ここ数日、零さんの様子がおかしい。
 まず、ベッドが別になった。そしてスキンシップが著しく減った。他の男性と話をしていても、間に割って入られるようなことが無くなった。愛の言葉を囁くものの一方的で、私の返事を期待していないようだった。何より、視線が合わない。他に気になる女性でもできたのかと思ったが、どうやら違うらしい。それとなく尋ねてみれば勢いよく否定されてしまった。それならば、一体どうして。
 ガタン、と玄関で音がした。零さんが帰ってきたらしい。付けたテレビをそのままに、ソファから立ち上がって玄関へ向かう。
「おかえりなさい」
 そう言って顔を見せれば、零さんは「ただいま」と少しだけ笑った。青い瞳は相変わらず私の目を見ない。近寄った零さんからは、お酒の臭いがした。そう言えば今日は飲み会だと言っていたな。飲み会と称するには危険すぎるメンツだったようだが、コードネームからすればぴったりだ。アルコールには強い彼もさすがに気疲れしたらしく、少々顔色が悪い。いや、ほんのりと頬は紅いので、顔色というよりは表情だろうか。
「お水、用意しますね」
 キッチンに向かう。後ろで、零さんがソファへ倒れこんだ音がした。よほど大変だったらしい。コトリ。ローテーブルの上に水を置く。零さんが小さな声でお礼を言ってそれを飲み干した。
 はあ、と大きなため息と共に再び零さんはソファへ横になる。少しの空いたスペースに私も座った。テレビから笑い声が響く。つられて私も少しだけ笑った。零さんがこちらへちらりと視線をよこした気配がする。顔を彼の方へ向ければ、勢いよく逸らされた視線。本当にどうしたのか。
 おえ、と零さんがえづいた。おいおい、まだ吐いてくれるなよ。慌てて洗面器を用意する。未だに黒いスーツを着ている彼の胸元を緩め、抱き起して背中を擦った。ぜいぜいと息をして、時折えづいてはいるが、吐く気配はない。それならば吐き気を抑える方が良いかと寝室から精油を持ってくる。熱湯を洗面器に張り、それを垂らす。ユーカリの良い香りがした。ああそうだ、テレビも消そう。
「ゆっくり息を吐いて、そう、今度は胸いっぱいに吸ってください。慌てなくて大丈夫ですよ、目を閉じて、傍にいますから」
 寄りかかってくる零さんの耳元で語り掛ける。成人男性の、それも鍛えている人間の身体を支えるのは重労働だが、吐かれるよりマシだ。根気強くそうしていれば、次第に零さんは落ち着いていった。
「どうして」
 目を伏せたまま零さんが呟いた。体重の三割は相変わらず私にかかっている。吐き気はどうにか収まったようだが、まだ頭は正常に回っていないらしかった。
「どうして、そんなに優しくするんだ」
「ええっと……?」
 絞り出されたその問いに困惑する。恋人のふりが板についてきたからです。答えは単純だが、そう答えるのは簡単でない。窮する私に気が付いたのか、零さんは自嘲気味に笑った。
「やめてくれ。これ以上、優しくしないでくれ。俺のために言葉を選ばなくていい。その細い身体で支えてくれなくていい。柔らかく触れてくれなくていい。そうでないと」
 零さんは一旦言葉を切った。震える唇で息をしている。途切れ途切れの呼吸音が響いた。
「そうでないと、勘違いする。あなたが、本当に俺を好きでいてくれているんじゃないかと。ついに俺を好きになってくれたのではないかと。都合の良いようにとってしまうから」
 そこまで聞いて、零さんの重みが増した。口は半開きで、目は閉じている。気を失ったらしかった。
 言うだけ言って無意識の世界へ逃げるとは。残された側の気持ちも考えて欲しい。今、零さんは何と言っただろうか。勘違い、好き、都合の良いように。断片が頭を巡る。何度も反芻してようやく達した結論は、私が当初から望んでいたものだった。
 つまりは、零さんの病気が治った、と。

