ガードレールに添えられた花束が風に揺れた。すぐそばに波打つ海の音が規則的に響く。それだけで視界が滲みそうになるのを耐えて、自身が持ってきた豪華な装飾の箱をそっと取り出す。
「引継ぎは全て終わらせてきた。これで心残りなく、あなたのところへ行ける。あなたのことだから、日本よりもあなたを優先すれば怒るだろう?」
 仕事を早退してxxの誕生日にサプライズを仕掛けたときは、何を考えているのだと叱られた。しかし叱咤の言葉とは裏腹に、その頬が緩んでいたのがまた可愛らしかった。思いだして、苦笑した。
 跪いて箱をかかげ、蓋を開ける。崖が一層近くなったが、視線の先は青空だ。
「あなたの夫という最高の栄誉は、諦めないからな」
 金色の輪に彼女の誕生石が付いたそれにキスをしてから飲み込んだ。離さないように、しっかりと握っていられる自信はないから。異物が喉を通り過ぎるのを感じながら、一歩踏み出す。潮風に焼かれるようだ。ガードレールを飛び越えて、迷いなく身を投げた。


 コーヒーカップに乗った後のような眩暈だ。ぐにゃ、ぐるぐる、ぐらり。気持ちの悪さに思わず目頭を押さえて下を向く。ただ不思議と、痛みは無かった。
 しばらくそうしていれば、いくらか落ち着いた。周りを見回す。自分の、いや安室透の部屋だ。壁紙の模様も、家具の配置も、xxとの写真も見覚えがある。どういうことだ? 俺は確かにあの峠で――
 ガチャリ。不意に玄関から音がした。反射的に、身を隠そうと壁を叩けば大人一人分のスペースが現れた。いざという時の避難場所まで一緒らしい。これは本当に安室の部屋だと信じるべきか。だとしたら、一体どうして。
 息をひそめて訪問者を待っていれば、気を抜いた足音が近づいてきた。二人分だ。同時に聞こえてくる声とその内容に、眉を顰めた。
 俺とxxだ。記憶にある場面に驚く。付き合いたてで、未だ降谷としての顔を知らせていない頃、xxの手料理が食べたいとせがんで家へ招いたのだ。確かxxは肉じゃがを作ってくれたのだったか。今まで食べた何よりも美味しかったと断言できる。
 俺がもう一人いる。それに、xxも生きている。ここは過去か何かだろうか? 仲睦まじい様子の二人を複雑な気持ちで覗きながら、思案した。
 有力なのは走馬燈か。第三者視点なのが惜しいが、そんなこともあるのかもしれない。あるいは、別の可能性もある。過去に飛んだ可能性だ。非科学的だが一番辻褄が合う。現実的に考えてこんなことはありえない。ありえないのだが、体験してしまっているのだから否定できない。
 何にせよ感覚もしっかりしているし、たとえこれが幻覚であれ夢であれ覚める気配もない。だったら、好きにさせてもらおう。幸い、ここにはxxがいる。俺という邪魔者もいるが、奪い取ればいい。ぐっと覚悟を決めて、部屋から人が居なくなるのを待った。

 トリプルフェイスの忙しさが幸いした。一晩と待たずに部屋の明かりが消える。気が緩み切っているのか、隠れている俺に気が付く気配すらなかった。まさか、自分が非常用スペースに身を潜めているだなんて思いもしないだろうが。警戒を怠らずに玄関へ向かい、素早く外へ出た。行く先は決めていないが、今晩はひとまず“もう一人の俺”がしばらく使う予定のないセーフハウスにでも泊まろう。この家の鍵は難なく閉められた。ましてセーフハウスは生体認証だ。問題ないだろう。
 首尾よくセーフハウスへと入ることができた。当分の拠点にするのも良いかもしれない。ソファに身を沈めて今後の方針を考えながら眠りについた。

