損失21g
 ポアロでの騒動後、なんだか様子のおかしい透くんを伴って家へ帰った。本人すら自分の体に何が起こったのか俄には把握できていないようだったのだから、今日はもう仕事なんかできやしないだろう。
 家に帰ってからも、申し訳なさそうに身を縮めている彼がいたわしい。こちらの反応を覗いながら殊勝にも何度となく謝るので、これ以上沈まないようにさっさと着替えさせて寝かしつけてしまった。眠れるかどうかは別として、しばらくは横になっていた方が良いだろう。

 透くんをベッドに押し込んで静まった室内で、ぽちぽちと風見さんに連絡をする。電話をかけたが繋がらなかったのである。掻い摘んで状況をなぞったメッセージは、既読がつくのにしばらくかかるだろう。忙しい人だから。

 夕飯の時間にはまだ余裕があるはずだったのだが、スマホを片手にすっかりと意識をとばしていた。ソファでうたた寝なんて、久しぶりだ。ぐう、と鳴りそうなお腹に力を入れて伸びをした。ご飯の準備でもしよう。
「透くん、そんなに体調が悪いってわけじゃなさそうだけどなぁ」
 彼が起きてきた時に、と消化の良さそうな献立を考えながらキッチンに立つ。冷蔵庫をぱたっと開けて見てみると、丁度うどんがあった。和風おろしにでもしようかな。あまり手の混んだものを作る気分でもない。

 十分足らずで夕食が出来上がった。透くんもそろそろお腹がすいているはずだ。起こしてこようと寝室のドアノブに手を掛けたとき、中でごそごそと小さな音がした。透くんが起きたのかもしれない。軽くノックをしてドアを開く。
「透くんー?」
「え……あっ、わ、まって、くださ」
 透くんがベッドに腰掛けてあわあわとこちらを見た。かと思えばくるりと背を向けられてしまう。どうしたのかと近寄ろうとすれば、それを察知したらしい彼が必死な声色で制止した。
「だ、大丈夫ですからっ」
 肩越しにこちらを振り返っているが、視線は下ろされていて交わらない。どう見ても大丈夫ではないだろうと早足に彼へと近づく。彼の肩が大げさに跳ねた。
 そっと隣に腰掛ける。改めて近くで見ると、寝かせるときに着せた服の前ボタンが半分ほど外れていた。透くんは私の視線に気がつくと、益々俯いてぎゅっと服を寄せる。
「みっ、ないで……!」
 指先が小刻みに震えていた。
「怪我でもしたの? それなら手当するから」
「違ッう、んです。……大丈夫です」
「じゃあどうして隠すの? 透くんが大丈夫でも、血が出てるなら服に付いたら大変でしょ」
「あの、本当に怪我ではなくて」
 疑わしいが、周囲に血が滲んでいる様子はない。尚も大丈夫だと首を振る彼に、それなら証拠を見せろと無理矢理に腕を剥がした。
 綺麗な胸板と腹筋だ。男前である。
 私が「あれ?」と首を傾げると、だから言ったでしょうとばかりに透くんが私の腕を払った。
「ごめんね、嘘じゃなかったね」
 へにゃりときまり悪く謝罪を述べれば、透くんは少しだけ笑ってくれた。それならどうして慌てて前を閉じたりしたのだろう。
 考えても思い当たらず透くんに尋ねる。彼は一瞬だけ言い淀んだが、私の強い視線に観念したのか躊躇いがちに口を開いた。
「起きたら、服の、前ボタンがはずれていて。留めなおそうと……した、んですけど。できなくて。いつもしていたはずなのに、小さな子供ですら出来るのに。僕は、どうしたら良いか、わからなくて。服の、着方すらっ、わか、分からなく…なっ、僕は……ぼ、くは」
 言葉を紡いでいるうちに、段々と息を吸う頻度が高くなっていく。最後の方にはハッハと声にならず悲鳴のようになっていた。
 このままでは拙いと透くんの背に腕を回して抱き寄せる。なんとか息を上手に吐いてもらえるように、自分の呼吸をくっつけた。

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