今日から三日間家に帰れないと零さんに告げられ、わかりましたと返事をして見送った。今回は危険な仕事らしく、携帯の電源さえ切らないでいてくれれば位置情報は把握できるので外出報告も要らないとのお達しだ。このまま三日後からも報告制度がなくなれば良いのに。行ってきます、と閉められた扉を見つめながらそんなことを考えた。
 いつもは零さんが朝食を作ってくれるのだが、今日からは自分で何とかしなければならない。一日三度の料理くらい何てことはないし、そもそも昼食と夕食は私の担当だったので大した負荷ではない。ないのだが、零さんに甘えてしまっていた分いざ作るとなると面倒くささが一層押し寄せてきた。
 朝は特にやる気が起きなくていけない。ポアロに行ってモーニングセットでも頼んでしまおうか。悩んでいるうちに朝が終わってしまう、と支度をして家を出た。

 梓さんの可愛らしい笑顔を期待して店に入ったのだが、まだマスターしかいないらしい。マスターの穏やかな声に迎えられ、お好きな席へどうぞという言葉のままどこへ座ろうかと店内を見回す。テーブル席に見知った顔を見つけた。コナンくんだ。
 声をかけようとして彼と一緒に座っている見知らぬ男性を認め、躊躇(ためら)った。なんとなく話が弾んでいるような雰囲気だ。知り合いだからといってわざわざ盛り上がっている中に割り込めるほど社交的ではない。加えて片方は知らない人間だ。
 帰り際にさらっと挨拶でもすれば良いか、とカウンター席に腰を下ろす。モーニングセットを頼んで、変わらない美味しさに食が進む。気付けばぺろりと平らげてしまっていた。マスターの持ってきてくれたコーヒーくらいはゆっくり飲もう。半分ほど飲んだところでミルクを入れれば、小さな影が寄ってきた。
「おはよう、xxさん。いるなら声をかけてくれればいいのに」
 同じく挨拶を返して苦笑する。
「なんだか邪魔しちゃ悪いかな、と思って」
 そう言って未だテーブル席に座っている男性に目を向けた。朝から小学生とモーニングを食べるイケメンとは。若いお父さんと子供に見えなくもないが、似ていないからその線は薄そうだ。まあコナンくんにはあれくらいのお友達の方が、気が合うのかもしれないな。
 私の視線に気づいたのか、コナンくんのお連れさまがこっちを向いた。一瞬、その切れ長の目が大きく見開かれたがすぐに何事もなかったかのように微笑まれる。不躾に見てしまっていたかなと反省をして、軽く会釈をした。
「そうだxxさん、こっちに来て!」
 昴さんの紹介をするから、とコナンくんは私の手を引いた。昴とは、あの男性の名前だろうか。コナンくんに促され、テーブル席に座る。共通の友人が提案したとはいえ、いきなり相席というのは少々居心地が悪い。マスターが気を利かせてコーヒーカップを移動してくれる。そのお陰で、挨拶だけをして腰を上げるという選択肢は消えてしまったわけだが。
「はじめまして、xxxxです」
「……こちらこそはじめまして。沖矢昴と申します」
 黙っているわけにもいかず、自己紹介をする。続いて沖矢さんも名乗ったが、凪いだ口調になんだか違和感があった。軽く会釈をした彼から少しだけ漂った匂いが懐かしい。どうしてだろうか。しかしそれも直ぐに忘れてしまうくらいの些細なことで、気に留めるまでもない。
「ああ、あなたが沖矢さん。コナンくん達から度々お話は聞いています」
 近頃、コナンくんをはじめとした少年探偵団はよく彼の話題を出すようになっていた。頭がとても良い、優しくてかっこいい、とても強い、カレーが上手。憧れの人を語るような表情で教えてくれる子供たちとの会話を思い出す。哀ちゃんだけは微妙な顔をしていたけれど。
 話? と首を傾げた沖矢さんに子供たちが褒めちぎっていたことを伝えれば謙遜が返ってきた。性格まで謙虚とは。ここまで出来た人間がいただろうかと感心する。数年前に突然音信不通になった私の幼馴染とは大違いだ。彼も頭と顔が良く且つ強かったが、謙虚とは程遠い性格だった。ああそういえば、昴さんから仄かに感じた香りは彼の匂いに似ていたのかもしれない。
「ところでxxさん、今日は安室さんいないの?」
 三人での会話も思いのほか弾んできたところで、コナンくんが尋ねた。三日間は留守だということを伝えれば、コナンくんは意外そうな顔をした。まさか一人で留守番もできないと思われているのだろうか。それならば心外だ。特に予定もタスクも無いので、いつも通り好きなことをして過ごすだけの簡単なお仕事だと主張する。それってニートって言うんじゃないの、と小学生に呆れられてしまった。
「でしたら、この後工藤邸に寄って行かれませんか」
 いきなりの提案に目を瞬かせる。コナンくんも驚いた顔をしていた。さっき工藤邸に居候をしていると言っていたが、居候先に勝手に人をあげて良いのだろうか。そこまで信頼関係が築かれているならば勝手に口を出すことではないのかもしれないが。私の戸惑いも気にせず、沖矢さんは柔和な物腰で続ける。
「シャーロックホームズのシリーズが読んでみたいと、おっしゃったでしょう? 工藤邸にはありとあらゆるミステリー小説が置いてありますから、することが無いのであればこの機会にぜひと思いまして。家主もきっと了解してくれることでしょうし」
 ね、と何故かコナンくんの方を見て沖矢さんが同意を促した。
「そうだね! それが良いよxxさん。新一兄ちゃんにはぼくから言っておくね!」
 これまた何故かコナンくんも大賛成のようで、ホームズ読んで読んでとはしゃいでいる。こうして見れば年相応だなと無性に微笑ましく思えた。新一兄ちゃんとやらが誰かは知らないが、きっと家主なのだろう。あまりの歓迎ムードに断るわけにもいかず、ではお願いしますと仕方なしに沖矢さんを見上げた。

