後悔

 朔夜さんは容易く人を支配する。
 朔夜さんが笑うと、なんとなくみんなも笑う。なぜかみんなに愛される。なぜか憧れられる。
 美しい容姿だからという理由だけではない。
 彼女の一挙一動に、女神を思わせるようなカリスマ性があった。



 彼女と初めて話したのは中学一年生の初夏だ。
 転校したての私と彼女が隣の席だった。それだけ。
 まだ朔夜さんが学校の中心人物だと知る前の私は、あまり恐縮せず朔夜さんに話しかけた。たしか、最初の話題は好きな漫画とか歌手とかだった気がするが、よく覚えていない。もっとも記憶に残っているのは彼女から振られた家族の話題だ。
「ねぇ、なまえさんは兄弟とか、いる?」
「えっ……あ、兄が一人……」
「ふぅん、年上がいるのね。羨ましい」
「そうですか? 朔夜さんは?」
「私はね、弟がいるの。これが本当に手のかかる子で……うち、親が育児どころじゃないから、昔から私が面倒見なくちゃいけなくて」
「へぇ……」
「うちのお母さん、月幽病なの」
 私は「そうなんだ」としか言えなかった。月幽病というのはこの島、朧月島にある風土病で、日に日に記憶を失う原因不明の奇病だ。最悪の場合、精神が崩壊して自殺に至るケースもある。しかも大抵、治らない。
 朧月島には月幽病専門の病院がある。私が本土から朧月島に引っ越してきたのは、精神医学に従事する親がその病院へ赴任することになったからだった。
「ね、なまえさんは? なまえさんって島の外から来たんでしょう? どんなおうちなの?」
「うちの親は……お父さんはお医者で忙しいから、仕事にしか興味がないし、お母さんは月幽病じゃないけどすごくヒステリックだよ」
「ふぅん……。なんだか私たち、似てるね」
「似てる? 私と朔夜さんが?」
「ええ。私のお父さんも医者なの。灰原病院っていう、この島で一番大きな病院の院長で……病気のお母さんの面倒を見なくちゃいけないから、全然家に帰ってこなくて」
「……私の家も、親が全然帰ってこないよ。だから親なんて嫌い。家に帰りたくないくらい」
 気がつくと、私は今まで誰にも告げたことのない不満を初めて他人に打ち明けていた。なぜ、会ったばかりの朔夜さんにこんな話をしてしまったのかわからないけれど、朔夜さんなら私のすべてを受け入れて、抱きしめてくれる、そんな気がして。
 朔夜さんは少し目を瞬かせたあと、世にも美しい悪魔の微笑みを浮かべて囁いた。
「じゃあ今日、帰りに二人で寄り道しちゃおっか」
「えっ……でも、寄り道はいけないって先生が……」
「別にいいじゃない。ね?いいでしょう?」
 その日の放課後、朔夜さんがいたずらっぽく笑って私の手を引いた。私は転校先で初めてできた友達の誘いを拒否することなどできないし、する必要もなかった。
 二人で学校の帰りに公園に寄り、ベンチに腰かけながら道端のお花を見て、他愛もない話をした。
 そういう放課後が何日か続いた。



 私たちは異常なほど仲良くなり、私は朔夜さんに心酔していった。勉強も遊びも一緒にやったし、共通の趣味を見つければ時間を忘れて語り合った。
 私は学校に馴染むにつれて朔夜さんがみんなのものであると認識していったけれど、その認識は余計に彼女を繋ぎとめようとする独占欲にしかならなかった。
 スクールカーストの最上位に存在した彼女は島中のこどもたちに慕われていたが、私があんまりにも朔夜さんにベッタリしていたせいか、他の子は朔夜さんに寄りつかなくなって、私は彼女の隣という特等席を完全な形で手に入れることに成功した。
 そしていつしか、朔夜さんもまた、私の反応を気にしたり、私の言葉で一喜一憂したりするようになった。あの朔夜さんが、だ!
 彼女はみんなのもので、みんなが彼女を愛する。けれど朔夜さんがみんなに笑いかけるかどうかは、彼女の気まぐれ次第。
 そんな朔夜さんが、私だけを愛した。
 私だけを。
 特別に。
 その瞬間、世界は薔薇が咲き乱れる楽園へと変わった。
 中学の三年間、二人でなんでもやった。二人なら、なんでもできた。
 授業をサボってみたり、逆にテストでとびきり良い成績を取って先生を驚かせたり、二人きりの教室でクラスの女の子たちの陰口を言ってみたり、浜辺で寄り添って真っ赤な日没を眺めたりもした。
 私と朔夜さんは仲が良すぎて気持ちが悪い、デキているんじゃないか、という噂すら、島の中で密かに囁かれていたようだけれど、私たちは他人の目など微塵も気にならなかった。
 お互いのことを世界だと思ったことすらある。いや、むしろその認識は錯覚などではなかったのだ。狭い視野しか持たない少女たちにとって、互いの存在は世界以外の何物でもなく、私は朔夜さんであり、朔夜さんは私なのだった。



