こちらの世界へ来て、数か月が経った。赤井さんと彼の同僚に斡旋してもらった帝丹小学校の事務仕事も順調だ。赤井さんは仕事なんかしなくてもいいと言ってくれたが、いつまでも世間知らずなままではいられない。少しでも彼の迷惑にならないようにと頑張っている。
 一人暮らしにもだいぶ慣れてきた。赤井さんの心配を振り切って出てきた身ではあるが、最初は不安でいっぱいだった。けれども赤井さんが度々私の様子を見に来てくれるので寂しさも不安も感じてはいない。
 お先に失礼しますと職場を出て昇降口まで来たところで携帯が震えた。確認すれば、赤井さんからのメールだ。
“仕事お疲れ様。一人で駅まで来れそうか? 不安なら、少し時間はかかるが俺が迎えに行こう”
 気遣いの見られる文面にそっと笑みをこぼした。普段は口数の多くない彼だが、顔を合わせていない時は相応に気を遣うらしい。もっとも、無口でも優しいことに変わりはないのだけれど。
 大丈夫だという旨を返して携帯を閉じる。顔をあげざま、ふと目に入った鏡をのぞいた。髪型も崩れていないし、メイクも先ほど直したばかりだ。あ、ブラウスの襟がちょっとめくれている。一通り身だしなみをチェックして、鏡の前で口角を上げた。
 今日はこれから、赤井さんと待ち合わせをしてディナーに行く予定なのだ。待ち合わせなんて、ゲーム機の中で夢みたデートそのままだ。ふふ、と無意識に漏れた声があまりにも幸せそうで、自分でも驚いた。

 なんて、浮かれすぎていたのかもしれない。駅にほど近い、人通りもそこそこな大通りまで来た時だった。突如都会の喧騒を切り裂くように、女性の甲高い悲鳴があたりに響き渡った。それから一瞬の間があいて、あたりが一層賑やかになる。何事かと立ち止まり周囲を見回した。他の人たちも動揺にキョロキョロとしている。
 しばらくそうしていれば、人の波がこちらへ押し寄せてきた。何かから逃げているようだ。それに気づいた時には、もうすでに十メートルほど先に男が一人いるだけだった。他の人々は我先にと後方へ走っていく。キラリと男の持つ何かが光った。それが小型ナイフだとわかったとき、全身から血の気が引いた。
 逃げなければ。頭ではそう思うものの、体は上手く動かない。カタカタと小刻みに震える肩を抑えて踵を返す。足を必死に前へ前へと運ぶが、浮かれて選んだピンヒールで早く走れるはずもない。
 背後で人の気配がした。ああもう後にいるのか。だめかもしれない。痛いのは嫌だな。赤井さん、ごめんなさい。今日は行けそうにありません。視界が滲むのを感じながら、これから来るだろう鋭利な痛みに備える。しかし、いつまでたっても、足がもつれて膝をついてしまっても、覚悟していた痛みはやってこない。
 後ろで、歓声が上がった。何事かと振り返れば、刃物を持った男とそれを組み敷く見慣れたニット帽。
「あかい、さん」
 溜まっていた涙がこぼれた。

+++

 殺意を内に秘めた人間をその欲望のままに行動させる方法は、誰もその人間に話しかけない事である。そのまま放っておけば勝手に自らを追い詰めて実行する。
 これは当たりだな。ネットの掲示板に書き込まれた犯罪予告を見て目を細めた。予告があった場所は、ちょうど今日、xxと待ち合わせを予定している付近だ。時間はこちらが調整すれば良いだろう。xxはおそらくこの間買ったピンヒールを履いているはずだ。直接見てはいないが、朝イヤホンから聞こえてきた足音でわかっている。あれでは子供にさえ追われてもきっと逃げられまい。
 彼女のヒーローになりたい。その一心で、計画を練り上げていく。グラスに入れた氷が音を立てた。その音にはっと顔を上げて時計を確認すれば、xxが業務を終える時間だった。
 お先に失礼しますというxxの声を聞いてメールを打つ。迎えに行こうかとは書いたが、xxが断るのは分かっていた。予想通り、すぐさま返ってきた文面を見て満足気に笑った。

