近所のスーパーまで買い物に来た。数食分の食材と必要な日用品をカゴに入れる。シャンプーはまだあるし、柔軟剤も大丈夫なはず。ああ、そうだ。お醤油がもうすぐ切れそうだっけ。
 心中独言を浮かべながら調味料売り場へ足を向けた。曲がり角。棚の死角からやってきた誰かとぶつかった。
「わ、すみません」
 簡易な謝罪が口をつく。お互いにゆっくりと歩いていたからだろうか、衝撃は軽い。半歩よろめいて見上げれば柔らかな色を纏った糸目の男性がいた。
「いえ、こちらこそ……おや、なまえさん」
 沖矢さんだ。はじめの方こそ独特な雰囲気も相まって緊張したが、話してみれば案外物腰柔らかな好青年だ。年もそこまで変わらない。彼は意外そうに小さく肩をすくめると、ちらりと私のカゴを見遣る。
「肉じゃが、ですか?」
 その通りだ。肯定の意を込めて「すごいですね」と笑えば謙遜を前置きに解説が返ってきた。それからほんの少しだけ世間話をして別れる。
 レジを通して何事もなくスーパーを出た。帰ったら何をしようかと考え乍らふらふらと歩く。空はまだ明るい。読みかけの小説でも片付けてしまおうか。タイトルに惹かれて買ったがそれほどでもなかった本を思い浮かべて苦笑する。読んでいて楽しいわけではないけれど、途中で投げ出すのは気が引けた。

「わあ、なまえお姉さんだ!」
 公園の側を通れば聞き覚えのある声がかかった。幼く元気な声のする方に顔を向ける。パタパタと嬉しそうにこちらへ走ってくる歩美ちゃんがいた。その後ろには他の少年探偵団もいる。今日も元気にみんなで遊んでいるらしい。微笑ましいなと彼らに手を振れば、哀ちゃんと目が合った。口は開かずに片手をあげて挨拶をしてくれる。いちいち仕草が大人っぽくてドキリとする。
「こんにちは、みんな。今日は何して遊んでいるの?」
「ドローンを操縦しているんです!」
「お届け物したりね、海を見に行ったりできるんだよー!」
 誇らしげに差し出されたものを見れば、確かに操縦用のリモコンらしい。画面には高いところからの景色が映し出されていた。わあすごい、と思わずはしゃいでしまう。
「なまえさんもやってみる?」
 年甲斐もなく興奮したのが伝わったのか、コナンくんが目を細めてこちらを見ていた。少しだけ気恥ずかしい。けれど好奇心には勝てず「ちょっとだけ」と控えめに肩をすくめた。
 買い物袋を端に置いて、子供たちに操作の仕方を教えてもらいながらリモコンを握る。これはドローンの進む方向を決めるものらしい。複雑そうに見えて案外すぐに慣れてしまえるもので、三十分も練習すれば安定した動きができるようになった。もっとも、彼らのサポートがあってこそだけれど。
「……あら?」
 不意に隣で画面を覗きこんでいた哀ちゃんが声をあげた。どうかしたのかと問えば「ええ」と短く肯定される。深刻そうな雰囲気ではないものの、何となく声を固くする哀ちゃんに深く追求してみようかと口を開く。
「なまえさん、十メートルくらい戻って。吉田さんはカメラもう少し左」
 私が何か言う前に、哀ちゃんが指示を出す。不思議に思いながらもその通りに操作する。いつもの長閑な住宅街だ。その路地、グレーのスーツを纏った金髪が凄絶な速度で走っているのが見えた。もしかして。
「安室さん?」
 コナンくんも気が付いたらしい。それから顎に手を当てて考え込み、私をじっと見つめた。
「なまえさん、安室さんに心配かけるようなことしてないよね?」
「え、うん。大丈夫だと思うけれど」
 心外だ。きちんと外出の連絡だってしたし、知らない人との会話もしていない。あまり家から離れた場所にも行っていない。ひとつひとつ自分の行動を思い返してみるが引っかかるところはない。そう、と腑に落ちない顔をするコナンくんに首を傾げていれば電子音が鳴った。コナンくんの携帯だ。画面を見て驚いた表情をしている。それから私の方へ向き直ってジト目をプレゼントしてくれた。
「もしもし安室さん? え、ああうん……なまえさんならボクといるよ。うん、うん。わかった」
 コナンくんの視線がどんどん呆れを含んでいく。何かまずいことでもしただろうかと困惑気味に眉を寄せた。

