「人混みが嫌だと言っただろう」
 赤井さんは目尻に皺を寄せて得意気に言った。真意を測るように彼の目をじっと見つめる。エメラルド色が切れ目から覗き、周囲の青を幾ばくか反射していた。水槽と魚と私を捉えるそこには寸分の後悔もなく、むしろ誇らしささえ窺える。
「確かに言いました」
 小さな声で返す。息を吐くようにして「けど」と付け足した。それから先は言葉が見つからない。
 どこかデートに出かけようと、珍しく赤井さんから誘ってくれたところまでは素直に嬉しかった。話した覚えもないのに「行きたがっていただろう」と今話題になっている水族館行きを提案されたのもまあ良い。実際に興味はあったし、私の好みを把握しきっているのだっていつもの事だ。私は喜んで賛成して、どれそれのショーを見たいからこんな風に回ろうだとかお昼はどこで食べようだとか、色々赤井さんと相談した。
 赤井さんのお休みが日曜日だったので、話題の人気スポットは一層混雑が予想できる。大勢がごった返す様を想像して、人込みかぁとうっかり溜息を吐いてしまったのだ。それを聞いた赤井さんは特に気にした風もなく嫌かと尋ねたので、正直に答えた覚えがある。人込みは好きじゃない。けれど水族館には行きたい。赤井さんだって私の返事を聞いて「そうか」と頷いたきりだった。
 だから、こんな事態になるだなんて思わなかった。赤井さんと手を繋いで、窮屈に館内の魚を見て回る想像をしていたのに。
 きまりが悪くなって赤井さんから顔を背ければ、可哀そうに顔を腫らした男が視界に映る。元は綺麗だったろう服は所々汚れているがその胸に留められたネームプレートは読むことが出来た。この水族館の館長らしい。その隣には体格の良い男たちが揃って伸びている。時折聞こえるうめき声が怨嗟のように思えて身震いした。
「寒いか?」
 赤井さんは気遣わしげに私の肩を抱いて擦る。先ほどまで暴力を振るっていたものと同じとは思えないほどに優しい手つきだった。悲鳴をあげなかった自分を褒めてあげたい。大丈夫だと首を振る。肩に回っていた腕が離れ、代わりに彼の大きな手が私の左手を包んだ。
「事前に話は通しておいたはずだったんだが。金と時間が無駄になったな」
 ぼやくようにそう言うと赤井さんは歩き出す。賄賂も贈っていたのか。内心驚いたが黙っていた。
 少数の従業員しかいない館内を赤井さんと手を繋いで歩く。綺麗な魚類も海藻も心から楽しむことは出来ない。私たちの足音がやけに大きく響く気がした。館内の薄暗さと一緒に私の気分も曇っていく。
「気に入らなかったか?」
 不安げに赤井さんが私を覗きこんだ。
「いっ、いいえ」
 無理に明るい声を出した。口角を上げて取り繕う。機嫌を損ねたくない。小一時間ほど前の地獄絵図を思い出して、きゅっと唇を結んだ。彼は今私にとびきり優しいけれど、きっと興味がなくなった途端にその他大勢となるのだ。
「なら良いんだ」
 蕩けるような彼の微笑みを浴びながら、いつまで彼の特別でいられるだろうかと考えた。


表紙へ
トップへ