*R-15

 相談があるのだといつになく真剣な表情で切り出されたのが昨日のこと。その日は生憎時間がとれなかったので、今日の夜にでも食事がてらということになっていた。優秀な後輩に先輩としての威厳を示すべく気合を入れたが、彼は一向に肝心な話をしようとはしなかった。席に着くや否やふにゃりとした笑みで世間話を始め、ひたすら酒を煽るばかりだ。かなりのハイペース。見ているこっちが心配になった。
「それで、まさかタダ酒を集りにきたんじゃないでしょうね」
 三杯目のビールを喉へ流し込んでから尋ねる。じとりと目を細めて後輩を見遣れば、彼は心外だとでもいうように肩をすくめてみせた。
「言ったじゃないですか、相談があるって」
 コトリと空になったグラスが置かれる。降谷くんの指が悩まし気にそのグラスの淵をなぞった。当然、音が鳴るわけでもなし。ここは居酒屋だ。けれどその仕草が嫌に様になっていた。降谷くんはしなりと背を丸めて瞼を伏せている。
「せんぱい」
 男にしては長い睫毛だ、なんて惚けていれば不意に彼が私に手を伸ばした。酒は強いはずだろうに、とろんと甘えるような瞳とかち合い思わずぐっと喉に力が入る。テーブルを挟んではいても、彼が少し身を乗り出せば私の首へ触れることなんて造作もない。ひんやりとした感触がすぐに伝った。
「僕はね、怖いんです」
 私へと伸ばされた指先が力なく鎖骨を滑る。くたり。急に力を失ったその腕を咄嗟に掴む。グラスでも倒されたら大変だ。危ないじゃないかと口を尖らせれば、彼は「すみません」と音だけの謝罪をした。
 すっと指を絡めとられる。じっとそれを見つめていれば、逃がさないとばかりにきゅっと締め付けられた。
「何が怖いの?」
「ゴースト」
 笑ってしまった。幽霊を怖がるような年齢はとっくに過ぎただろう。むしろこの男の場合、そんな時期があったのかさえ疑問である。本気なのか冗談なのか、妙な熱を帯びたその表情からは少しも判断が付かなかった。
「大丈夫よ坊や、ゴーストなんていないわ」
 あやすように冗談として返す。彼が私にどんな答えを求めているのか見当もつかない。降谷くんの手から力が抜けた。その隙に自分の手を仕舞いこむ。残された彼の手は所在なさげに机を叩いていた。
「ゴーストはいるんです。いるんですよ、先輩。名前を付けるとすれば、そうですね……ウーティス、なんてところです」
 苛立っているのか不安なのか、穏やかな口調とは裏腹に降谷くんの所作は落ち着かない。
「ウーティス?」
 今度こそ嘲笑が漏れる。
「それならどうしようもないわね。神に祈るしかないじゃない」
 私は頬杖をついてニヤニヤと彼を見た。降谷くんはそれを気にした風もなくもう一度私へと手を伸ばす。先ほどよりも一層弱弱しく、心なしか血の気が引いている。普段は強気で自信家な彼が頼りなく思えた。
「きっとこの先、ずっとずっとゴーストは僕に纏わりついて離れない。いくら光に手を伸ばしてもそいつらがいつも邪魔をする。僕はもう暗い道から抜け出せない。過去に自分のしてきたことが今の僕を脅かして、今の僕が足掻いた結果は未来の己に降りかかる。苦しいまんまだ。僕はありとあらゆるものに押しつぶされ、何者でもない誰かに殺される」
 降谷くんはいつになく饒舌だ。このうるさい飲み屋で奇怪なポエムを紡がれても、どう反応すれば良いのか。私には降谷くんの考えが微塵も読めなかった。けれど、彼のもつ海が次第に揺れて形の良い眉が歪んだとき、ああいけないなと喉が鳴った。
「怖いんです、せんぱい」
 縋るような視線と声が私の心臓まで犯す。これ以上意味の分からない言動に振り回されては敵わない。
「飲みすぎよ。少し夜風に当たりましょう」
 逃げるようにして伝票を持ってから腰を浮かせた。


 生ぬるい風でも、室内の熱気に比べれば十分涼しい。通りを歩いていれば、すっかり酔いの回ったらしい降谷くんがやれ人が怖いだやれこの道は危険だと喚く。気が付けば人通りの控えめな怪しい路地まで来てしまった。
「ほら、終電なくなっちゃうから」
 携帯で時間を確認し、溜息を吐く。よたよたと私の隣で歩く彼の腕を引いた。
「いやです」
 ぐずりとすすり泣くような音と共に降谷くんが立ち止まる。掴んだ腕を利用して、ぐいと身体を引っ張られてしまった。
「まだ帰りたくない。一人にしないでください」
 酒気の帯びた吐息が耳にかかる。私を拘束する腕は震えているはずなのに、やけに力強く重かった。とろりと浮かれた彼の表情がフラッシュバックして心臓が跳ねる。
「先輩、先輩、先輩……なまえ」
 譫言のように呟かれた名前にひくりと反応してしまう。誤魔化すように、制止のつもりで彼の頭を撫でつけた。甘え上手の策略からなんとか逃れる手はないものか。けれど降谷くんはそれに気を良くしたのか、一瞬だけ口角を上げると私の唇に噛みつく。あっという間にぬめりと熱い肉に蹂躙され、望んでもいない声が小さく漏れた。誰が来るかも分からないのに。
「こわい。ひとりは、嫌だ」
 キスの合間、降谷くんは私に聞かせるようにして声を出す。離れようともがくがびくともしない。それどころか更に押さえつけられ、彼の長い脚が太腿の間を押しのけた。
「寂しいんだ、なまえ。僕は」
 絞り出したらしい青息吐息が上から降る。見上げれば切なげに曇る端正な顔があった。その色香に息を飲んだ途端、腰に回っていた手がパンスト越しに奥を撫でた。嬌声を押し殺す。そうすれば降谷くんは少しだけ残念そうにしてから、更に激しく指を操った。同時に腰も押し付けられて苦しい。嬉しそうな鼻息がくすぐったい。
「んっ、あ……」
 どうしても漏れ出る悩ましいそれが暗い路地に反響しないようにと願いながら、彼のスーツに皺を寄せた。


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