「お邪魔します」
 博士の家に行く道すがら、工藤邸を通るので外観は知っている。だが実際に入るのは当然ながら初めてで、大きな洋館にそっと胸を高鳴らせた。ひんやりとした廊下を、沖矢さんの後に続いて進んだ。ちなみにコナンくんは工藤邸の前まで来て、用事があるからとそのまま博士の家へ行ってしまった。
 聳え立つ本棚に圧倒され、四方の壁を見上げながらすごいなあと呟くと沖矢さんが優しく笑った。ホームズはここです、と本棚の一角を指してくれる。同じ内容の本でも、言語や装丁の違うものが並んでいた。
「お好きなものをゆっくりと選んでください。ちなみに、初心者向けのおすすめはこれかこれです」
 沖矢さんが何冊か見繕ってくれる。その中から選ぶのが賢い選択だろうか。どれにしようかな。悩んでいると、沖矢さんは「コーヒーでもご用意しますので、選び終えたらリビングでどうぞ」と爽やかに出ていった。これが至れり尽くせりというやつか。いや、いつも零さんも似たような事をしてくれるのだけれど、ちょっとばかし意味合いとシチュエーションが違う。
 沖矢さんのおすすめから一冊の短編集を選んでリビングへ向かう。扉を開けると、コーヒーのいい匂いがした。沖矢さんは入ってきた私に気が付くと、どうぞと彼が座っている向かいのソファを示す。テーブルには淹れたてのコーヒーが置かれていた。ありがとうございますとソファに座り、コーヒーに口をつける。あれ、と声を洩らした。私がちょっと贅沢したい時に淹れるものと同じ味だ。特別に舌が優れているわけでもないので、些細な銘柄の違いなど分からないのだがこれだけは違った。沖矢さんはそんな私の様子に気が付くと、自らの喉元に左手を持っていく。ピ、という電子音がしたかと思えばその手は膝の上で組まれ、ゆっくりと身を乗り出した。
「分かったようだな。好きだっただろう? xx」
 低く響いた声は遥か昔に聞き覚えがあって、心臓が跳ねた。震えた手が持っていたコーヒーカップをするりと落としてしまう。並々と入っていた液体は腿の上にぶちまけられる。カップの方は柔らかい場所に落ち、割れずに済んだようだ。
 あっつ、と反射で言ってしまったがそれよりも消息不明だった幼馴染の登場で温冷覚が機能していない。それでも目の前の幼馴染は心底心配そうな顔で立ち上がり、バタバタと部屋を出ていったかと思うとすぐにタオルと氷をもって戻ってきた。
 大げさなくらいに手当てをされ、自分のものだがお前なら良いだろうと着替えを手渡された。他に服もないのでありがたく借りる。脱衣所で着替えて戻り、高級そうなソファと絨毯が無事なのを確認してほっと息を吐いた。
「秀くん、なの……?」
 片づけを終えて改めて向かい合う。未だ信じられずそう確認すれば、俺の声を忘れたかと沖矢昴では見なかった類の表情で返された。先ほどまでの柔和な好青年はどこへ行ってしまったのだろうか。
 整形までして今まで何をしていたのかと問えば、秀くんは笑いを堪えるような表情をした。待っていろ、と私に短く告げて部屋を出ていく。十数分後に戻ってきたのは記憶よりも大人になった幼馴染で、柄にもなく懐かしさで少しだけ鼻の奥がツンとした。
「そんな顔をするな」
 泣きたいのはこっちだと私の頬に人差し指を滑らせる秀くんに、泣いていないと抗議する。意外にもぎこちない動作で私の肩を抱き、ソファへ一緒に座った。心配したんだよ、と言う私に謝罪や労りの言葉もなくぽつりぽつりと現状報告を始めるあたり、彼も相当に動揺しているらしい。話を聞く限り、私が知っていいことでないものも含まれている気がする。秀くんは一方的にあらいざらい説明し終えると、自分の番は終わったとばかりに私へ尋ねた。
「それで、お前の方は」
 ぶっきらぼうな物言いに苦笑する。近況報告を求められているのはわかるが、さてどう説明したらいいのか。言うに迷って「秀くんみたいに特別なこともないかな」と誤魔化す。警察庁に就職したよ、と嘘ではない情報を紡げば彼の眉がピクリと動いた。
「俺に隠し事をする必要はない」
 確信をもって告げられた言葉に息が詰まった。頭の切れる幼馴染は健在らしい。
「安室透くんとは、どういう関係だ?」
 悩みの種であるその名前にドキリとした。ええと、と視線を宙に迷わせ、ずいと寄せられた身体を軽く掌で押し返す。触れた胸板は見た目よりも厚く、近すぎる距離をなんとかしようと力を加えてもどうにもならなかった。それどころか逆効果だったようで、するりと腰に回された腕で余計に逃げられない。
「困っているんだろう? 俺に頼ればいい」
 痺れるような低く甘い声が耳元で響き、大人の色気に当てられてくらりとした。火照る頬を気にする余裕もなく、話すから離してと絞り出す。その反応に満足したらしい彼は、愉快そうに口を緩めるとゆっくりと身体を離した。

