独占型

 アンタなんか死ねばいいのよ、と言われた。随分な言われ草だ、と思った。聞いたこともないぐらい低い、女の声だった。 私はどこか遠くの出来事のように、ぼんやりしてその言葉を受け止めていた。学校の白い壁を背に、私は立っていた。彼女たちは私の前に壁のように立っている。 人気のない校舎裏だった。私は下を向いて、彼女たちの足を見るともなく眺めた。彼女たちがダサい、と口をそろえて言う白いソックス。ワンポイントのすましたウサギの顔が憎たらしい。
「死んで。もう学校来ないで」
 三人の女の子のグループはかわるがわるに似たような罵声を私に浴びせて帰っていった。うるさい、本当に死んでやる、そう心の中で悪態をついたとき、全ての元凶である憎たらしい男の顔が浮かんだ。
 そいつのことが死ぬほど、腹立たしかった。
 太宰治という男とは腐れ縁だった。
 その腐れ縁の男のことが憎たらしかった。同じクラスの女に死ね、と言われても死なない私の、死ぬ程腹立たしい男だ。
 そいつは顔が良かった。ついでに頭も良かった。彼は自分の魅力を全て把握していて、全部駆使して如才なく振る舞った。その一方で特に美しくもなく、賢くもない私は相当被害を被ってきた。
 太宰のせいで小さい頃から孤立していたと言っても過言ではない。女子の誰もが、太宰に夢中になる。顔が良くて物腰が柔らかくて、憂いるような思慮深い雰囲気の子どもは、私たちの周りには誰もいなかった。そんなのは太宰だけだった。彼は特別だった。彼に誰もが魅了された。
 そんな特別な彼の、小さい頃からの知り合いだからという理由で、私も注目された。それだけだ。それだけで女子からのやっかみや嫉妬が湯気をたてているのが目に見えた。太宰の腐れ縁という立場が気に入らなかったようだった。なんの努力もしないで太宰と特別な関係でいる、というのが許せないようだった。 実際、私は太宰と何もなかったし、ろくに話もしなかった。ただ本当に小さい頃から彼のことを知っていただけだ。それにも関わらず、嫌がらせが始まるのに時間はかからなかった。 物を盗られ、ぞんざいに扱われる。悪口を言われたり、理不尽な悪意には当然腹が立った。自分をただ太宰と近いから、という理由でなじられるのが悔しかった。悔しくて悔しくて、はらわたが煮えくり返りそうだった。
 だから相手にしないことにした。太宰も、太宰を狂信的に愛している不特定多数の女の子のことも。
 何も考えなければ問題ない。元々ぼんやりしている、とよく言われていたがいっそうぼんやりするようになった。誰ものことも相手にしない。何も考えないようにする。気持ちを遠くに追いやる。私が動じなければいいのだ。私が何も感じなければいい。
 陰口も、隠された私物も、孤立している現状も、私が気に留めなければいいのだ。 一方で、太宰は知っていた。私が太宰がらみで嫌がらせをうけていることを。それでも彼は、私には何も言わない。声もかけない。 私には彼の真意が一切分からなかった。
「遅くまで熱心だな」
 聞き慣れた声に顔を上げた。気が付くと放課を告げるチャイムの音がしていた。外はすっかり橙に染まっている。見上げると、声の主が私の傍に立って見下ろしていた。少し背の低い彼の後ろから差し込む夕日が、彼の色素の薄い髪を照らしていた。
「って、全然進んでねぇじゃねぇか」
 私ははっとして、広げていた本に目を向けた。一頁からまったく進んでいなかった。彼女たちに呼び出された後、苛々したまま図書館に立ち寄って、読みたくもない本を掴んで壁際の席を陣取ったのは覚えてる。そこからずっと、物思いに耽ってしまっていた。
「うん。ちょっと、ぼんやりしてた。苛々してて」
「珍しいな。お前が苛々すんの」
「そんなことないよ。私、結構感情的だよ」
 私は苦笑しながら本を閉じた。図書館は私たちの他に人がいなかった。それでも何となく、私たちは小さな声で話をしていた。お互いの耳にしか届かないような、囁き声だ。あまりにも静かで、遠くから吹奏楽部の演奏がかすかに聞こえた。
「……ならもっと笑えよな」
 彼の小さな声は、苦笑していた。
