アスファルトが煌めいている。上からも下からも容赦なく叩きつけられる熱気にうんざりした。太陽の高いせいで碌に日陰も見当たらないので、ジリジリと肌が焼けていく。こんなことならひんやりとしたあの快適な部屋に籠っていた方が幾分良かったかもしれない。なんて、息の詰まる環境を思い返して首を振った。あんな怪しい男とひとつ屋根の下だなんてもう耐えられない。
 額から鼻筋を落ちる汗をぬぐった。走る体力はもう残っていないが、それでも賢明に足を進める。せっかくのチャンスだ。不意にするわけにはいかない。
 赤井さんの警戒を和らげるため今日までずっと従順な恋人でいた。逃げる意思はなさそうだと、逃げるはずがないと、安心させる時間が必要だった。その期間が実を結び、今日ようやく隙を見てあの工藤邸から脱出することができたのだ。沖矢昴の変装をとく瞬間。その時が狙い目だった。「恥かしいので向こうで着替えてください」と言えば彼はそうしてくれたから、着替えから戻って来るまで私がいなくなったことに気が付かないだろう。気が付いたとしても赤井秀一のままでは外に出られまい。少しでも時間稼ぎがしたかった。
 くらり。頭の芯と目の奥がぎゅっと収縮したような感覚がする。焦点が合わない。視界が暗くなる。たまらずしゃがみ込んだ。参ったな、日射病かもしれない。あれ、今は日射病なんて言葉使わないんだっけ。
 ぼやけた視界が段々と鮮明に戻った頃、やっとの思いで立ち上がった。顔を上げれば視界の端に交番が見える。少しだけ、休ませてもらえないだろうか。天下のお巡りさんが気分の悪い女性を邪険に扱ったりしないことを願おう。
「す、みません」
 小さな交番の戸をガラガラと引くと、中には若い男性が一人。暑そうな制服をきっちりと着て、扇風機の風でどうにかやり過ごしているらしかった。お巡りさんはこちらを向くと「どうされましたか?」と持っていたペンを置いた。
「暑さにやられてしまって……、五分だけで良いので休ませてもらえませんか」
 お巡りさんはきょとんと一度笑みを引っ込めてから、すぐ納得したようにパイプ椅子を指さした。
「この辺は喫茶店も少ないですからね。こんな場所でよろしければ、どうぞ」
 お言葉に甘えて腰を下ろす。冷房の効きは悪いが、外よりもずっと快適だ。ほっと息を吐けば目の前に紙コップが置かれた。
「あいにく水くらいしか無くて。すみません」
 顔を上げると、お巡りさんが眉を下げて首に手を当てている。気の弱そうな笑い方だった。
「いえ、とても有難いです。いただきます」
 良い人だなあ。頼りないけれど純粋な優しさに嬉しくなる。あの何を考えているか分からない男の傍では常に気を張っていたからかもしれない。紙コップを手に取って水を飲み干そうとしたときだった。
「だめじゃないですか、なまえさん」
 透明な引き戸の音。穏やかで耳触りの良い声。セミの大合唱が大きくなった。汗がすっとひいて、それから心臓が激しく音をたてた。そろりと視線を入り口に向ければ、一番会いたくない人がいる。汗の珠ひとつ浮かばない涼しげな顔が恐ろしかった。
「帰りますよ」
 細い切れ目から覗く緑色に見下ろされて声も出ない。彼は固まる私を見てため息を吐くと、お巡りさんと一言二言会話をした後再びこちらへ向き直った。ぐいと腕を引かれる。コップの水が零れそうになって慌てて机に戻した。結局、一口も飲めていない。
「それでは、お世話になりました」
 沖矢さんはさらりと会釈をして交番を出る。それに引っ張られながらも「ありがとうございました」と何とか口を動かし外に出た。


 失敗した。沖矢さんに連れられ、工藤邸まで戻ってきてしまった。抵抗はしなかった。最後まで足掻けば奇跡が起こったのかもしれないが、おそらく見つかった時点で私に勝ち目はない。
 沖矢さんは拍子抜けするくらいに優しい手つきで私をソファに座らせた。それから「どうぞ」と差し出されたのはグラスだった。白く濁った冷たい水が入っている。乾いた喉を潤すため一口含めば、甘い。スポーツドリンクだ。喉を鳴らして飲み干せば隣に沖矢さんが座った。
「まったく、そんなに俺の気を惹きたかったのか」
 ふっと意地悪く緩められた口元に噛みつきたくなった。べつに甘い意味ではない。相変わらず突拍子もないことを言う口に苛々しただけ。
 沖矢さんが私の首筋をなぞる。せっかく引いた汗がまた吹き出しそうだ。沖矢さんの指はゆっくりと降りていき、肩を伝う。手首まで到達したとき、きゅっと掴まれた。
「首と手首ならばどちらが良い?」
「は」
 何の脈絡もない質問に首を傾げる。まさか切り落とす話でもないだろうし、掴まれた手首が関係あるのだろうか。意図が汲み取れない以上、迂闊にどちらかを選ぶのは避けたかった。
「どちらでも、いいですけど」
 小さな声でそう返す。沖矢さんは「そうか」と額に唇を寄せると二階へ上がっていった。
 数分もしないうちに帰ってくる。左手には紐のようなものが握られていてぞっとした。縛ったりされなければいいけれど。思わず身構えた私を見て沖矢さんは面白そうに喉を鳴らした。
「お望みとあらば拘束してやるが」
 凶悪な台詞に短く悲鳴をあげれば沖矢さんは「冗談だ」と私の頭を撫でた。冗談に聞こえない。沖矢さんはゆったりとした足取りで私の背後をとった。後ろから腕を回されて背筋が伸びる。それから首に何かが触れて、首輪か何かを付けられたのだと気付いた。
「俺から一定距離、一定時間離れればそのチョーカーから音が鳴る。同時にこちらにもその知らせが来るようになっている」
 これで安心だろう、と得意気に沖矢さんは笑っていた。


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