「それならずっとここに居ればいい」
 今の状況を一通り話し終えると、秀くんは開口一番そう言った。は? と間抜けな声がでる。そういうわけにもいかないのでは。見つからなければ良いかもしれないが、逃げて発見されれば何が待っているかわからない。後が怖いから遠慮しておくと伝えても、秀くんは頑として引かなかった。
「彼の事は俺がなんとかしておくさ。このままお前が彼のもとに居て状況が改善するわけでもあるまい。何かきっかけが必要だろう。――もっとも、安室くんに特別な感情を抱いてしまったと言うのであれば別だが」
 そうではないだろう? 決めつけるような物言いは昔と変わらなかった。全てその通りなのでコクリと頷くと、秀くんは口元を緩めた。良い子だ、と頬を寄せられる。アメリカ式の挨拶は心臓に悪くていけない。
「お前ならわかってくれると信じていた。離れていた数年を埋めたいと思っているのは俺だけかと不安なんだ。お前は昔から変な虫に好かれるからな、こんなことになるならもっと早く迎えに来ればよかった」
 切なげな声と表情でそんなことを言うものだから、直視できずに思わず目を逸らしてしまう。
「そ、そういえば、工藤さんたちの了承はとらなくて良いの?」
 すっかり秀くんと暮らすという流れになってしまったが、慌てて問いかける。まあ問題ない、と何の根拠もない返答をもらったが大丈夫だろうか。
 秀くんは“ボウヤ”と呼ぶ人物に電話をかけて部屋を出ていった。すぐに帰ってくるだろうと思っていたが案外時間がかかったようで、暇つぶしに読み始めた本を半分ほど読み終えたところでようやく秀くんは返ってきた。その手には大きめの紙袋が数個ぶら下げられている。
「おかえりなさい。それは?」
「お前の衣服や生活用品だ。必要だろう」
 あまりに当然のように告げられたので、そうなのありがとうと流しそうになる。実際言いかけて、えっ私の? とノリツッコミのようになってしまった。驚く私に構わず紙袋を押し付けてくる。中を確認するとしっかり私の好みとサイズに合った諸々が入っていて、ありがとうと引き気味にお礼を言うしかなかった。