+++

 なまえのスマホから拾ったいけ好かない声に口元を引きつらせる。何を親し気に話しているんだ沖矢昴。苛立ちのままにイヤホンを握ればミシリと嫌な音がした。間抜けにも握り潰してしまったらしい。
 新しいものを買わないといけないな。確か予備がここにあったはずだが、ええと。ゴソゴソと探す間に数分が経過した。あげなければならない報告書もあるのに、タイムロスだ。これも全部あいつの所為だ。悪態を吐きながらイヤホンを接続する。しかし聞こえてくるはずの音がない。
 嫌な汗が背を伝った。急いでGPSを確認する。
「いない」
 先程まで近所のスーパーにあった、なまえの居所を示すマークが忽然と消えている。何かあったのだろうか。居ても経ってもいられずに立ち上がって地を蹴る。報告書など後回しだ。
 すぐさまなまえの居たであろう場所へ向かった。主婦の行きかう中、必死になまえのいた痕跡を探す。ここで彼女の身に何かあったのだとすれば、多かれ少なかれその形跡があるはずだ。無いのならばここではない場所で事件が起きたか、あるいはただ監視機器が壊れただけか。後者であってほしい。焦燥のままに頭を働かせて周囲を入念に調べる。けれど何の収穫もなかった。
 ゆっくりと深呼吸をして気を落ち着かせる。もしかすれば何事もなくなまえは家に帰っているのかもしれない。そう、大丈夫だ。慌てることじゃない。まずは家に向かおう。ぐっと唇を噛みしめて走り出した。

 玄関で呆然とする。なまえはおろか、彼女お気に入りのパンプスがない。買い物をした形跡もない。つまりはあのまま帰ってきてはいないというわけで。
「クソッ」
 壁を叩いても意味はない。嫌な想像ばかりが脳内に浮かび上がってくる。ギシリと奥歯の軋む感触がした。勢いよく頬を叩いた。痛みがジンと刺さる。お陰で幾分落ち着いた。
 闇雲に探しても意味はない。ずるりと玄関口に座り込んでスマホを取り出す。スーパーからここまで、路地裏を駆使し最短距離で全力疾走してきた。だがなまえが一人で帰るとしたらどうだろうか。地図を睨みつけながらルートを割り出していく。数本に絞ったところで一番可能性の高い場所を見つけた。そうだ、ここなら。今日は天気がいいから、呑気に休憩でもしているのかもしれない。それにこの公園は子供たちの遊び場だ。偶然会って、一緒に遊んでいるのかも。きっとそうだ。
 一縷の望みをかけて電話を掛ける。
「もしもし、安室さん?」
「今米花公園にいるかい? なまえを見ていないか!?」
 スリーコールで応答があった。挨拶もなく質問を投げる。思っていたよりも冷静になれなかったらしい。それでもコナンくんは丁寧に返してくれる。
「え、ああうん……なまえさんならボクといるよ」
 その台詞に心底安堵した。良かった。無事のようだ。全身から力が抜けていく。へにゃりと倒れこんで「よかった」ともう一度呟いた。安否の確認ができれば仕事に戻っても良いのだが、どうしてもなまえの顔が見たくなってしまった。
「今からなまえを迎えに行くから、僕が行くまで待っているように言ってくれないか」
 気が付けばそう口にしていた。参ったな、仕事が立て込んでいるのに。数時間前にも見ていた愛しい顔を思い浮かべて相好を崩した。


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