 分かりづらいんだよ、と言って私を見た。私を気遣うような目が、控えめにこっちを窺っていた。良い人だ。なんて良い人なんだろう。揶揄うような、しかし穏やかな声色が、私を励ましてくれているのが分かった。女子は勿論、なぜか男子も私を避けるというのに、この人だけはいつも私に話しかけてくれる。なんて良い人だ。私は彼の気遣いが嬉しくて、微笑んでみせた。
「大方、あいつ絡みだろうが、ま、なんかあったら言えよ」
「ありがとう」
 私は本を持って席を立った。
「中也くんは調べもの?」
「いや? 俺、図書委員だぞ」
「えっ」
「知らなかったのかよ……」
「なんか意外で……」
「同じクラスだろうが。そういうところだぞ、ぼんやりしてるの」
 青い瞳の彼は呆れたように言った。彼のしなやかな手が私の手から本をそっと奪う。
「戻しておいてやるから、お前そのまま帰っていいぞ」
「ありがとう」
「図書委員様だからな」
 そう言って彼は笑った。彼の派手な外見に、やはり図書委員というのは似合わない気がした。真面目に仕事をしているのも違和感がある。しかし彼の心配りや優しさに、何となく救われた気分になっていた。
 図書館を出て、階段を下りる。木造の古い校舎は足音が大きく聞こえた。少し体重をかけるだけで、ぎしぎし、ぎいぎいと大袈裟なぐらいの音が鳴っていた。
「なまえ」
 名前を呼ばれ、私はつい顔を上げてしまった。
「……太宰」
 そいつは整っている顔に締まりのない笑みを浮かべて、階段の上から私を見下ろしていた。彼の細いシルエットが強烈な西日に照らされて、歪んだ影を階段に落としていた。
 私は浮かれた気分から一転、暗澹たる気持ちになった。私を呼び出したあの女子三人の忘れかけていた顔や声が蘇る。
「なまえ、帰るの?」
 彼の言葉を背に、私は階段を下りた。後ろから軽やかに歩く足音がついてくる。
「返事ぐらいしてよ」
 私が振り向いて止まると、ついてきた足音も止む。太宰は私を見下ろしていた。相変わらず、太宰の顔は呆れるほど綺麗だった。緩い癖毛から覗く暗い瞳も、声も、薄い唇も、太宰がそこにいるだけで、古い校舎のすえた匂いが、腐り落ちる寸前の危うさと妖しさを孕んでいるみたいに感じるから不思議だった。
 私は太宰と口をききたくなかったので、返事もせず思わずただじっと彼を見つめてしまった。その時だった。彼が少しだけ、腰を屈めた。
 ふ、と唇に何か触れた。一瞬だった。
 ぬるい温度の、彼の唇。
 近すぎて何も見えないまま、その顔が離れていく。
「じゃあ、気を付けてね」
 太宰はにっこり笑っていた。
 そのまま太宰は私を追い越して、階段を下りて行った。

 昨日のことは一体何だったんだ、とは太宰に問い詰めたりしなかった。逆に太宰から何か言ってくることも無かった。お互いが何もなかったかのように過ごした。だって太宰は理由を言わないに違いないし、何より、太宰と話しているところを女子に見られては足元を掬われる。そっちの方がはるかに嫌なのだ。私は太宰を理解するのをとうの昔に諦めていた。彼の突然のキスの意図など、分かるはずもない。
 嫌いだと思う。太宰のこういった意味の分からない行為をするのが大嫌いだ。私の人生に荒波をたてて、自分は飄々としているところが、本当に、大嫌いなのだ。
 キスくらい犬に噛まれたと思って忘れてやろう、と他人事のように思っていた。
 移動教室で、私は教科書と筆記用具を持って歩いていた。一つ下の階にある家庭科室に向かわなくてはいけない。階段に差し掛かったときだった。昨日太宰がキスをしてきた、あの階段だ。女子数人のグループとすれ違う。
「太宰くんと付き合ってるの」
 背中の上を悪寒が走った。
「付き合ってない」
 反射的にそう呟いた。すれ違いざま、誰かは分からない。しかし明確な悪意に背中を強く押された。
 上体が傾いてバランスが崩れる。階段の段差の上を、上履きのゴムが滑った。
 あ、落ちる。
 そう思った時には足が浮いていた。体が平衡感覚を失った。
 私は落下しながら回転する視界で、様々なものを見た。宙を舞う私の筆記用具、教科書、今まで悪口を言ってきた女の子の口元、昨日の女の子たちのソックス、昨日掴んだ本、夕日。それから。
