでもいい。なぜなら、今日も俺は彼女と愛を確かめ合うことが出来ているのだから。すれ違いざま、一瞬だけ交わる視線に満足して熱い息を吐いた。


夏子さま、リクエストありがとうございました。
しっかりとした理由はなくとも、好きになったきっかけくらいはあるはずだということに、夏子さまからこのリクエストを頂いて初めて気が付きました。
嬉しいお言葉ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。

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