+++

 ソファで目覚め、体が痛い。まだ明け方だろうか。リビングはしんとしている。意識を失う前には感じていたぬくもりが消えていた。それを寂しく思いながら体を起こせば、するりと毛布が床に落ちた。xxがかけてくれたのだろう。優しくするなと言ったのに。漏れた笑い声は卑屈に聞こえた。
 xxxxは、俺の恋人ではない。そのことに気が付いたのは、探偵業を通じてだった。
 恋人になった覚えがないのに、勝手に相思相愛だと妄想的確信を抱かれている。何とかして自分を守ってくれ。
 ある男性からの依頼だ。探偵の仕事とは少しばかりずれている。精神科にでも行ってくれとオブラートに包んで伝えたのだが、必死な男に負けて引き受けることになってしまった。相手の女を調べているうち、妙な感覚に襲われた。既視感に似た、シンパシーだろうか。思い当たる節は、嫌な予感を大きくしていった。そしてそれが、確信へと変わる。俺も、xxを煩わせていたのだ。
 気が付いた瞬間、羞恥心や罪悪感が身体を駆け巡った。ゾワリと絶望に背筋が凍る。それからは、もう以前のようにxxと接することができなくなっていた。冷静になって見れば、xxはいつも曖昧に笑っていた。せがめば、望む言葉やぬくもりを与えてくれはする。だが、自分からは決して俺に触れたりはしなかった。
 xxが俺を好きではないと気が付いても、俺が彼女を好きな気持ちは消えなかった。心を通わせた瞬間など、ただの一度もないと言うのに。なぜだか彼女を想うと、高揚感と安心感に包まれ、じんわりと幸せが滲むのだ。良くない事だと分かっていても、xxを手放すことが出来ずにいる。彼女が抵抗しないのを良いことに、未だ彼女を縛り続けている。後ろめたさで視線を合わせられない。そんな俺の態度に困惑しつつも“理想の恋人”でいてくれるxxは、俺をどう思っているのだろうか。

 疲労と酒の勢いで、とんでもないことを口走ってしまった。紛れもない本心を。あそこまで言えば、xxは気が付いてしまっただろうか。もう俺から逃げても大丈夫だということに。情けなく口元が歪んだ。天井を見つめていた視線を下ろすと、昨日xxが用意してくれたグラスがそこにあった。耐え切れずに目を閉じる。昨夜見た彼女の横顔がどうしてもちらついた。
 恐ろしくて寝室には行けない。俺が正気を取り戻したと分かれば、xxはきっとすぐに出ていくのだろう。彼女の性格からして挨拶もなしに行くとは思えないが、今まで自分が彼女にしてきた事を考えると何とも言えない。出て行ったのは、深夜かもしれない。一時間前かもしれない。五分前かもしれない。未だの可能性もあるが、もういないと分かってしまったら、耐えられない気がした。
 アラームが、寝室から聞こえてきた。xxが携帯で設定しているものだ。数秒して音は消え、再び静寂が訪れる。彼女が、xxが、いる。未だ俺の目の届く所に。再び天井を仰ぎ見た。お別れはきちんと言わせてくれるらしい。最後を想像して、ズキリと心が痛んだ。
 寝室の扉が開き、普段と変わらない様子でxxが姿を現した。ぼうっとした様子で呑気に挨拶をされる。このまま関係が変わらないのではと期待をしてしまった。だがそれも一瞬にして打ち砕かれる。
「今日までお世話になりました」
 顔を洗って戻ってきたxxは、晴れ晴れとした笑顔でそう言って頭を下げた。ああ、と短く返事をする。彼女と同じように笑い、今まで迷惑をかけたことを謝ろうと思っていた。俺の方こそ、とそこまで言って息が詰まった。ぐずりと胸の奥が潰れる感覚がする。もう手遅れだったらしい。だが同じ轍は踏まない。今度は俺が言葉を選ぶ番だ。
「そのことなんだが」
 ここ数日まともに見られなかったxxの目を、じっと見据えて言った。xxが意外そうに瞬きをした。コテンと首を少し傾げる仕草さえ愛おしい。妄想から覚めたことや、今までの謝罪を並べる。それでも尚、xxが好きだということも。
「虫のいい話だろうが、俺にやり直すチャンスをくれないか。ゼロから全部、あなたの事が知りたい。きちんとあなたを知って、同時に俺のことも知って欲しい。無理やり恋人にはしないし、嫌なら逃げたって良い。欲を言えば、俺の理想を押し付けたあなたじゃないxxに、俺を好きになって欲しいが……言えた事じゃないな」
 俺の必死さが伝わるように、視線は逸らさない。xxの動揺が伝わってきて、俺が彼女の心を少しでも動かしていることに嬉しくなった。xxはしばし考え込んだあと、照れた様子ではにかむ。心臓がきゅっとした。
「外出の報告は必要ですか?」
 いたずらっぽく問いかけられた言葉は、一生の宝物になるのだろう。持久戦は覚悟の上だ。一生をかけてでも、必ず手に入れてやると固く心に誓った。


マイマイさま、リクエストありがとうございました。
ちょっと特殊な降谷さんが好評で嬉しいです。いやしかし、まともな降谷さんってどうやって書くのでしょうかね。私の書いた中ではこの降谷さんが一番正気だと思います。ハッピーエンドへの兆しを感じて頂ければ幸いです。

back to top