 それから、視界の隅っこで、太宰が落ちる私を見て笑っていたのが見えた気がした。

 気が付くと私は保健室のベッドに横になっていた。外が騒がしい。きっと休み時間なのだろう。様々な薬品が混じって、どこか懐かしい香りをさせていた。簡易ベッドの薄いマットレスが背中にあった。身を捩ると頭が少しだけ痛んだ。
 確か、階段から落ちたのだ。腕や足の節々も痛かった。鈍い痛みが体中にあった。思い切り泳いだ後のように体がだるい。眠る寸前のような、起きたばかりのような、はっきりしない意識だった。
 ゆっくりと顔を横に向けると、私が眠っているベッドに見慣れた背中があった。
「……太宰?」
「痛い?」
「……痛い」
 太宰は甘い掠れる声で私の様子を聞いてきた。私は馬鹿のようにそれに素直に答えた。太宰の顔は見えない。私に背を向けるように、ベッドに座っていた。私は気怠くて、何も喋りたくなかった。ただ黙って太宰の背中を見ていた。
「君が私のせいで困ればいいと思った」
 不意に太宰が口を開いた。
「ずっと昔から女の子たちにいろいろ、私となまえのあること無いこと言っていたんだけど、なまえ、一回も泣かないし、困った顔しないし、私に頼らないし」
 彼はまるで台詞が用意してあるかのように、滔々と話し出した。私はぼうっとしながらそれに耳を傾けていた。太宰の声からは何の感情も読み取れない。
 私は太宰からの突然の告白に少し驚いていた。彼がこんなに私に対して話すのも、同じ空間にいるのも、初めてだった。
「君がずっと一人だったのは私のせいだよ。確信犯だ」
 彼の言葉に、体がいっそう重くなった。息も心なしか苦しくなる。
 幼稚だと思う。太宰がこんな子供っぽいことするなんて、ちっとも思っていなかった。物憂げで賢い彼がそんなことを企んでいただなんて、知らなかった。
「私に早く縋り付けばよかったんだよ。私に縋りついて、私が必要だって言えば良かったのに。そしたら、すぐ、助けてあげたのに」
 私が何かされてても、どんなことされても、太宰は私を見なかった。私のことを放っておいた癖に。
 綺麗な顔で、散々私を無視したくせに。だから私だって、何も感じないように、そういう振りをしてきたのに。太宰のことを考えるのを止めたかったのに。
 いつも、何をするにも、太宰の影が、私の見えるところにも見えないところにもあったのだ。私は何も考えない振りをしながら、無視をしながら、ずっとその太宰の影を意識して生きてきたのだ。
 太宰はおかしい。そう言ってやりたかったけど、もう何も話したくなかった。何もかもが怠いのだ。面倒だ。体が鈍く痛む。脳味噌は酸素が足りていないみたいだった。動くのも話すのも、太宰のことだって面倒だ。
「中也に頼るなんて絶対に許さない」
 あの図書館には、私と中也君しかいなかった筈なのに、なぜ知ってるんだろう。
「私を見なかった君が悪いんだ」
 私を無視したのは、太宰の方じゃない。私を見放したのは、太宰じゃない。
「ねぇ。そうだろう」
 違うよ、おかしいよ、という私の言葉は太宰の唇に飲み込まれて行き場を失った。太宰が動いて、シーツの擦れる音がした。近くに太宰がいた。覆いかぶさってきた彼の、低い体温を感じる。
 面倒だ。太宰のことが面倒くさい。嫌いだ。大嫌いだ。体がだるい。思考も腕も足も頭も彼の想いも全部重い。面倒だ。面倒な男に捕まってしまった。私はもう何もしたくなかった。
 もう疲れたのだ。これ以上、不特定多数の誰かの悪意や、私を想っている人のことも相手にする気力は無かった。煩わしくなってしまった。腹立たしい、という感情さえ消えていた。ただ喪失感があるだけだ。
 頭の奥がじんと痛んだ。考えることを止める癖が首をもたげる。もう、どうだっていい。彼の指先が、懇願するように私の頬を撫でた。
 もう、どうだってよかった。
 私は何もかもが面倒になってしまった。
 だから、つい、彼を拒むことですら面倒になってしまったのだ。
 保健室の空気は少し乾いていた。クリーム色のカーテンが、私と太宰の影を隠す。
 彼と唇を重ねながら、私はそっと目を閉じた。



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