本棚を眺める。本や板の縁に指を滑らせれば案外埃っぽい。何でもできる強くて恰好いい完璧な彼の意外な一面を見てしまった。ひとりそっと笑みをこぼすが、瞬間自嘲に変わる。彼はろくにこの部屋を使っていやしないのだ。
 警察官になったのは知っていた。しかしある日突然、彼は警察をやめアルバイトの傍ら探偵業を始めたと云った。安室透という存在を作ったとも告げられた。正直なところ意味が分からなかった。ただ何も聞かないでくれと懇願され、私は頷くほかなかったのだ。
 それからというもの、彼はこの部屋へはあまり帰って来なくなった。合鍵は私が預かったままだ。だから定期的にこの部屋を掃除しに来てはいるが、果たして必要だろうか。顔を合わせていない訳ではないし、関係が冷え切っているのでもない。他に女がいるのかと疑う気だって有りはしない。ただ、降谷零が安室透になってから、何となく付き合い方を変えていくべきかと考えるようになった。ここ半年、この部屋で情事以外に彼と何をしただろうか。「他にもっと良い男がいるじゃない」という友人の諭しは尤もだったのかもしれない。だがしかし、こうしてせっせと部屋を綺麗にしているということは、きっと私はまだ彼が好きなのだろう。
 掃除機のスイッチを入れる。一通り床の埃を吸い込んで、こんなものかと辺りを見回した。ああそうだ、シーツも洗ってしまおう。ふかふかのマットレスを包んでいるそれを剥がす。横着をして一気に引っ張れば、マットレスの更に下からカサリと何かが落ちた。
 拾い上げてみれば、なんてことない避妊具だ。なぜこんな所にと思わないでもないが、おそらく箱から出した時に未使用の分をそのままにしていたのだろう。それがベッドの溝に挟まって忘れられたのだ。全く仕方がないなと苦笑してベッドサイドのナイトテーブルに仕舞おうとすれば、ぬるりと濡れた感触がした。
 どういうことだ。液漏れなんてそんなに古いものだっただろうかと注意して見れば、画鋲で開けたような穴が各包装に一つずつ。いやいや、まさかそんな。引き攣った声が喉を締め付ける。
 ドキドキと嫌な音を立てる心臓を宥めながら、怖いもの見たさに未だ手を付けていないゴミ箱を漁った。一昨日使ったそれを恐る恐る確認すれば、先端のぷっくりとした部分がぱっくりと裂けていた。どう見ても小さな穴ではないが、行為中に広がったのかもしれない。もとは私が見つけた未使用のもののように、小さな針孔だったのだろう。よくもまあピンポイントに先端付近を狙えるものだ。気が付かない私も私だけれど。
 乾いた笑いを飲み込んでから、はっとする。そういえば、彼は最近執拗にお腹を撫でてくるようになった。
「いやいや、まさかそんな」
 本日二度目の台詞は部屋に融けた。事後あまりにも丁寧にお腹をなぞるものだから、てっきりそういうフェチに目覚めたのかと思っていた。もっと、別の意味があったらしい。怖すぎる、と無意識にお腹を擦った。
 ガタン。不意に玄関から音がした。このタイミングで彼が帰ってきたのだろうか。手元の物を見遣る。問い詰めるべきか、知らないふりをするべきか。悩んでいる間にも玄関のドアは開き、私の靴を認めたらしい彼が「なまえ?」と声をあげた。
「おかえりなさい。掃除しに来たよ」
 どうにか返事をしたが、上擦っていないだろうか。一旦使用済みのものをゴミ箱へ捨て、未使用の方をナイトテーブルに置く。すぐに零が寝室へ入ってきた。
「いつも悪いな」
 相変わらずの綺麗な顔で、器用に目を細めている。いつもなら愛おしくてたまらないその表情も、今は得体の知れないものに思えて仕方ない。曖昧に笑い返せば、零はいつもと違う私の様子に気が付いたのか「どうした?」とこちらへ寄ってきた。そしてナイトテーブル上にあるそれを認めてふっと頬を緩める。とうとう気が付いたかとでも言わんばかりの彼にゾッとした。
「ま、さか……ほんとに、そういうこと?」
「そういう、って?」
 敢えて言葉を濁せば、意地悪く返される。ぐっと下唇を噛んだ。
「既成事実」
 やっとのことで単語だけを絞り出す。普通逆じゃない? 煮え切らない男を繋ぎ留めておくための手段としては、たまに聞く。しかし、仕掛けられたのは私だ。
 確かに何度か結婚を意識させるような話題は零にされた覚えがある。とはいえ警察官を辞めて探偵だなんて不安定な職についた彼を生涯の伴侶にするのには、どうしても慎重になってしまうのだ。だから幾度となく未だそこまで考えていないと匂わせてきたし、これからもそうするつもりだった。目の前で零が怪しく嗤う。
「責任はとるから」
 そう言ってぐいと私の腕を引き寄せ、共々ベッドへ倒れこんだ。抵抗をしてみても厚い胸板はびくともしない。
「ちょ、っと……やめ」
 首筋に熱い息がかかる。そろりと服の裾に零の手が伸びてきた。慣れた手つきで瞬く間にめくり上げられる。露になった腹に、零がほうとため息を吐いた。それが悔しいくらいに扇情的でくらくらする。
「この薄い腹に」
 掠れた低い声が甘く肌を這った。
「俺の種が根付いているかと思うと」
 かさついた零の唇が、私の腹に触れるか触れないかのところでそっと動いた。きゅっと手を重ねられ、じわりと恋人繋ぎになる。唇が臍の下あたりまで沿って、身体の奥深くが痺れる。軽くリップ音がした。
「ゾクゾクする」
 零がゆらりと体を離して私を見下ろす。いつの間にか薄暗くなっていた部屋で、恍惚の色を宿した青色が揺れている。
 これはとんでもない男に捕まってしまったらしい。心中、冷静な私が泣いていた。

表紙へ
トップへ