金曜日。うっかり「素敵なお顔ですよね」なんて口を滑らせてしまったのは、疲れていたからだ。いくら好みの顔だったからと言って、最近知り合ったばかりの相手にそれはないだろうと自分でも反省している。しかし、ミーハーな心の声など決して言うつもりでは無かったし、無意識に洩らしたのも小さな声だった。それをしっかりと拾ってしまったこの沖矢昴という男性は、何を思っただろうか。はっとして、すみません、と口を開く前に別の声が被さる。
「そう妬かないでください」
 沖矢さんは困ったようにそう言った。イケメンに嫉妬して嫌味を言ったように聞こえたらしい。慌てて「違うんです」と否定をしても、沖矢さんは分かっていますよと躱すだけでまともに取り合ってはくれなかった。
「xxさん、業務に遅れてしまいますよ」
「あっ本当だ……いってきます」
 腕時計を見れば始業時間が迫っていた。起きたらすでに降っていた雨を考慮すると、いつまでもここにはいられない。誤解が解けないままなのは心残りだが、沖矢さんに挨拶をして木馬荘を後にした。
 以前迷子の男の子をここまで送り届けた時に沖矢さんとは知り合ったのだが、それから毎朝なぜか顔を合わせている。家から駅に向かう途中にあるこの古いアパートの存在はもともと知っていた。前を通るだけで特に何も意識していなかったのだが、沖矢さんと知り合ってからというもの、出勤前の挨拶も恒例となっている。朝から花の世話をするイケメンが拝めるのは大変眼福だ。今日は雨なので、花に水をあげる必要はなさそうなものだが。
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 赤井秀一を葬って、嘆き悲しむであろうxxには悪いが自らの生存を知らせるつもりはなかった。彼女とのコンタクトは、偶然の相席を装ったデートやささやかな贈り物だけで、特殊な事情があるとはいえ甲斐性のない男だったと自覚している。それでも文句の一つもなく俺との関係を続けてくれていたxxは、本当にいい女だ。
 そんな彼女を一人残して沖矢昴として生活し始めた折、xxがアパートに住んでいる子供を連れて木馬荘まで来た時には本当に驚いた。xxの行動は逐一把握しているが、まさか自分のもとに来てくれるとは思わなかった。xxはさも初対面かのように挨拶をしたが、顔と声を変えても一瞬で俺だと見破ったらしい。それが嬉しくて、xxが毎朝通勤する時間に合わせてガーデニングをした。

「素敵なお顔ですよね」
 その言葉を聞いて、小さな罪悪感と共に確かな優越感が身体を駆け巡った。前者は、以前よりもずっとxxと一緒に居られる時間が増えて浮かれていたせいで、彼女への配慮が足りていなかったため。後者は、普段は淡白すぎるくらいの彼女が珍しくその言葉に嫉妬の色を乗せてくれたため。大女優の好みに施されたこの顔。夫子持ちでやましいことが全くないとはいえ、他の女が好きだと言った顔である。この装いを甘んじて受け入れていることに、xxは嫉妬したのだろう。
「そう妬かないでください」
 目の前の彼女が愛おしい。きっとこぼすつもりは無かったのだろう。焦って弁解する彼女に、仕事の時間だと促せば俺が送った時計を確認して「いってきます」と出勤していった。
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 土曜日。仕事は休みだが、食料の買い出しに行こうと木馬荘の前を通って心底驚いた。焼け落ちたアパートに、白黒塗装の車、刑事さんたちと、子供たち、そして沖矢さん。何事かと遠くから見ていれば、私に気が付いた沖矢さんがこちらへ手招きをした。完全に部外者なのだが、寄って行っていいものだろうか。まごまごしていると、痺れを切らしたのか沖矢さんからこちらへ寄ってきた。
「xxさん。どうなさったんですか?」
「ああ、買い物に行こうと通りがかって……って、こっちの台詞ですよ。木馬荘が燃えているみたいですけど」
 聞けば、放火にあったらしい。犯人も無事に捕まり、一件落着それでは解散。そんな雰囲気のようで、周りを見れば確かに刑事さん達も犯人と思わしき男性をパトカーへと押し込み撤収していた。
「昴さん、この人は?」
 ふいに下から声がした。声の主はメガネをかけた小さな男の子のようだ。私を見上げるその青い瞳には、なぜだか全てを見透かされているような気がした。見透かされて困ることなんて、特に思い当たらないけれど。
「xxxxさん、僕の恋人ですよ」
 へ、と裏返った声をあげて沖矢さんを見上げた。いつから恋人に。爆弾発言をした当の本人は、何も間違ったことは言っていないとばかりに堂々としていた。ちょっと、と沖矢さんの脇腹をつつくが、一瞬視線が私に向いただけで特に効果は無かった。男の子は江戸川コナンだと名乗った後、「よろしくね」と私に握手を求めてきた。コナンくんに目線を合わせて握手をする。子供特有の感触が懐かしかった。


