今ドアの向こうに見える上司は、本当に降谷零なのか。彼一人しかいない部屋の中、赤く上気した顔がドアの隙間から覗き、荒い息が響いている。座っているのは、私の席だろうか。時々漏れ聞こえる声は私の名前を紡いでいた。
 先日上司が起こした事故についての後処理に追われ、休日を返上して出勤したというのに、待っていたのはとんでもない光景だった。そっと目を逸らして足音を立てないようにドアから離れる。これ以上この場にいると、独特な香りと熱でどうにかなってしまいそうだ。
 一旦女子トイレまで避難して、目を閉じ深呼吸をする。再び目を開けば、鏡の向こうの自分もこちらを見ていた。出勤前にチェックしたままの顔だ。メイクだって崩れていない。しかし、試しに上げた口角は綺麗に弧を描いてはくれなかった。
「あれは、降谷さん、だったよね」
 洗面台に手をついて自分に問いかける。そうだ。見た目と声は降谷さんだった。いつもの凛としていて威厳ある振る舞いは跡形もなかったけれど。それに、ドアの隙間からでさえ漏れてきたあの匂いはきっと他者を誘惑するものだ。私を含めたアルファは、その影響を大きく受ける。わざわざ自らの性など言いふらすものではないが、普段の様子や雰囲気からだいたい皆がお互いの性を察して生きている。経歴や能力を見るに、降谷さんはアルファだとばかり思っていたが、どうやら。
 時計を確認すれば、十分ほど鏡の前でじっとしていたらしい。そろそろ戻っても大丈夫かと、廊下へ出る。わざと大きめにヒールの音を響かせて、ゆっくりと扉に近づいた。
 南無三。ガチャリ。ドアを開く。降谷さんは部屋の隅で山積みになっている資料整理をしていた。私の席は元通りになっている。それでもむせ返るほどの甘い香りが部屋に充満していて、一歩進むごとにそれが気管にこびりついた。
「おはよう、xx」
 たった今気がついたかのように振り返った降谷さんは、いつもと変わらない顔で挨拶をした。先ほど盗み聞いた余裕のないかすれた声とは全く違う、穏やかな口調だ。私も挨拶を返して席に着く。椅子がほんのりと暖かい。いや、それはあの光景を見てしまったから感じるだけかもしれない。ただ、しっかりと椅子に染み付いた残り香は誤魔化しようがなかった。少しだけクラクラとするのは、本能に訴えかけられている証拠だ。降谷さんは気付かれていないとでも思っているのかもしれないが、これに気が付かない方がどうかしている。
 パソコンを立ち上げている間、背もたれに体を預けて息を吐く。肺の奥に溜まった部屋の空気で、気管がヒリヒリした。何気なく横目で降谷さんを見遣れば、彼も私を見ていたらしい。視線が交わった。ゆるゆると目を細め意味深に椅子の淵をなぞる。すると降谷さんは動きを止めた。それに気を良くして口を開く。
「あの降谷さんが、オメガだったなんて」
 彼のフェロモンのせいで、私の脳も麻痺してしまったらしい。たくさんお酒を飲んだ時のように気分がハイになって、思っていることが口から出て行ってしまう。ああ、何も見なかったし気付かなかったことにすればいいものを。頭の冷静な部分では後悔していても、アルファの本能に勝てない。
「こんなにアルファを誘惑するフェロモンを撒き散らしておいて、気が付かれないとでも? 今まで誰にも知られなかったことが奇跡ですね」
 椅子から腰を上げて降谷さんに近づく。歩を進めるたび、甘い密の中を歩いているようで頭が痺れた。降谷さんの前まで行き、見下ろす。私を見上げる瞳は潤んでいて、半開きの唇が輝いて見える。そのままじっと見つめていれば、降谷さんは嬉しそうに頬を染め、恍惚とした笑みを湛えて熱い息を吐いた。
「普段は抑制剤を服用している。今日はxxと二人きりだから、二人きりになるようにしたから、発情は抑えなかったんだ。xx、あなたに気付いて欲しかったから」
 そう言って降谷さんは私に手を伸ばす。きゅっと控えめに握られた服の裾は、まるでその部分が私の皮膚のように熱く感じられた。焦点が合わない。判断力が鈍る。ふわふわとして現実感がない。本格的に彼のフェロモンに当てられてしまったようだ。降谷さんの肩に手を置いて椅子に座る彼に跨れば、期待したように膨張したソレが目についた。体の奥が疼く。
「そんなに可愛い事を言うと、番にしますよ」
 そう言って降谷さんの唇を噛んだ。彼の口から嬉しそうに吐息と唾液が漏れる。無意識だろうか、彼の腰が上に乗る私を揺らした。


真白さま、リクエストありがとうございました。
お借りしているサーバの利用規約に引っ掛かりそうなので短めになってしましました。この後はお察し。オメガバース、とても捗るので余裕のあるときに加筆修正するかもしれません。

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