※独歩と半同棲。一二三はいない。

 頭に血が上った。
 残業を二時間も早く切りあげて帰宅した。けれど俺を待っているはずのあいつの姿はない。心配になって電話をしても繋がらなかった。チッチと時計針の動く音と、五分に一度のコール音だけが部屋の空気を揺らした。焦燥が募る。まさか事件に巻き込まれたのでは。まさか途中で事故にあったのでは。まさか、まさか。
 通話履歴にあいつの名前が二十回ほど溜まった頃、玄関の扉が開いた。飛ぶようにして迎えに出れば、おまえが「ただいま」とはにかんだ。ああ良かったと安堵したのも束の間、彼女がシラフでないことに気が付いた。とろんとした瞳、紅潮した頬、湿った唇。彼女は少しばかり酔っていた。ただそれだけだ。いつもなら「楽しかったか?」と尋ねる余裕さえあったはずだ。けれど今日はそれができなかった。ひたすらに心配した反動とでも言うべきか、じりじりと焼けるような嫌悪感がせり上がってきた。
 おまえがとさりとソファに腰かける。刹那、俺の知らない匂いがした。もうダメだと思った。そんな今日――いや、もう昨日だ――は俺たちの記念日だった。
 だから、頭に血が上った。
「ざッけんな!」
 ドカリと彼女のすぐ横に蹴りを入れる。安月給で買ったソファがくたりと俺の足の分だけ歪んだ。予想だにしない衝撃と大声に晒されたおまえはびくりと肩を震わせる。
「な、なに、いきなり」
 おまえは困惑した様子で柳眉をしならせた。衝撃で酔いも幾分吹き飛んだようで、こちらを射抜く視線は真っ直ぐだ。綺麗だと思った。愛しいと思った。同時に憎くもあった。そうやっていつも無意識に俺を誑かすこいつが、心底恨めしかった。
「何のために俺が今日早く帰ってきたと思ってるんだ! 時間を見てみろ、もうとっくに日付が変わった。なあ、昨日が何の日だか知ってたか? 知ってるだろ、言えよ! 言ってみろ、ほら。……ンだよその目。まさか本当に分からないのか? 冗談だろ。記念日だよ、記念日。は? 違う、付き合って一年のは先月やっただろ。分からないのか? へえ、そうか。俺がこれだけ大切にしてきた日を、おまえは知らないって言うんだな。そうだよな。俺がおまえを心配して神経すり減らしてる間、おまえは他の奴と楽しく飲み会だもんな。おまえにとって俺はその程度だった。そういうことだろ」
 アルコールの匂いが鼻につく。堪らなくなっておまえの首に噛みついた。痛いと俺を叩くおまえの力は弱くない。その度に口を離し、すぐに何度も同じことを繰り返した。俺の歯形が幾重にも赤くかたどられている。吐き気のするほど卑劣な征服感がミリ単位で満たされた気がした。
「……出て行けよ」
 自分でも制御できない、理不尽な怒りはまだ消えていなかった。これ以上おまえの顔を見ているとおかしくなりそうだ。項垂れた体勢のままもう一度怒鳴った。
「出て行けよ! 今すぐ、俺の部屋から! もう帰ってくれ!」
 おまえの手首をきつく掴む。強引に立ち上がらせると玄関の方へ押しやった。おまえは戸惑いがちに俺を見たが、すぐ諦めたように自ら靴を履いた。
「じゃあ、ね」
 キィと油の足りない扉が開いて閉じた。冷めやらぬ邪悪な興奮と喪失感が残る。ふらふらとリビングに戻って、目についたおまえの食器を勢いよく床に叩きつけた。ガシャンと騒音がして破片が飛び散る。爽快感も何も得られなかった。
 嫌だな、いっそ死のうか。自己嫌悪に苛まれその場に崩れ落ちた。ずるずると立ち上がれないまま床を這う。せめて柔らかい場所で横になろうとソファへ縋りつけば、僅かな温もりが伝った。
「おまえ」
 彼女のいた場所へ頬を寄せる。それから手のひらで愛撫した。
「俺を独りにするなよ……」
 出て行けと言ったのは確かに自分だった。それも数分前の事。もう既に彼女が恋しくてたまらない。俺がこうなるのをおまえはわかっていたはずだった。だというのに彼女は俺をおいて、言われるがまま出て行った。それが悲しくて堪らなかった。随分な天邪鬼だ。
 携帯を取り出す。これでもかと履歴に並んだ文字に自嘲しながら懲りずに電話をかけた。
「もしもし」
 いやに呆気なく繋がった。普段と変わらない調子で耳に届いた声が残酷だと思った。衝動的にかけたはいいが上手い言葉が見つからない。得意の謝罪をしようにもどう切り出せばよいものか。
「もう家にいるのか? ……今から行く」
 結局寂しさに負け、俺はおまえに追いすがるしかないのだ。「ごめん」とも言えないままに通話を切って雨の中へ駆け出した。


 インターホンを押す間も惜しく無遠慮に扉を開けた。鍵は掛かっていなかった。おまえはそうなることを予想していたように、穏やかな表情で俺を迎えた。おまえに駆け寄る。途端に力が抜けて、膝がガクリと落ちた。
「何で出て行くんだよ、俺を独りにしないで」
 おまえの腰に抱きついて、やっとのことで声を絞り出す。子供の癇癪でももう少しマシだろう。
「俺が、おまえを好きになった日だった。三年前の昨日だったんだ」
 くしゃりと頭をおまえの腹に押し付けて呟く。顔を上げないまま、そっと指を絡めた。おまえはため息を吐いた。お世辞にも優しいとは言えない、呆れと憐憫を孕んだ息だった。
「分かるわけないでしょ」
「冷たいな」
 それもそうだ。分かるわけがない。知っているわけがない。けれど、知っていて欲しかったのだ。そう情けなく嗤えば、おまえは「うん」とひとつ頷いて俺の頭を撫でた。

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