 それでは私はこれで、と挨拶をして帰るタイミングがなかなかつかめない。成り行きで、阿笠邸を経由して工藤邸までついてきてしまった。肩から腰に掛けてなぜかがっちりとホールドされたまま、ささやかな抵抗をするも巧みな言葉と強い腕力で抑えられてはどうしようもない。玄関へ入った直後にパタンと締められた扉の音が、やけに大きく聞こえた。
「強引に事を進めた自覚はある。だが、お前にとっても悪くない環境だろう」
 背後から聞こえた沖矢さんの声に、首を傾げる。確かに強引だったが、悪くない環境とは。それに、こんな喋り方をする人ではなかったはずだ。寒気を感じたのは、冷たい廊下のせいだけではない。嫌な予感がして、今度こそ行く予定だったスーパーに向かおうと一歩踏み出した。まだ靴を脱いでいなくてよかった。
「どこへ行く気だ?」
 手首を捕まれた。ドキリとする。
「随分長くご一緒してしまったので、そろそろ家に帰らないと。買い出しの予定もありますし」
「xx、お前の家は今日からここだろう?」
 何を言っているんだと、その体格のいい身体で道を塞がれた。こっちの台詞だ。何を言っているんだ。そう言ってやりたいが、なんとなく感じる恐怖と混乱で上手く言葉が出てこない。
 なにを、とやっとのことで絞り出した時、携帯の着信音が響いた。私のものだ。取り出して確認をすれば、大家さんからだった。通話ボタンを押し耳にあてようとしたところで、手元から携帯が消えた。沖矢さんがとったらしい。彼は二言三言会話をすると、通話を切った。
「マンションは今月の解約ということにした」
 私の携帯を返してくれる様子もなく、沖矢さんはそう言い放った。
「どういうことですか」
 何を勝手に。新たに怒りが加わったことで、恐怖が少しだけ薄れた。そう詰め寄ると、沖矢さんは「話は中で」と幼い子供をあやすように私の背中を撫でた。
 リビングに通されて語られたのは、本気で理解ができない内容だった。彼――赤井秀一が沖矢昴となった経緯から始まり、彼の置かれている現状、わけのわからない組織の話、そして私とのこれからについて。彼の中で、私は恋人という位置づけになっているらしい。今日からここで、一緒に住むそうだ。
「今まで寂しい思いをさせたな」
 そう言って嬉しそうに笑う彼の妄想に付き合う気は起きないが、記憶の片隅で主張するある病名が、私にそれを許さなかった。
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 住んでいたアパートの放火犯を突き止めたところで、xxを見つけた。俺の心配をしてやってきたのだろうか。今日は出勤日ではなかったはずであるから、逢えないと思っていたため口角が上がる。xxと会話をしていれば、ボウヤが興味を示したようだ。恋人だと説明をすれば、xxは不安そうに俺の脇腹をつついた。心配するな。沖矢昴の恋人ならば何の問題もない。
 住む場所が燃えてしまったため、新しく宿を探さねばなるまい。はじめはxxのマンションへ行こうかとも思ったが、それよりも適した場所に心当たりがあった。阿笠邸へ向かう途中で、彼女も一緒に住むことにしようと思いついた。道中それとなくxxに意思を確認すれば、迷った様子ではあったが、それでも確かに頷いていた。阿笠邸の住人には振られてしまったが、ボウヤが隣の邸宅へ住んではどうかと提案してくれた。
 時折そわそわとした様子をみせるxxを連れ、工藤邸までやってきた。ここまで来て帰ろうとする彼女の手首を掴む。俺の足でまといにはなるまいと、今までと同じ距離で我慢しようとしているのだろう。だが、赤井秀一は一度死んだ身。組織が壊滅しない限り危険が全くないとは言えないが、一緒に住めば一番近くで彼女を守ることもできる。ジェイムズにも連絡をしておけば、有事の際も何とかなるだろう。
 出来る限り優しい手つきで、壊れないようにとxxをリビングへ連れ込む。納得していない様子の彼女に、ゆっくりと説明をしていった。
「今まで寂しい思いをさせたな」
 そう言って彼女を見遣れば、微笑んだ彼女と視線が交わった。


花さま、リクエストありがとうございました。
心を射抜く……スナイパーでない私にそんな芸当ができたとは。そんなに好きだと言っていただけて、あの、とても感激しております。嬉しいです。
今回は導入部分となりましたが、他リクエストで続きを書く予定がございます。赤井さん、難しいですね。精進したいと思います。

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