 月日は流れ、中三の冬。
 日が暮れた公園のベンチで朔夜さんの肩に凭れながら、私は言った。
「私、朔夜さんだけだよ。こんなに一緒にいろんなことをして、いろんな秘密を教え合うのは」
 すると朔夜さんも満開の桜のように美しく儚く笑って答えた。
「私も貴女だけよ。貴女が一番よ」
 見つめ合う二人の白い息が重なる。寒さなど気にならないくらい、胸が熱くて痛い。
 私は朔夜さんのもので、朔夜さんは私のものだ。誰が決めたわけでもないが、とにかく、そうと決まっているのだ。
 私と朔夜さんは楽園に咲く不滅の白百合で、土の中で根を絡め、養分を吸い取り合って呼吸する一つの生き物となった。誰にも解くことのできない糸で結ばれている。決して離れることはない。ずっとこうしていよう。そしたら私たち、永遠に幸福だから。
 そんな私の願いに応えるように、朔夜さんは黄昏時の闇の中、私に口付けをしてくれた。
 私は無限に幸福だった。



 それは高校生にあがってすぐのことだ。
 いつものように放課後、二人きりの教室で朔夜さんとひそひそ話をしていたとき。
 なんの前触れもなく突然、朔夜さんがお腹をおさえながら言った。
「私、妊娠したの。たぶん」
「は?」
「相手は……あまり他言できないのだけれど、貴女には特別に教えるからね」
 そう言って、朔夜さんが私の耳たぶに唇を触れさせながら彼女の弟の名を告げたとき、それがキンシンソーカンだったことよりも、彼女が私以外の誰かとの間で愛を体現したことのほうが信じがたかった。そして許せなかった。誓いが破られたのだ。裏切られたのだ。殺してやるべきだ。そう思った瞬間にはもう、私の理性は失われていた。
「許さない……」
「え?」
「私だけって、言ったのに」
「……」
「私だけだって言ったのに!! どうして他の人と仲良くしたの!? どうして私だけのものではいてくれないの! 私はとっくに貴女だけのものなのに!! 朔夜さんなんてキライよ!!!」

 ……

 しばらく、私と朔夜さんの間で時が止まり、重い沈黙だけが残る。
 数秒後。
 朔夜さんはゾッとするほど冷たい目で、私を見ながら、ため息をついた。
「なんだか……貴女といると、窮屈だわ」
 ハッキリそう告げられたとき、息が止まるくらいショックだった。神の宣告を受けると人間はこんなにも絶望するのだと生まれて初めて知った。私は膝から崩れ落ちて床にへたりこんだ。椅子に座る朔夜さんは、私を見下ろしながら、夕日で逆光になったシルエットに微かな微笑みを浮かべていた。
 あ。この人、今、安心している。私を傷つけることができるという事実に、安堵している。私が彼女を傷つけることで自分を慰めようとしたように。
「私もなまえさんのことなんてキライよ」
 最後にそれだけ告げて朔夜さんは黙った。
 永久に黙った。
 一言も言葉を交わしてくれなくなった。目も合わせてくれない。遠い人。他人。
 そうして互いの存在も、交友も、すべては過去の幻想に変わった。



 私は彼女の欠けた日々に適合しようと努めた。けれどダメで、私は彼女の欠けた日々に適合しようと努めた。けれどダメで、私はうまく呼吸できないまま、友達もあまり作れず、虚しい高校生活を送った。
 孤独を感じるのは友達が少ないからではない。恋人がいないからでもない。朔夜さんがいないからだ。私が最も焦がれた崇拝対象が失われた世界は、もはや世界ではなかった。地獄。無限大の地獄に溶けて、もう二度と訪れない浮遊を待つ日々。私の心からはあらゆる喜怒哀楽が欠落し、毎日、「どこで何を間違ったのか」、ただそれだけを考えながら過ごした。
 私には朔夜さんが必要だった。彼女の他に望むものなどないのだった。しかし彼女に会いに行くなんてできるわけもない。憎まれているし、憎んでいるのだ。会いに行ってなど、やるものか。私の知らないところで野垂れ死んでしまえ。朔夜さんがうんと不幸になってくれれば私は幸せです。そう自分に言い聞かせることで自我を保つ。
 高校三年生のとき、朔夜さんが月幽病で入院したと風の噂で聞いたが、お見舞いすら一度も行かずに時は過ぎた。
 私は彼女の存在を過去に変えて、大人になった。





