大きな音で目が覚めた。眉を寄せる。ゆっくりと瞼を持ち上げて周囲を確認するが、これといって荒れた様子はない。寝相で私が何かしたのではないらしい。ともすれば零さんか。寝起き早々溜息を吐きたくなる。放っておいて二度寝を決めてもいいのだけれど、きっとそれは叶わない。ドッドと荒い足音がする。ほらきた。
「なまえ!」
 ドアに平手打ちでもしたのかというような音を立て零さんが部屋へ入ってきた。ぐしゃりと右手に何かを握りしめている。ギシリ。彼の片膝がベッドに乗ったかと思えば、ようやく上体を起こした状態だった私の手首を掴んだ。
「どうして、まだこんなものを持っているんだ」
 震える声と交わらない視線、決して逃がすまいと私を拘束する身体。また発作か。今度は何がトリガーだろうか。
「こんなもの、とは」
 困惑を隠すことなく問いかける。零さんの手元を見遣った。十中八九、彼のもっているそれなのだけれど覚えがない。ゆらりと彼の身体が動いて私と向き合う形で膝の上に乗った。慣れた体勢だが、如何せん成人男性だ。重い。ついでにそろそろ手首も痛い。
 零さんは青い顔で自身の握りしめていた何かを私の眼前に突き出した。写真、だろうか。あまりに近くてよく見えない。顔を離そうとすれば、すぐさまそれを察知してはっとした零さんに「俺から逃げないで」と抱きしめられた。
「すみません。よく見えなかったから……」
 努めて優しい声で囁く。そもそも下半身に乗り上げられている形でどうやって逃げるというのだ。なんて言葉は飲み込むほかないのだろう。抱きしめられたことで自由になった両手を彼の胴体に回す。ぽんぽんと規則正しく撫でつければ次第に落ち着いていった。
「写真、ですか?」
 そっと体を離す。安心させるように彼の右手に手を添えて、そのまま持っているものを指した。零さんは渋い顔で頷く。写真を受けとって改めて見る。大学生の私が映っていた。私と、当時の彼氏だ。第三者に撮ってもらったようで、ローマの休日ごっこをしている。たしか卒業旅行に二人で行った時のものだ。懐かしさに微笑ましくなったが、ここで笑ってしまっては彼の機嫌を損ねるだけだろう。顔に出さないよう意識して写真を返した。
「まだ……その、そいつの、こと」
 零さんがもごもごと呟く。はっきりとは聞こえないが、言わんとしていることは予想できた。写真を見つけ、未練があるのかと疑っているらしい。当然ながら答えはノーだ。ふとした瞬間思い出に浸ることはあれど、きっかけがなければ思いだすこともない。その写真だって、どこに仕舞いこんだか忘れていたくらいだ。そもそもこういった写真の類は全て零さんの手によって処分されたものと思っていたのだけれど。
「大丈夫ですよ」
 俯く零さんを覗き込んで、頬に手を添える。幽かに彼の表情が明るくなった。
「零さんが想像しているようなことは、なにも」
「だったら!」
 ぐしゃりと再び写真が潰れた。ぐいと詰め寄られる。驚いて後方に手をつく。それによって少しだけできた隙間も、零さんは容赦なく詰めた。肩口に彼の額が乗る。
「だったら、燃やしてくれ……! 今すぐっ、ほら、はやくこれを、なまえ……っ俺に証明して。こんな男との思い出なんて、どうでもいいって」
 随分と過激な要求だ。肩先の濡れてきた感触がする。ぐずりと鼻をすする音がした。なんとか宥めようと髪に触れる。ぐらり。零さんに手を伸ばしてしまったため片腕の支えをなくした私の身体はベッドに沈んだ。追従して零さんも私の上に倒れこむ。ぐえ、とみっともない声が漏れた。
「頼むから」
 のそりと零さんが起き上がって私を見下ろす。
「俺を不安にさせないで」
 了承の意味を添えて微笑む。ぽたりと落ちてきた彼の涙と涎が私の顔と写真を濡らした。


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