子供部屋から抜け出し、廊下を進んで両親の寝室まで来た。そっとドアを開ける。
「母さん」
 甘えるようにして母親を呼んだ。
「眠れないの?」
 既に横になっていた母さんは起き上がって僕の方を向いた。部屋は暗くて顔がよく見えないが、隣にいた父さんの機嫌が悪くなったのが分かる。夜分、僕が来るといつもそうだ。どうせ母さんとの時間を邪魔されたのが気に食わないのだろう。
 母さんの問いに肯定すれば、母さんは優しい声で僕をベッドに誘った。ひたりひたり。素足で近づいて母さんを見上げる。母さんは僕の頭を優しく撫でると「おいで」と布団をめくった。
「おい」
 父さんが低い声で母さんを呼び、寝ころんだまま腰に手をまわした。母さんは脇腹に押し付けられる頭を困ったように見遣る。僕よりもはるかに子供っぽい気の引き方だ。母さんの見ていない所ではもっと卑怯な手段をとるくせに。
「ほら、零さん。もう少し詰めて」
「嫌だ。自分の部屋があるだろう」
 父さんは母さんに抱きついたまま僕の方へ顔を向けると、思い切り眉間に皺を寄せた。暗闇にも目が随分慣れてきたので、父さんの表情がよく見える。僕に母さんをとられてなるものか。そういう顔だ。それからシッシと手を振ると、再び母さんを抱きすくめた。母さんが父さんを窘める。しかし父さんにとってはそれさえも嬉しいようで、僕のことなど見えていないかのように母さんへ甘えていた。
「母さん、ぎゅってして……」
 僕だって負けていられない。母さんが僕の甘えに弱いのはよく知っている。母さんの袖を引っ張り、父さんには届かないくらいの小さな声で囁く。母さんがこちらへ再び目を向けたのを認めてから、精一杯両手を彼女の方へと伸ばした。僕を見る表情が一気にだらしなく緩む。母さんは自身にまとわりつく父さんを巧みに押し出すと、僕の手を取った。
「おいで」
 そうして詰められた僕のスペースに体を潜らせる。反対側で父さんが苛ついたようにしているが、知ったことではない。きゅっと母さんに寄り添えば、滑らかで温かった。マグノリアの匂いだ。先ほどまで遥か彼方でそっぽを向いていた睡魔が急に駆け寄ってくる。重くなる瞼をそのまま、逆らうことなくくっつけた。直後、母さんとは違って力強い、けれどもやはり同じように温かい感覚がして僕は完全に意識を手放した。

+++

 息子が小学校に上がった。
 小さい頃から、大人からの評判は父親譲りの顔と外面の良さのためかすこぶる良かった。しかし果たしてそれが同年代に通じるのだろうか。友達を作って仲良しこよしが出来るのだろうか。
 私がそんな心配をしていたのも入学後ひと月の間だけで、案外息子は周囲とうまくやっているようだった。リビングで友達と遊ぶ彼をそっと盗み見る。わいわいと楽しそうにコントローラーを握っていた。最新作のゲームが欲しいというから、節度を守る事を約束させて買い与えたのだ。
「おからドーナツを作ってみたの。みんな、良かったら食べていってね」
 そう子供たちに声をかけテーブルに皿を置く。子供たちはいっせいに振り返ると、目を輝かせて口々にお礼を述べた。
「おまえは良いよなぁ、こんな綺麗で優しい母親がいて」
「母さんは僕のだよ」
 お友達のひとりが何気なく漏らした言葉を息子がぴしゃりと打ち返した。いつもよりワントーン低い息子の声に、お友達は何となく気まずそうに目を逸らす。ああ、マザコンの片鱗が。額に手を当てたくなる。ため息を飲み込んだ代わりに、フォローの言葉を吐いてからドーナツを詰め込ませた。


 保護者会というものに参加してきた。出席する必要はないと零さんから言われていたのだが、最初の一度くらいはと思ったのだ。
 率直に言ってしまえば、零さんのいう事を素直に聞いておけばよかったと思う。面倒な役職決めや退屈な教員の長話。学生に戻った気分だった。そしてその会が終わった今、とても厄介な状況に陥っている。
「降谷さん、ですよね。いつも息子が世話になっております」
 人の良さそうな笑みを浮かべた男性だ。歳は三十を過ぎたくらいだろうか。察するに、どうやらお友達の父親らしい。私の目の前に立ち塞がると握手を求めてくる。早く帰りたかったのだがここで無視を決め込むのも感じが悪い。少しだけ口角を上げて手を重ねる。離れ際、一瞬だけ名残惜し気に手に力が込められた。何の合図だ。
「この間はおやつまで頂いてしまったようで、すみません」
「いえ、お気になさらず」
 それから一言二言保護者会についての感想を述べ合って「では」と別れようとした時だった。
「あっ、今度、お食事でもご一緒しませんか。息子が日頃お世話になっているお礼をさせてください」
 肩を軽く掴まれ引き留められる。何を言っているのだろうか、この人は。人妻を軽率に食事に誘ったりするなんてどうかしている。手をそっと振り払った。
「あの、本当にお礼なんて結構ですから」
 愛想笑いさえも引き攣りそうだ。さっさとこの場を離れようと一歩踏み出すが、男は尚も食い下がる。
 曰く、父子家庭なのだとか。彼の息子が私を気に入っているのだとか。私の家も夫があまり帰ってこないのを知っているだとか。そちらも母子家庭同然ならばいっそ、だとか。既に周りに人がいないとはいえ、よくもまあ公共の場でそんなことが言えたものだ。きっと何か追い詰められる出来事があって、精神的に参っているのだろう。片親の苦労は知らないが、少しでも推測することはできる。
「少し、考えさせてください」
 そう言って控えめに微笑んで眉を下げてみせる。下手に反発するよりもこの場を乗り切れる確率は高い。半面、後がもっと面倒にはなるけれど一生こういった場に出向かなければ良い話だろう。難しい顔をしないように気をつけながら、男の横を通り過ぎた。

 家に帰って夕飯の支度をする。保護者会はもうこれっきりにしよう。今日の事を思い返して溜息を吐く。お友達はこの家を知っているわけだから、ここにまで押しかけてこなければ良いけれど。男の焦った様子を思い返して肩をすくめた。
「母さん」
 ふいに息子が服の裾を引いた。
「大丈夫だよ、安心して良いからね」
 零さんに似た青い瞳がどろりと蕩けるように細められた。何の脈絡もない言葉に「どういうこと?」と返すも、息子はタッタとゲームに戻ってしまった。まあ、いいか。私の憂を敏感に感じ取り、彼なりに元気づけようとでもしてくれたのかもしれない。特に問い詰めることもなく、カレーを煮込んだ。

 それからあのお友達も、その父親も、私が二度と会うことは無かった。


表紙へ
トップへ