 秀くんと暮らし始めて四日目の夜、工藤邸のインターホンが鳴った。受話器の近くにいた私が出ようとすると、沖矢さんの装いをした秀くんがそれを遮った。
「僕が出ましょう。xxさんは上の階へ行ってください。僕が良いというまで下りてきてはいけませんよ」
 秀くんがそういうということは、FBI関係者だろうか。疑問に思わないでもないが、勝手にそう納得して素直に頷いた。はあい、と階段を上って使わせてもらっている部屋に戻る。後で沖矢さんが玄関のドアを開ける音がした。

 ベッドに横になりながら本を読んでいると、ドンドンと荒く階段を上る音が聞こえてきた。何事だと体を起こす。じっと耳を澄ませていれば、その足音は段々と近づいてきて、ついにはガチャリと部屋のドアが勢いよく開け放たれた。
「っ、xx!」
 そう叫んだのは見覚えのある美形で、彼の顔を見た瞬間恐れていたことが起こったのだと悟った。ドアを開けた彼、安室さんは、私の姿を認めるとなりふり構わずこちらへ突っ込んできた。そのまま勢いよくベッドへ押し倒される。ちょっと、と抗議をするも聞いてくれる様子は無い。
 続いて慌てた沖矢さんも部屋へ入ってきた。xx、と焦って呼び方が戻っている。沖矢さんは私の状況を認めると、安室さんを低い声で窘めながら私から彼を引きはがしてくれた。
「xx! この男に何もされていませんか? 四日間も軟禁されてさぞ辛かったでしょう。すみません、僕があなたから離れたりしたばっかりに。ああやはり一人で居させるべきではなかったんだ。シャンプーの匂いが変わっていますね、まあ当然か。気に食わないので帰ったら一緒にお風呂に入りましょう。おや、その服は? この男に買い与えられたものですか。今すぐ脱がせたいですが、まずはここから脱出することが先決ですね」
 沖矢さんに止められているにも関わらず、安室さんはこの場に私と彼だけしかいないというように喋り続けた。流石に沖矢さんも顔が引きつっている。
「xxさんが困っているでしょう、何をしているんですか」
「沖矢さんこそ何をしているんですか!? xxを僕から奪おうとしたって、望みはありませんよ。その手を離してください」
「略奪者はどちらの方でしょうか。xxさんは僕と居たいそうですよ」
「そんなはずないでしょう? 冗談にしては面白くありませんね。xxは僕の大切な恋人なんですから」
「ホー。そこまで言うのであれば、直接xxさんに聞いてみましょうか」
 成人男性の荒くるしい言い合いに困惑していると、急に二人がこちらを向いた。あまりの剣幕に、ベッドの端まで避難した。なんですか、と小さな声で尋ねる。安室さんと沖矢さんはそれぞれ右手と左手を差し出すと、声を揃えて言い放った。
「一緒にいたい方の手を」
 勘弁してくれ、と心の中でそう叫んだ。


翡翠さまリクエストありがとうございました。
ハニーフェイス気に入っていただけたようで大変嬉しいです。これからもご期待に沿えるよう精進して参ります。

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