刷り込み、という現象を知っているだろうか。コンラート・ローレンツの発見した学習の一種である。刻印付けとも呼ばれるそれは、ある限定された時期にのみ学習が成立し、そこで習得された行動はその後の経験によって修正されることは少ない。そう、カルガモの親子認識として広く認知されているそれだ。
 とはいえ、なにも刷り込みはカルガモだけに見られるものではない。例えば幼い頃から父と兄に様々な暴力を受けてきた少女ならば、どうだろうか。顔を合わせるたびに暴言を吐かれ口答えしようものなら殴られ、相手の機嫌次第で程度は変わる。母は彼女を生んですぐに亡くなっていた。到底一人の女の子が消化しきれる問題ではない。父も兄も見た目だけは綺麗で、女に困っていなかったのが幸いというべきだろうか。
 だから成長した彼女が男性恐怖症になるのも、無理はなかった。家庭の惨状を知って引き取ってくれた叔母夫婦は優しかったし、それなりに分別がつくようになれば父や兄のような男性ばかりではないことも理解できた。しかしそれでも、幼い頃の凄惨な記憶というものは拭いきれない。女子高、女子大を出て社会人になった彼女は未だ男性と視線を合わせることすらできていない。
「いらっしゃいませー」
 社会人、といっても叔母夫婦の経営する花屋を手伝っているだけだ。実子はいないので、xxがいずれ継ぐことになる。荒治療を迫られることなく過ごしてきた彼女も、流石に一生傷を抱えたままでいるわけにもいかないと思っていた。だから男女問わず適度に客の来るこの花屋は、慣れるのにうってつけだ。
「こんにちは、xxさん」
「安室さん、いつもありがとうございます。お電話いただいたお花、できていますよ」
 店先から爽やかな挨拶をした安室透は、この花屋の常連だった。いつもは仏花を買っていくのだが、今日は見舞いの花らしい。xxは努めて明るい声をかけ、店の奥へ引っ込むとすぐに花をもって戻ってきた。依然として視線は交わらない。安室は気にした風もなく「ありがとうございます」とそれを受け取ると、懐から数枚の札を出して彼女へ渡した。その時、一瞬だけ指先が触れ合う。ばっと勢いよく手を引いたxxに、安室が柔らかく微笑んだ。
「すみません、不注意で」
「いっ、いえ! こちらこそ申し訳ありません」
 xxは慌てて頭を下げる。安室は彼女が男性恐怖症であることを知っていた。それは彼にとって不都合でもあり、好都合でもある事実だ。安室は平謝りするxxに、気にしていないと手を振ると出て行った。
 安室の帰った店中で、xxはひとりため息をつく。また、やってしまった。何とか会話はできるようになったものの、それ以上はダメだ。男性客の全員が、安室のような対応をしてくれるわけではない。愛想が悪いと怒られたこともあった。早く克服しなければ。そう思って、彼女はぐっと安室の触れた指先を握った。

 そんなxxの状況に薄日が差したのは数日後のことだった。
「いらっしゃいませー」
 やってきたのは、パンツスーツを着こなす背の高い女性だった。女性はニコリと綺麗な笑みを浮かべながら、無言で店内に並べられていたフラワーバスケットを指さした。
「こちら、おひとつでしょうか?」
 xxはしっかりと女性の方を見てそう確認すると、女性はひとつ頷いて財布を取り出した。お釣りを手渡す際に、xxが丁寧に女性の手に触れた。小銭を落とさないようにという配慮だったのだが、女性はそれに軽く目を見開く。そんな彼女の様子にxxは気付くことなく「ありがとうございました」と笑いかけた。
「――くっくっく」
 店内に、笑い声が響く。それは聞き覚えのある、男性のものだった。驚いて固まるxxの手を声の主である女性がぎゅっと握る。xxは僅かに震えたが、いつものように逃げることはしなかった。
「安室、さん?」
 代わりに、信じられないという顔で彼に声をかける。
「そうですよ。ふふ、触れましたね、僕に」
 いつになく優しく細められた目は、確かに安室の面影があった。しかし卓越した化粧技術のせいか、彼だと知っていても女性と錯覚しそうだ。本来の彼をよく見たことが無いというのもあるのかもしれないが、xxにとっては恐怖を和らげるのに大きく買っていた。
「ところで提案なのですが」
 安室は、今の見た目に似つかわしくない声で嬉しそうに言う。
「僕に、恐怖症克服のお手伝いをさせていただけませんか?」
 しっかりと握られた手は、もう恐怖の対象ではなかった。いつも優しい彼なら、一度目を合わせることが出来た彼なら、今こうして触れている彼なら。大丈夫かもしれないと、小さな期待がxxの中に芽生えた。
 そうして安室を見上げたxxに、安室が内心ほくそ笑んでいたことなど誰も知らない。この先、安室はまともな協力などするつもりは毛頭無かったのだ。


まりもさま、リクエストありがとうございました。
お待たせした上に投げっぱなしの最後でごめんなさい。恐怖症克服の手法は様々でして、これだけで連載一本書けてしまうのでは……。
作品気に入っていただけて幸せです。いつも楽しみにしていただいて、ありがとうございます。

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