「おはよう、主」
 障子の向こう側から声をかける。朝起きて、しっかり可愛く身支度をして、それから主を起こしに行くのが俺の日課だ。主はねぼすけだから日がすっかり上りきっても俺が起こしてあげないと目を覚まさない。
「もー、まだ寝てるの? 入るよー」
 主からの返事がないのはいつものことで、もう慣れた。だから形だけの断わりを口にして無遠慮に部屋へ入る。部屋の中央には布団をかぶった主がいて、仕方がないなと肩をすくめた。
 掛け布団を剥がす。それでもまだ起き上がる気配のない彼女を抱き起こし、用意していた手ぬぐいで顔を拭いてやった。そういや一度、冷たい水で濡らしたものを使ったら主が酷く驚いていた。目は覚めたようだったけれど、もうしないでと怒られたんだっけ。今じゃいい思い出だ。ねぇ主、今日はちゃんと主の好きな「ほっとたおる」にしたんだ。気持ちいいでしょ? だから俺にもあとでやってね。
 顔を拭き終えて、主の寝ていた布団を畳む。まったく、全部俺任せなんだから。まあ、任せても良いと思えるくらい愛されてるってことかな。
「今日の内番表は?」
 主を振り返って問えば、卓上に目当てのものが置かれていた。「ああ、これね」と手にとって眺める。主の字だ。上手でも下手でもない、払い癖のある個性的なこれが、俺は大好きだ。
 じっくりと読み込んで「じゃ、あいつらにも伝えておくから」と表を卓上に戻した。持っていく必要はない。もう覚えてしまったから。昨日も一昨日も、その前もずっと同じなんだ。いつも通り、変わらない生活をしないと。
「主、あとで爪紅持ってくるから……塗ってね」
 笑いかけて部屋を出た。
 障子を閉めて廊下を進もうとすれば、安定が難しい顔をして立っていた。口を開いては閉じて、何か言いたそうにしている。
「主に何か用事?」
 気が付かないふりをして尋ねれば、安定は一層顔をしかめた。
「清光は……いや、なんでもない」
 彼は苦しそうにそれだけ吐き出すと俺に背を向ける。言いたいことがあるなら言えばいいのに。聞きたくないけど。
「主が今日も鍛練よろしくってさ。練度低い連中、見てやってよ」
 安定の背中に声を投げると、彼は一瞬だけ固まったあと片手を振って去っていった。


 畑当番を終わらせて、泥や汗をおとすために湯汲をした。汚れる仕事は嫌いだけれど、主には俺が作った美味しいものを食べて欲しいと思うから。
 鏡で身嗜みを確認する。髪よし、眉よし、唇よし。爪は今から主に塗ってもらいにいこう。あのひと、うたた寝してなきゃいいけど。自室からお気に入りの爪紅を取ってきて、主のもとへ向かった。
「あーるーじー」
 返事はない。物音ひとつしない部屋の前で苦笑した。
 やっぱり、寝てるのかな。

いちらんへもどる