損失21g ぱちり。目を瞬かせて首を傾げる。
「やだなぁ、透くん」
バーの個室で二人きりだ。いつもと違う雰囲気に、少しだけ緊張する。もうほとんど氷しか残っていないドリンクに口をつけた。
「私は透くんが好きなんだよ? 安室透だから、好きなの」
私の好きをはかっているつもりだろうか。本当の自分は安室透ではない、なんて。困ったように笑いかければ、透くんは固く結んでいた唇をゆっくりと開いた。一瞬だけ表情が暗くなったのは気のせいか。彼の息を吸う音が鮮明に耳に届く。
「なんてね、冗談さ」
透くんが軽くウインクをした。いつもの明るい顔だ。
「どんなあなたでも好きだよ、とか言って欲しかった?」
頬杖をついて揶揄いの言葉を投げる。透くんはふっと笑って首を横に振ると、私の頬をするりと撫でた。
「さっきの言葉も、十分嬉しい」
目元を甘く緩めて囁かれる。彼の指先がそのまま首元へと下るから、くすぐったくて身をよじった。
+++
――お前もいい歳だろう、そろそろ身を固めたらどうだ。相手もいないわけじゃなかろ
上司がため息交じりにそう言ったのが、ずっと心に引っ掛かっている。潜入捜査官、それも現在トリプルフェイスの身でそんなこと出来るわけがない。そう反論したが、上司は僕の懸念など吹き飛ばす勢いで背中をバシバシ叩いたのを覚えている。
――所帯を持つってのは良いぞ。「必ずコイツのところへ帰るぞ」って思える
豪快なその笑い声と言葉に、精神的にも背中を押された。だから、彼女に全て伝えようと決心したのだ。
尾行や盗聴に気を付け、安室透とは違う顔を意識して、話すべきことを吐き出した。
「やだなぁ、透くん」
聞き終えた彼女の第一声がこれだった。きょとんとした表情のxxは可愛いが、僕の話を信じていないらしい様子にどうしようかと頭を悩ませる。懐に仕舞いこんだ身分証を出そうとしたとき、xxがこちらをじっと見つめて続けた。
「私は透くんが好きなんだよ? 安室透だから、好きなの」
だから、そんなこと言われても困るよ。言外にそう返された気がした。心臓が冷える。乾いた笑いが漏れそうになるのを堪えて一瞬だけ目を伏せた。
なぜ受け入れてもらえると信じて疑わなかったのか。自分の浅はかさに苛々する。xxは僕の話を信じていないのではなく、信じるつもりがないのだ。そうか、そうだよな。喉の奥が熱い。誤魔化すように嚥下をしようと舌根に力を入れても上手くいかない。
酷く動揺する。降谷零を受け入れてもらえなかったという事実に。酷く惜しいと思う。本当の自分が安室透ではないということに。
それでも己の信念と正義を、彼女のために不意にするつもりはない。だから、この話は聞かなかったことにという意味を込めて笑顔を作った。
「なんてね、冗談さ」
一定の声量を意識して綺麗に片目を瞑る。不自然ではなかっただろうか。触れたxxの体温に甘えた。
彼女がお手洗いにと席を立った。その後ろ姿をぼうっと眺めて「好きだなぁ」と呟く。もし、僕が安室透だったならば。xxはずっと僕の傍にいてくれるのだろうか。
私立探偵兼アルバイターだなんてろくでもない男だと思うのだが。困ったことに彼女は他でもない安室透が好きらしい。
――安室透だから、好きなの
反芻する。
美しく弧を描く睫毛に縁取られ、その中心で揺らめく瞳を思い出す。胸が締め付けられた。ぐっと目を瞑る。何度も脳内で彼女の唇とそれが紡ぐ言葉を繰り返した。髪をかき上げる。額に汗が伝った。
xxの足音が聞こえてきて目を開ける。
「お待たせ、透くん」
そうだ。僕は、僕が、安室透だ。
表紙へ トップへ |