 絶交してから八年ほど時が過ぎた。もうじき私は島を出る。本土で新しい就職先を見つけたからだ。たぶんもうこの島に戻ることはない。
 最後という言葉が私の足を病院へ向けさせた。百合の花束を片手に朔夜さんのもとへ向かう。
 病院の入口で灰原朔夜に会いたいと言うと、当直の看護婦は珍しいものを見るような目で私を訝った。なにやら、灰原朔夜という名前すら、あまり触れたくない禁忌のように振舞っている。そうして私は、朔夜さんの醜聞が病院内にこっそり蔓延っていることを知った。
 弟との肉体関係もさることながら、記憶障害を患う彼女は手に負えないほどの狂人と化しているらしい。そんな朔夜さんに会いに来る友人など、今やほとんどいないのだそうだ。
 だからこそ看護婦たちは、私が彼女の友人であると言うと珍しがって、半ば面白がるように、易々と面会を許可してくれた。
 私は病院の最深部へ歩を進めながら、十年前の夢に執着する自分の気色悪さについて考えていた。しかしどう足掻いても私という人間の根底には彼女がいる。朔夜さんはこの胸の奥底で不動の行動原理として私を支配し続けているのだ。そうして彼女がいるという病室まで向かい、緊張しながら扉を開けると、そこには、思わず惚けてしまうほどの美人が、慎ましくベッドに腰掛けて私を見ていた。
 久方ぶりに会う彼女は、依然、人間ではなかった。
 朔夜さんは十年前とまるで変わらない。彼女は私を見ると、幼い少女のようにあどけない微笑みを浮かべた。その瞬間、私は理解する。彼女は壊れている。精神の成長が、月幽病によって止まっているらしかった。
 しかしなにより私にとって重要なのは朔夜さんの仄白い頬や細い四肢だ。黄金比と言えばいいのかわからないが、大人になった彼女の全身は完成された美を体現している。その完璧な肉体の中に幼い精神が閉じ込められている。そんな彼女の現状を前にして、私は嫌悪感を感じるどころか、すっかり魅入ってしまった。そして確信した。やっぱり朔夜さんは人間じゃないんだって。
 実際、昔から朔夜さんは崇高な存在だった。彼女の魅力を言葉で言い表すことは難しい。恐ろしいくらい純粋に笑い、中毒になるほど人を甘やかし、支配し、そして残酷なまでに愛を裏切る。それらすべてを、私たち人間は無条件に許してしまうのだ。
 なんでかわからないけれど、彼女のすることはなんでも正しく思える。なんでも許してしまう。そんな魅力を彼女が持っていた。彼女は、女神だった。だから私は朔夜さんに心酔してしまったんだと思う。もし朔夜さんが透明で霊的な存在ではなく、平凡で濁った低俗な存在だったなら、私は彼女と過ごす時間の何もかもに重みを感じなかっただろう。
 やっぱりこの人は私なんかの愛で包めるような矮小な存在ではなかったのだ。好意を寄せるなど、おこがましい。でも確かに、彼女は私にとって失われた夢であり、壊れた愛であり、そしてなにより、甘やかな思い出の象徴なのだった。
 私はぼろぼろに泣きながら跪き、こうべを垂れ、ベッドへ腰掛ける朔夜さんの足を舐める勢いで、一心不乱に謝罪の言葉を並べ立てた。
「ごめんなさい……朔夜さんごめんなさい……あのときキライだなんて言ってごめんなさい……本当はキライなんかじゃないんです……死ぬほど愛していたんです……今も死ぬほど焦がれています……でも届かないことがつらいんです……こんな私でごめんなさい……ただそばにいるだけじゃ足りなくて、私だけの貴女でないとたまらなくて……貴女を憎まずにいられない私を……もういっそ……殺してください……」
「………」
「朔夜さん……?」
「ねぇ」
「……はい」
「貴女、誰?」
「…………………は?」





 それが私と朔夜さんの最後の会話だ。
 あのとき、愕然とする私に向かって天使の微笑みを向けてきた朔夜さんは残酷そのものだった。彼女は月幽病のせいで私のことなどすっかり忘れていたのだ。
 私はいつだって、彼女に切り裂かれ、罰される。けれど島を出た今になっても、私の中で朔夜さんは甘く、切なく、恋しい夢として想起され、私の胸を締めつける。彼女と過ごした幸福な世界は思い出すだけで吐くほどつらい。つらすぎて、もう二度と戻りたいとは思えない。けれどそれでも、もし朔夜さんがまだ私の隣にいたならと思わずにはいられないのだ。もう十年以上も前のことなのに。
 やはり私は気色の悪い女なのだと自覚しながら、だからこそ、私は朔夜さんの隣にいたのだと気づいた。朔夜さんは不浄の私を浄化する聖女だった。彼女を失った私はもはや穢れて、手遅れで、地獄の底に落ちるだけ。もし次の命を得られたなら、今度こそ間違わずに朔夜さんを愛し抜けるのに。
 ああもう、さっさと死んでしまいたい。



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