「よし、大体これで終わりか?」
 積み上げたダンボール箱を下ろして一息ついた。休日の昼下がり、都内某マンションの一室にいる。自分の部屋ではない。それなりにしっかりとしたセキュリティを備え、立地も悪くない。広さだって、一人暮らしには十分だ。
それなのに、何が不満だというのか。引っ越し作業をほとんど俺に任せ、先ほどから不貞腐れた様子の恋人を見下ろす。零はクッションを抱きかかえて横になっていた。丸まった姿勢をとらないと、その長い脚が収まりきらないらしい。
「ソファを占拠するな、座れないだろ」
 溜息とともにそう告げれば、零は不服そうに眉を寄せながら起き上がった。クッションは未だ彼の腕にとらわれたままだ。おまけに顔まで埋められている。
 本当にどうしたものかと肩をすくめて、空いたスペースに腰を下ろした。朝からたちっぱなしで、とても疲れた。ちょっと休憩。スマホを取り出して眺めようとすれば、ずるりと零がこちらへ倒れてきた。サラサラの髪が首筋に当たる。人の頭とは案外重いものだなと眺めていれば、零の手がスマホを奪った。抗議の声をあげるもそのままソファの端に置かれてしまう。何のつもりだと彼へ視線を戻したが、俯いたままで表情は見えなかった。
「零?」
 諫めるように名前を呼んだ。返事はない。その代わりに、出来が大変素晴らしいと噂の頭をぐりぐりと押し付けてくる。仕方なしに緩慢な動きで彼の頭を撫でた。そうすればぴたりと彼の動きが止まり、今度は甘えた声で「xx」と俺の名前を呼んだ。
「どうしたんだよ、さっきから」
 顔を覗き込もうにも、横から両腕を回されて身動きが取れない。クッションはいつのまにか足元に転がっていた。
 朝会ったときにはいつもよりも少し口数が少ない程度だった。彼はべつに朝が弱いというわけではないけれど、どうしても気合が入らない日というものはあるだろう。そう考えて別段気にすることもなく引っ越し作業を開始した。それから彼の機嫌は右肩下がりだ。
「恋しがっているのは俺だけか」
 不機嫌に呟かれた言葉の真意がつかめず、思わず聞き返す。零は拗ねたような口調で続けた。
「しばらくは、今までみたいに会えない」
 ぎゅっと俺を抱きしめる腕の力が強まった。なるほど、そういうことか。零の言葉をようやっとかみ砕き、ひとり納得する。
 彼はこれから潜入捜査を開始するにあたり、安室透としての生活を余儀なくされる。当然ながら登庁する頻度も減るだろうし、公安である俺との接触も無暗矢鱈とできない。よって逢瀬の回数も制限されるわけだ。それが寂しくて、零は朝から元気がなかったらしい。それなのに俺がいつも通り振舞うものだから余計に不満が募った、と。
「俺だって離れがたいけど、オシゴトだろ。それに、べつに今生の別れってわけでもあるまい」
 ふっと口元を緩めて、軽い調子で言う。確かに寂しくは思えども、それをああだこうだ言っても仕方がない。
 会える時間が多少減るだけだ。今までが濃密すぎたから、丁度良いのではないかとまで思っている。零には絶対に言えないけれど。登庁すれば必ず顔を合わせたし、家に帰っても必ず零がいた。同棲した覚えも、合鍵を渡した覚えもないのに。隣の部屋にいるのに雑談メールが来た時には驚いたものだ。
「xxと離れることになるなら、引き受けるんじゃなかった」
「そういうなって。安室透と俺が仲良くなればいい話だ」
 あやすように背中をぽんぽんと叩いてやれば、俺の肩に乗せていた頭をずるずると持ち上げた。
「最初から公安の男とつるんで、目立つわけにいかないだろ」
「あんなうるさい目立つ車に乗ってる男がよく言うよ」
 笑いかければ、零も少しだけ表情を柔らかくする。それからゆっくりと懐かしむように「あれは、xxがかっこいいって言ったから買ったんだ」と目を伏せた。知っている。俺の関心を引きたくて買ったんだろ。思い返して、妙な恥ずかしさと嬉しさに微笑んだ。零はそんな俺を見て僅かに目を見開くと「そうか」とこぼした。
 突然何を思いついたのか立ち上がると俺の両手を掴んで引っ張った。どうやら立てという事らしい。素直にそうすれば、今度は寝室に連れていかれる。引っ越し初日で、まだマットレスだけが置かれただけのベッドへ誘導されるがまま腰を下ろした。おいおい、まさか昼間からそんな。俺の焦りは杞憂だったようで、零はにこりと綺麗な笑みを浮かべて「目を瞑っていてくれ」と俺を見下ろした。さっきまでの落ち込みが嘘のように晴れ晴れとしている。

