「こんな時間に外をうろついては危ないですよ。何度も言ったじゃないですか」
 突然背後から聞こえてきた男の声にびくりと肩を揺らした。夜の闇を伝ってじんわりと私の背から全てを侵食するような、そんな甘さと不気味さの目立つ声だった。もしかするとここ最近のことで気が滅入っているから、そう感じてしまうだけかもしれないけれど。差出人不明の手紙や無言電話、時折刺さるような視線を思い出して身震いした。
 振り返ることは出来ない。確実に知り合いの声ではなかった。周囲に人影は見当たらない。こうして立ち止まっても背後の男は私を追い抜かないので、誰かと電話をしているわけでもなさそうだ。つまりは私が不審者に声をかけられた。そういう状況だ。
 やはり振り返ることは出来ない。けれど走って逃げることも出来ない。恐怖で体が動かない。コツコツと低い革靴の音が近づいてくる。
「やはりあなたには危機感が足りないようだ」
 先程よりも声が近くなる。ぞわりと皮膚の表面が粟立った。思わず前のめりに倒れそうになって、反射で一歩足が出た。そのことにはっとしてぎゅっと拳を握る。大丈夫、動ける。短く息を吸って走り出そうとした。
 一歩、二歩。縺れそうになりながらも、一刻も早く人のいる場所へと懸命に足を出す。
「ひ、っ」
 しかしそんな足掻きも虚しく、たくましい腕が私を抱きすくめた。すっぽりと男の胸に収まってしまったのが分かる。乱暴でもされるのだろうか。きっと逃げられない。抵抗しても力では敵わないし、大声だって出したところで誰も助けてはくれないだろう。そんな私の諦念を知ってか知らずか、大きな手は優しく私の頬を撫でた。
「僕が守ってやらないとダメみたいですね」
 顔は見えない。そこでようやく振り返ろうと、ゆっくり首を回した時だった。
「おっと。未だあなたに顔を見られるわけにはいかないんですよ」
 ばちり。何をされたかも分からないうち、一切の感覚が私を離れた。


 コンソメスープの煮立つ良い匂いで意識が戻った。すんすんと鼻から息を吸ってあたりを見回そうとする。暗い。眼球の高さに合わせて頭部一周、違和感に気が付く。ぐるりと布が巻き付けられているらしかった。アイマスクかと首を傾げたくなるくらいに優しいもので、痛くも苦しくもないことが救いだろうか。これなら簡単に外せそうだ。安堵して手を使おうとした。けれど動かない。どきりと嫌に心臓が鳴った。
「おや、気が付きましたか」
 カチャリと品の良い食器の音と共に、あの男の声がした。
「だれ」
 発した自分の声は思ったよりもずっと掠れていた。ごくり。唾液で潤そうと嚥下しても足りない。喉が渇いていた。男はふっと息を漏らして笑う。気配が途端に近づく。私の目の前に屈んだらしかった。
「そうですね……零、と呼んでください」
「れい」
 私がオウム返しに呟くと、れいは「良い子だ」と頭を撫でた。
「スープを持ってきたんです。四肢は固定してありますから、使えないでしょう。口を開けてください。僕が食べさせてあげます」
 ふわりと良い匂いがする。目覚ましになった匂いと同じ。ぐう、と腹のあたりが蠕動する感覚がしたが口を開きたくはなかった。何が入っているか分かったものではない。唇にスプーンが触れる。ふにふに。数度、付けては離される。
「先に水の方が良いでしょうか?」
 私が食べないのをどう思ったのか、スープを置いて今度はコップの淵が差し出される。ふるふると首を振る。れいは困ったように溜息を吐くと、私の首筋に触れる。汗で張り付いた髪を払ったらしい。そろりと髪を耳に掛けられる。
「喉、乾いているんでしょう。毒も何も入れていませんから、ね」
 子供をあやす様な口調で囁かれた。それでも、れい手ずから飲食する気にはなれない。断固として受け入れる気のない私に、れいは「やれやれ」と苦笑する。すっとれいが耳元から顔を離した。諦めたのだろうか。そう安心したのも束の間、不意に鼻を摘ままれた。何の身構えもなかったのですぐに息苦しくなる。酸素を求めて、意思とは関係なく口が開いた。その隙を彼が逃すはずもなく、遠慮なく水が注がれる。
「ごほ、げ……がっ、は」
 当然ながら盛大に咽た。けれども、れいはそれで満足したらしい。コップを私の唇から離すと零れた水を拭っていた。
「悶えるあなたも可愛いですけど……次からはきちんと飲んでくださいね」
 得体の知れない昏さを孕んだ甘いこの声が、夢ならいいと思った。


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