 結論としては、何の遠慮もしないことにした。俺は俺だ。降谷零であり、安室透であり、バーボンだった。もう一人の俺には悪いが、選手交代だ。僅かに口角を上げてxxの元に向かった。
 カレンダーを確認すれば、自分の動向がわかる。だから自分と鉢合わせないようにxxと逢瀬を遂げるのも容易いことだった。懐かしい気持ちでインターホンを押す。アポイントも何も無かったが「安室さん?」とすぐさまxxの声がした。
「こんにちは、xxさん」
 にっこりと笑みを湛えてエントランスのカメラを覗き込む。xxは少しだけ焦った声色で「どうぞ」と言うとオートロック扉を開けてくれた。
 悠々と安室の顔をして部屋に上がれば、遠慮がちにxxが口を開いた。
「今日は忙しいと聞いていましたけれど……?」
「ええ、まあ。しかし思いがけなく時間が出来ましてね。無性にxxさんに会いたくなったもので。ご迷惑でしたか?」
 眉尻を下げて、不安げに彼女を見つめた。そうすれば彼女は面白いくらいに動揺して、愛らしく頬を染める。小さな声で「嬉しいです」と紡いだ唇に、胸が詰まった。

 それから何度も、自分自身の目を盗んでxxと一緒に過ごした。携帯電話で連絡が取れないため、偶然を装ったり家に押しかけたりするしか方法はないが、彼女の居ない世界で生きるよりも幸せだ。
 しかし当然のことながら、この状況に違和感を覚えないほど本来の俺も馬鹿ではない。xxから覚えのない話をされたり、自分以外の人間が上がりこんだりしたような気配があるのだ。何かがおかしい。もしかして他に男でも出来たのだろうか。そんな風に、彼女の心変わりを幽かに疑ったらしかった。
 日に日に不安が増していくらしく、俺は事有るごとにxxを問い詰めるようになった。問い詰められても、xxからすれば安室透以外と関係を持っていない。浮気相手など、心当たりがあるはずもない。
 唯一の心の支えだったxxの裏切りにおびえ、もう一人の俺はどこかおかしくなってしまったようだった。少しでも時間が出来れば「xx、xx」と電話をかけ、時間が許せば逢いに行って縋りついていた。お陰でこの俺と彼女の時間がない。我ながら面倒な性格をしているなと苦虫を噛み潰したような顔をしながら、xxと会える機会をそっと窺うしかないのだ。
 半面、悪くないこともある。俺が彼女の元へ行けば「今日は大丈夫なんですね」とほっとした表情で迎えてくれることだ。図らずも、xxにとってはもう一人の俺より自分の方が“安室透”として認識されているようだった。
「xx、大事な話があるんだ」
 そろそろ潮時だろうと、居住まいを正してxxと向き合った。xxは俺につられてかしこまった表情をしている。引っ越しを勧めようと口を開きかけた時、正面のxxが悲鳴をあげた。それと同時に、後頭部をガツンと重い衝撃が襲った。咄嗟にxxを庇うようにして振り返れば、困惑顔の自分がそこにいた。
 なるほど、趣味の悪いことだ。xxに気付かれないよう身を隠し、他の男が来やしないかと見張っていたのだろう。
 痛む頭を押さえれば、生暖かい感触がする。べったりと手のひらが赤く染まったが、構う暇はない。目には目を。先に仕掛けてきたのはあちらだ。遠慮は無用だろうとばかりに、目の前の自分を殴りつけた。
 数分の取っ組み合いの後、xxが声をあげた。怯えているのだろう、震える身体でそれでも懸命に俺たちを抱きしめながら「やめて」とただ一言。効果は覿面だ。ぴったりと動きを止めた俺たちは、我に返って謝った。
「どういう、ことなの?」
 xxが俺たちを交互に見遣って問う。その答えを知っているのは、この俺だけだ。隣の自分も流石に状況が把握できていないようで、顔色の悪いまま考え事をしていた。
 好機だ。
「さあ。僕には、自分が二人いるように見えますね」
 冷静さをアピールするため、困ったなというポーズをして笑う。
「xxさんは、僕と彼、どちらがあなたの本当の恋人だと思いますか?」
 隣で動揺する気配がした。俺も隣も、じっと彼女の様子をうかがう。xxの伏せられた目がゆっくりと視線を上げていく。彼女が最初に視線を合わせたのは、こちらだった。明確な言葉も仕草も示されていないが、降谷零にとってはそれだけで十分だった。もう一人の自分が崩れ落ちる音は、途中で消えた。


りらさま、リクエストありがとうございました。
素晴らしいアイデアを活かしきれているでしょうか……。彼女に選ばれなかった方は消滅すれば後腐れがなくていいのかなと思います。
毎回楽しみにしていただいているようで、大変心嬉しいです。ありがとうございます。

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