 カシャン。言われるまま目を閉じて待っていれば、金属音が聞こえると同時に冷たく硬い感触が手首に伝わった。何事かと目を開ける。目の前にはニコニコと満足顔の零がいた。視線を自らの手首に移せば手錠がはめられている。
「俺、何かした?」
 いつ罪を犯したと言うのか、問答無用でお縄とは。表情を引き攣らせて零に問えば、彼はサラリと髪を揺らして首を横に振った。どうやら無意識に犯罪者となったわけではないらしい。一安心するも拘束された手首はそのままだ。
「xxが今からずっとここにいれば良いんだ。そうすれば毎日xxに会えるし、潜入先で目を付けられる心配もない。俺がこの家に帰って来さえすれば、xxがいてくれる」
 零は恍惚とした表情で語りだした。いきなりのことに混乱している間も零は何やら喋り続けている。手錠で動きが制限された俺の世話は彼が全部担ってくれるらしい。零のことは好きだが、ごめん被りたいのだけれど。
「ちょっと、待って。ストップ」
 このまま流されてしまえばこの家からしばらく出られなくなってしまうと、慌てて声をあげる。繋がれていない方の手で零の頬を軽くたたけば、零は口を閉じて不思議そうに俺を見つめた。不思議なのはこっちだよ。
「この手錠は何だ?」
「あなたがここから離れないように」
「どうして俺を拘束するんだ?」
「ずっとxxと一緒にいたいから」
「だからってこんな――」
 冷静に問題解決へのアプローチを仕掛けたが、俺が抗議の声をあげようとすれば零はそれを察知したようで途端に眉を吊り上げた。ぐっと鼻先が触れそうなほどの距離に顔が近づけられ、彼の呼吸に合わせて吐息がかかる。
「やっぱり恋しいのは俺だけだったんだ! こっちが四六時中あなたの事を考えている時も、あなたは俺のことなんて気に掛けもしなかったんだろう? 今だってあなたは俺から離れたがってる。いくら俺が一緒に居たいと言っても、あなたはそれを叶えてはくれない。こんなに……こんなにあなたが好きなのに! あなただって、俺が好きだと言ってくれたのに!」
 呆気に取られて、青い虹彩の翳りと収縮した瞳孔を見つめ返すことしかできなかった。瞬きをする度に、彼の睫毛が触れそうになる。それがくすぐったいので、たくさんお喋りしたから休憩しようという意味も込めてさらに距離を縮めた。柔らかな唇だが、少し乾燥している。
「心配しなくても、ちゃんと好きだ」
「不安にさせて悪かったな」
「俺とお前で計画をたてれば、不審がられないように親密になるくらい簡単だって」
「冷静に考えて、監禁は得策ではないことくらいわかるだろ」
 零の機嫌を損ねないように、損ねそうになったら甘やかして説得をしていく。根気よく続けていれば、ようやっと零も落ち着いたようだった。取り乱した自覚はあるらしく、照れた様子で手錠を外してくれる。ああ酷い目にあったと自由になった利き手をひらひらと振った。零ははにかんで、それから俺を抱きしめると嬉しそうに自己紹介をした。
「はじめまして、安室透です」


はれるさま、リクエストありがとうございました。
特種設定にもかかわらず作品楽しんでいただけているようで嬉しいです。これからもよろしくお願いいたします。

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