他に好きな人ができた。そう申し訳なさそうに、しかし若干の浮かれを滲ませて彼女は告げた。ふざけるな。肚の奥底から這い上がってきた言葉は、俺の脳内には大きく響いて揺さぶったが、口の中で融けてしまった。視線をxxから地面に滑らせる。無意識に相当な力で握りこぶしを作っていたらしく、視界の端で自分の手が震えていた。
「そう、か」
 やっとのことで声を出す。外で使う丁寧語も抜け落ちていた。意識してゆっくりと指先や顎の力を抜いて、もう一度口を開く。
「そうですか」
 今度は綺麗に声が出た。xxはあからさまに肩の力を抜く。俺の呟きを納得ととったらしい。冗談じゃない。誰が納得などするものか。今すぐその細い肩に掴みかかって、あなたは誰にも渡さないと強引に押し倒したいというのに。しかし、xxの中の降谷零や安室透はそんなことなどしない。彼女の中の自分を壊さないようにしなければ。ここで我を通しても、望む未来などありはしない。
「ずっと、あなたには僕だけだと思っていました」
 力なく微笑んでみせる。xxの顔が曇った。ほんの少し前までは、その通りだった。xxにもその覚えがあるはずだ。
「僕には、今でもあなただけです」
 一歩近づいて、じっと彼女だけを視界に入れる。切なげに瞳を揺らす自分が、xxの中に映っていた。優しく彼女の手を取って、俺の頬に寄せる。抵抗はされない。彼女はただ必死に後ろめたさと戦っているようだ。俺を裏切るのだ。当然だろう。
「最後に、少しの間だけこうさせてください。俺にあなたを刻み付けたい。その逆はきっと難しいでしょうから」
 xxの後頭部に手のひらで触れて、胸元にそっと寄せる。背中にも腕を回せば、彼女の服にきゅっと皺が寄った。xxの呼吸音が聞こえる。控えめにつけた香水とシャンプーの匂いに、冷静さを失いそうになる。以前であれば、俺の腰あたりを掴んだ小さな手があったのに。xxの両手はだらりと下げられていた。
「この先もあなたを想い続けていくことを、どうか許してください」
 唇を耳元によせて囁く。xxの表情は見えないが、動揺していることは伝わってきた。ね、それくらいなら良いでしょう。名残惜し気に彼女から体を離し、確認の意味を込めて微笑む。xxは辛そうな表情でゆっくりと頷いた。あなたがそんな顔をする必要なんてないのに。
「さよなら」
 酷く愛らしい声で彼女はそう言って、俺から離れていった。彼女の姿が見えなくなるまで、俺はその背中を目に焼き付けていた。

 俺しか知らなかったxxは、こちらの世界に来てからたくさんの人に出会って、たくさんのことを知っただろう。当然、俺以外の人間との交流も深めていた。xxに関わった人間は全員把握していた。xxが他の男に好意を寄せ始めていたのも薄々気付いていた。それでも俺から離れることは無いと信じていた。そのはずだった。xxの唯一は俺だと。xxには俺がいなければと。そう思っていたのに。
 まさか、振られるとは。こんなことならばあの男を放っておかず、xxから遠ざけてしまうべきだった。xxの、あの男に対する不信感を育てておくべきだった。しかし、もう遅い。xxの気持ちはもう俺にはない。いかないでくれと追いかけたとして、欲しいものは手に入らない。ともすれば、俺にはもう彼女の幸せを願うしかないのだ。あの男が、xxを幸せにしてくれると信じるしかない。xxの選んだ男だ。愛する女の愛する男を受け入れられないでどうする。さよなら、俺のxx。

 なんて、思えるはずないだろ。

 乾いた笑いが漏れる。野外であることも気にせず、ずるずるとその場に座り込んだ。許さない。俺のxxを誑かしたあの男を。あんな男が、彼女を心から幸せにできるわけがない。絶対に取り戻さなければ。xxが必要としているのは、いつだって俺だけだ。他の男であるはずがないのだから。
 ポケットの携帯が震えた。あの男が、今しがたxxに送ったメールだ。ペアリングは解除していないので、通知は全て俺にも来る。来週の日曜日に約束をしているらしい。場所と時間を確認して、即座に計画を練り上げる。xxを取り戻す計画だ。いかにあの男が彼女に相応しくないかを示すための計画。
 数分間じっと思考を巡らせ、シミュレートをし終えて立ち上がる。服に着いた汚れを払って不敵に笑った。先ほどとは違う携帯電話を取り出して電話をかける。
「バーボンです。少しお願いしたいことがありましてね」
 嫌よ。電話の相手には何も聞かずに一蹴されてしまった。いつものことだと苦笑にとどめて続ける。
「そう言わないでください。前に、人手不足だと言っていたでしょう? 組織の役に立つような良い人材を見つけたんですが、勧誘に値するのか僕じゃ判断できなくて。それで、あなたにも見てもらえないかと」
 少しの間、沈黙が流れた。
「誰なの」
 煙草を吐き出す音と共に、短く問いが返ってきた。第一段階は成功したらしい。あの男のプロフィールを出来るだけ細かく伝える。あとでデータも送っておくか。あの男が元米軍の人間で良かった。勧誘理由の一つになるばかりでなく、痛む良心も最小限で済む。
「ええ、そうです。来週の日曜日、東都水族館へ赴くそうですから良い機会かと。今週あたりから徐々に接触を増やした方が成功率は上がると思いますけれどね。上手く篭絡してくださいよ」
 そう言って電話を切った。さて、自分も準備をしなくては。履歴を偽装した携帯に、女物の服とアクセサリー、あの男の私物とお揃いになるような日用品。用意しなければならないものは沢山ある。急ぎ足でその場を後にした。


リクエストありがとうございました。書いていて楽しかったです。
二作どちらも一気読みですか、なんと。たいへん光栄です。書いた私でさえ恥ずかしくなるか飽きるかで一気にはとても……。

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