 待ち合わせの時間よりも少し早く駅前に到着した。なるべく気配を消して、異質な雰囲気の人間を探す。そう苦労することもなく、道の端に目をギラつかせた、そのわりには生気のない青年を発見した。十中八九、あいつだろう。時間を確認すれば、予告時刻まであと数分。おそらくxxがここを通るのもそれくらいだ。手を加えるまでもなく、タイミングはぴったりだ。あとはあの青年が上手くxxをターゲットとしてくれればいい。
 ピピピ。青年の付近で、アラーム音がした。開始の合図だろうか。そう思ってみていれば、青年は慣れない手つきで小型ナイフを取り出してニヤリと暗い笑みを浮かべる。そのままゆっくりと一歩一歩足を踏み出し、近くにいた女性に襲い掛かった。
 女性の悲鳴があがる。犠牲者を出してはならないと、女性を引き寄せて犯人から遠ざける。ナイフは女性の持っていたバッグに引っ掛かり、持ち手の紐が切れたがまあ良いだろう。怪我がない分助かったと思ってくれ。
 「走れ」と女性をxxのいる方へ追い立てた。「逃げろ!」今度は大声をあげれば、大衆は俺が指さした方向へ逃げていく。それを黙って見ているほど犯人も間抜けではないが、それとなくぶつかってやればナイフが地面に落ちた。これで再び拾い上げるまでにタイムロスが出来る。犯人がナイフをしっかりと握りしめる頃には、彼の目の前にはxxしか残っていなかった。
 怯えて逃げるxxは酷く可愛い。無意識に俺の名前を呼んでいる事にも気付いていないのだろう。犯人は下品な笑みをこぼしながらxxを追いかけた。
 バキッ。寸でのところで、さも今到着したかのように犯人を殴りつける。自分でも惚れ惚れするほどの良いパンチだ。彼の肋骨にひびが入ったかもしれないが、生きているだけマシだろう。ナイフがカランとアスファルトに転がった。
「あかい、さん」
 犯人を手早く拘束すれば、xxがしっかりと俺を呼んだ。イヤホン越しでない声を聞くのは二日ぶりだろうか。彼女の方を向いて安心させるように頷く。すぐさま抱きしめてやれないのが焦れったいところだ。

 犯人を警察に引き渡し、事情聴取だなんだとうるさいのを適当にあしらってxxと共にその場をあとにした。
「助けるのが遅くなって悪かったな。怖い思いをさせた」
「いえ、きっちり守ってくれたでしょう? ありがとうございます」
 未だ恐怖も拭いきれないはずなのに、xxは健気にも笑みを見せてくれた。それがたまらなく愛しくて頭を撫でる。手入れの行き届いた柔らかい髪だ。
「赤井さんが助けてくれなかったら、きっと今頃」
 そこまで呟いてxxは口をつぐむ。怯えた表情さえ綺麗なものだから、用意していた台詞を一瞬忘れてしまった。声が詰まったのを悟らせまいと、一度咳払いをする。
「日本は治安が良いとはいえ、こういう事もある。しばらくは俺が移動の足になろう。離れていては守れるものも守れんからな」
 遠慮がちなxxは、こうでもしなければ送り迎えをさせてくれない。丸め込むなら危険さを目の当たりにした今が絶好の機会だろう。xxは一瞬迷ったような様子をみせたが、背後に脅威が迫る寒気を思い出したのか、小さく頷いた。「お願いします」と紡がれた言葉に、次は何から助けてやろうかと思案した。


うしさま、リクエストありがとうございました。
リクエスト内容を“Ulysses or ハニーフェイス”と勝手に勘違いしてしまい、お手数をおかけしました……うしさまは最初からUlyssesIFとおっしゃっていたのに、妙な質問をしてしまい大変申しわけありませんでした。お恥ずかしい限りです。
温かい感想も、ありがとうございます。短く簡潔にを密かに意識していたので、読みやすいと言っていただけて本当に嬉しいです。これからも何卒よろしくお願い申し上げます。

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