深夜、就寝をきめこんでから数時間。いつもなら朝までぐっすりコースなのだけれど、暗い中で目を開けた。
 喉が乾いたな。水を飲んでからもう一度寝なおそう。ベットから這い出て立ち上がる。足を数歩ドアの方へ進めれば、一生懸命に押し殺しているらしい嗚咽が耳に届いた。起きてしまった原因はこれか。しかしドアの隙間からは明かりも何も漏れていない。
 開けずともこのドアの向こうに誰がいるかなんて容易に想像できる。もっとも、彼以外の人間だとすれば大事件なのだけれど。電気もつけず何をやっているのか。ゆっくりとドアノブに手をかける。音を極力たてないようにして力を込めた。それでもキキ、と軋む音はたつ。まずは様子見をと僅かにドアの隙間を広げた。
「……なまえ?」
 次の瞬間には体ごと前に引かれる感覚がした。がっつりと勢いよくドアは開け放たれ、私は零さんの腕におさまっている。あまりの早業に何をされたのかすぐには分からない。私を抱きしめる力は、拘束でもしているつもりかとばかりに力強い。なまえ、なまえとしきりに耳元で名を囁かれる。ええと、とりあえず落ち着かせるべきか。
 トントントン。首筋から背中、腰まで優しく叩く。何度かそうしていれば、肩で息をしていた零さんの呼吸も段々と整ってきた。
 腕を離す。けれど間髪入れずに手首を捕まれ、まだ抱きしめていろと言わんばかりに再び零さんの方へ引かれた。おとなしく従う。掴まれた瞬間の生暖かい感触には気付かないふりをした。ゴアなんて冗談じゃない。

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 ドアを開けて愕然とした。愛しい人の「おかえりなさい」を期待して今日を乗り切ったというのに、待っていたのは静まり返ったただの大きな箱だ。昏く沈むような色をした室内は、内装だけ見れば今朝がたここを出たときと寸分違わない。彼女がいなければこんなにも殺風景なのだと思い知らされた。
 そう、彼女が、なまえがいない。
 昨日まではずっと俺を出迎えてくれていたのに。今朝だって眠そうな顔で俺を見送ってくれたのに。
「ただ、いま」
 脱いだ靴も揃えずに廊下へ声を投げる。返事はおろか、物音もしない。ゾッとした。彼女の居ない日々が蘇る。嫌だ、帰ってきてくれ、嫌だよ、あなたがいないとダメなんだ。ダメに決まってるだろ、俺をまた置いていくなんて。
 がくりと膝をついた。視界の端でなまえのピンヒールをとらえた。はは、彼女の残滓だ。ぐぬりと恐怖が襲ってきて俯く。寒さなんて微塵も感じないのに、体が小刻みに震えた。
 俺の何かいけなかったのだろう。どうしてなまえは俺を捨てていってしまったのだろう。いつだって彼女のことを考えていた。大切にしているつもりだった。それだけでは足りなかったのだろうか。俺にはなまえがどうしても必要なのに。なまえには俺が必要ない、のか。
「は、は」
 漏れ出た音は笑い声か泣き声か、はたまたただの乾いた震えか。息が苦しい。酸素を求めて口を開く。吸おう吸おうと思っても、まずもって上手く吐けないのだからどうしようもない。
 助けてくれ、なまえ。
 生理的な涙で滲む視界の中、彼女の名前を懸命に呼ぶ。なまえ、なまえ。はやくきて、大丈夫だって笑って、俺のこと撫でて、抱きしめてくれよ。
 項垂れて壁に寄りかかる。いつのまにか自分のシャツが赤く染まっていた。無意識に自分の腹を傷つけていたらしい。おまけに爪まで真っ赤だ。忌々しい色。そういや今日は小型ナイフを持っていた。自傷したって手当をしてくれるなまえはもういないのに。
「なまえ……っ」
 未練がみっともなく呪詛に変わった。突然、自分の息使いしか聞こえなかったはずの耳が別の音を拾う。寝室からだ。これは、衣擦れの。暗かった部屋が一気に明るくなる錯覚に陥る。まさか、まさか。
 へたりと四つん這いで寝室のドアへと近づく。そろりと立ち上がった。呼吸はいつのまにか正常にできている。意を決してドアノブに手をかけようとした瞬間、薄くそれが開いた。
「……なまえ?」
 確認などしなくともわかる。良かった、本当に。安堵が先か、彼女を掻き抱いたのが先か。ただ確かな温かさに縋りついた。

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