損失21g
 喫茶ポアロとガラスに書かれた文字を横目にドアを開けた。いらっしゃいませ、と男女の声が聞こえる。一歩踏み出し店内を見回せば昼時を少し過ぎて人もはけた中、透くんと目が合った。
「xx!」
 食器を拭いていた手を止めこちらへ寄ってくる。ニコニコと上機嫌な彼に手を引かれるままカウンター席へ座った。透くんはそのまま奥へ引っ込んでいく。コトリ。梓さんがおしぼりと水を持ってきてくれる。それにお礼を言ってオーダーをすれば「かしこまりました」と彼女は可愛らしく笑みをつくった。
 風見さんの襲来という衝撃的な出来事から数日経ち、変わった環境に身を置くことになったが慣れつつある。以前と生活が一変したわけでもないので、ただ同棲を始めたのだと思えば何ともなかった。特に不自由もない。
 透くんの方は安室透としての仕事のみ続けているらしい。先日の話を思い返す限り、透くんは気軽に出歩いて良い立場ではないはずだ。命を狙われる可能性もある。完全な降谷零ならば相応の対応が出来るだろうが、今は違う。透くん、安室透だって十分強い。それはよく知っている。けれど心配なことには変わりはなく、一度風見さんに本当に大丈夫なのか尋ねてみたのだが彼は是の一点張りだった。ただ、定期的にポアロへ行って透くんの様子を見てくれと頼まれたのでこうして度々足を運んでいる。
「お待たせいたしました」
 オーダーしたナポリタンを、マスターが目の前に置いてくれた。少し遅めの昼食だ。いつもは透くんが持ってきてくれるのだが、今日は違うらしい。
「ふふ、安室さんならもう少ししたら来ますよ。せっかくxxさんが来てくれたんですから、休憩がてらxxさんとお昼にしなさいって、マスターが」
 無意識に透くんを探してしまったようで私を見た梓さんがクスクスと笑う。気恥ずかしくなって、伏目がちにマスターへ会釈をした。
 それならば透くんが戻って来るまで待っていようかとも思うが、せっかくのナポリタンが冷めてしまうのも忍びない。一口二口フォークを進めていれば、カランと音がして店のドアが開いた。梓さんはそちらへ目を向けて「あらいらっしゃい、コナンくん」と挨拶をした。最近知った小学生の名前に私も振り向く。すると利発そうな顔をした少年が一人、慣れた様子で梓さんと会話をしていた。
「あ、xxさんだ!」
 コナンくんの方も私に気が付いたようでトタトタと駆け寄って私の隣に腰かけた。「ボクいつものね」と常連の特権を発動している。いつもの、というのはアイスコーヒーだろう。背伸びをしたい年頃のようで微笑ましい。
 食事をしつつコナンくんや梓さんと他愛ない会話をしていれば、コナンくんとは反対側のイスが引かれた。振り返れば透くんがいて、彼の前にも同じナポリタンが置かれていた。
「今日は僕の分もマスターが作ってくれたんだよ」
 口元を緩めて透くんが言う。素直に相槌を打つ私の横で、コナンくんが「えっ」と驚いていた。目を見開いて透くんを凝視している。何か引っかかることでもあったのだろうか。どうかしたのかと聞いてみるが曖昧に返されるだけだった。それから考え込むように何やら呟いている。他人、作った、めずらしい、という単語だけは聞き取れたがよく分からない。
「いただきます」
 透くんが手を合わせた。外で一緒に食事をするのは久しぶりだな。小さな幸せに目を細めて、私も食べかけのナポリタンに再び手を付ける。一口含んだ透くんは「美味しいですね」と私に微笑みかけた。
「そうね」
 きゅっとときめいたのを隠すように同意の言葉を短く紡いだ。視線を透くんから外そうとしたとき、彼の様子がおかしいことに気が付く。眉間に皺が寄り、口を真一文字に結んでいる。しかし怒っているのとは様子が違う。眩暈に耐えるように視線を下げ、胸のあたりを掴んでいた。
「透くん?」
 フォークを置いて透くんの背中を擦る。彼は背を丸めて、こちらをちらりと見上げた。弱弱しく名前を呼ばれる。私の裾を掴む手は力ない。お水でも飲めば落ち着くだろうかと目の前のグラスを空いている手で取った。途端、ぐらりと透くんの身体が傾く。慌てて支えようとすれば水は零れ落ちて服にかかってしまった。同時に生暖かいものが膝に垂れる。ツンとした刺激臭がぐしょりと侵食する。
 これは、一体。動揺して理解が追い付かない。コナンくんや梓さんも同じようで固まっている。
「っ、は……ご、め」
 透くんは苦しそうに声を絞り出し、ゆっくりと上体を起こして申し訳なさそうに口元の汚れを拭う。大丈夫かと覗き込んだ瞳は揺れていて、彼自身も自分に何が起こったのか把握しきれていないようだった。

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