睡眠

 一体何がいけなかったのか。というと答えはとても単純で、いわゆる刷り込み、思い込みというやつだ。それはあの鎖に繋がれた象の例え話によく似ている。時臣君が偉大なる魔術師である事は誰であれ承知の事実であることは間違いない。しかし、そこに至るまでの過程で辛い思いをし、苦しんでいたということも事実なのだ。日々の鍛錬、そして私が知り得ない何らかの事情などで当時精神的に参っていた時臣君はたまたま私と一緒に寝て、そしてその日たまたま悪夢を見なかった。まあ詳しく言うならば夢を覚えていなかった、なのだがそこらへんの区別は全く関係がない。つまりはたったそれだけだ。高確率で起きそうな偶然は彼を狂わせる。なまえと一緒に寝ると、悪夢を見ないと信じ込んでしまった。もう彼は子どもではない。2人の娘がいる立派な魔術師であるというのに、私がいないと悪夢を見ると思い込んでしまっている。象の例え話から引用するのならば、『無力だと感じた、その記憶が頭にこびりついている。そして最悪なのは、二度とその記憶について真剣に考えなおさなかったことだ。二度と、二度と、自分の力を試そうとはしなかったのだ』というところだろう。
 頼られるというのは、信頼されているということだ。幼馴染として嬉しいに決まっているが、だがそれでも心配な事柄であることに変わりはない。しかも相手は既に結婚して美しい奥様と可愛い娘たちのいる男性である。なんともいろいろと不味い感じなのだが、彼にそのような感覚はあるのだろうか。不思議なことである。
 ぎゅっ、と私を抱き枕に安眠する幼馴染をそっと見つめる。密着した体、少し低い体温、時々髪にかかる静かな寝息、絡まる足。いくら小さい頃から一緒にいて、そして相手は既婚者だとしても、この状況で平然としていられる人は多くはないだろう。どきどきとする理由が恋であればどれだけ良かっただろう。まあ勿論、時臣君のような美しい人と密着していて、そのような感情がゼロであるとは言い切れないが。そんなことよりも彼の妻、葵さんに私の存在がバレないかが何よりの理由である。時臣君と私は、決してそのような関係ではないが、どう考えてもこの体制はとてもまずい。言い訳が出来ない立場にいる、とも言える。
 もう終わりにしよう。私がいなくても、あなたは強いから怖い夢は見ないよ。そう時臣君に言えたらどんなにいいだろうか。だが、そう夢想するだけで私は決してそこから行動しようとはしない。彼の唯一の「できない」を無くしてほしくなかった。これはきっと世間から見るならば私の独り善がり、偽善と呼ぶものだ。だが、私は誰にどんなことを言われようともこれが間違っていないと言い切ろう。
「ん……」
「おはよう、時臣君。よく眠れた?」
「……おはよう」
 私たちの朝は早い。勿論ばれないために、という残念な理由からだが。掠れた声で挨拶をする時臣君は、普段の優雅で完璧な姿からは程遠い。けれども私はそれについて敢えて何か言ったことはないし、これからも言おうとは思わない。子どものようにふにゃりと笑う彼は、目覚めてもまだ腕の中にいる私という抱き枕の存在に安心したらしい。抱きしめる力が一層強くなる。私は、抱きしめ返さない。それをやってしまうのは、葵さんに申し訳ないから、という最後の砦でもあった。私は時臣君にとっての睡眠のための道具であって、何も愛人になろうとなんてしていない。
「なまえ」
「ん、なあに?」
「…呼んだだけだよ」
 ぎゅうぎゅうと締め付けられる。一応「痛いよ」と言ってみるが、一瞬力が弱まっただけでまた強くなる。彼の腕と足が絡みついて、私は動くことができない。そのまま、何もせずにゆっくりと時間は過ぎていく。まだ薄暗いカーテンの外。大きな屋敷の中に動きはなくひっそりと静まり返り、そして彼と私の深い呼吸の音だけが耳に入る。だんだんと体温が上昇し、私たちは夢の世界から現実の世界へと舞い戻る。不思議な魔法はもうすぐ終わりだ。私たちは、普段の日常へ。遠坂時臣と、みょうじなまえは、ただの幼馴染。夜にひっそりと会っているだなんて不道徳なことは、なかった。これが事実。
「…本当は、週に1回じゃなくて、毎日来て欲しいんだけど」
「いや、それは本当にだめだよ……辛いのはわかるけど、そんなに私に依存するのはよくない。他の人に頼んだら? 葵さんとか」
「なまえじゃなきゃ、だめなんだ」
 毎回決められた時臣君の台詞。それに対する私の返答も同じだ。毎回彼は、願いが届かないと知りつつも私にお願いをする。それがどんなに私の心を苦しめるか。きっと彼は、それを知っているのだろう。知っていてなお、私に懇願する。世界中でただ1人、唯一私の前だけでは完璧でなくていいから。幼馴染という不思議な立ち位置はとても大切なもの。恋人や仕事仲間の前のように完璧な人間にならなくてもいい。けれども大いに心を許す、大切な仲。ありのままを受け入れられる立ち位置。遠坂時臣という、運命に苦しめられ続ける立ち位置から彼を守れる立場。
 そういえば、彼が悪夢を見るようになったのはいつからだったか。彼のお母様がいなくなったときからか、それとも遠坂家の先代様、つまり時臣君のお父様からの厳しい指導が始まったときからか。彼は、確かに代々続く由緒ある遠坂家からしてみれば、凡庸で取り柄のない人物だっただろう。だが、その事実を幼い頃に受け入れ、そして周りの世界が望むだけの人間に擬態することが可能な程には優秀だった。だんだんと心が軋んでいる事に彼自身でも気がつかず、それが夢となって現れる。ならば、私は時臣君に少しでも安らぎを与えたい。私のような、全く取り柄のない魔術師ができるただ1つ、といっても過言ではない人助け。本当ならば完治させてあげるのが最も良い最後なのだが、私には残酷な言葉をかける勇気がない。
「ほら、もう起きないと」
「……」
「時臣君」
「もう少しだけ」
 私はノーと言えない。



「時臣君、時臣君…こんなところで寝ないで」
 いつもの曜日、いつもの時間。でも今日の時臣君は、いつものように子どもの時から変わらない秘密めいた、でもそれでいて少し疲れた笑顔では迎えてくれなかった。ワインボトルが散乱し、ソファにぐったりともたれかかっている。いつもより酷い悪夢を見た、というレベルではない。いつも優雅な所作を乱さない彼がここまでおかしいのは、どう考えても異常事態である。
「ほら、時臣君」
 当然のように綺麗に整えられたベッドに腰掛け、ぽんぽんと隣を叩く。すると彼はふらふらと頼りない足取りでやってきた。
「…あっ、ちょっと!」
「……」
 そのまま時臣君は私に抱きつき、予測できなかった私は彼ごと後ろに倒れ込んでしまった。ぎしり、と予想外の衝撃にベッドが軋む。だが彼は何も話そうとはしない。私も何も話さない。今日、彼がこうなってしまった理由を知っているから。でも、それは本当に私にどうにか出来る話ではなかった。
「……最善の選択だった」
「うん、そうだね」
「これが、あの子の幸せなんだ」
 その独り言は本当にそう感じているというよりは、彼自身に言い聞かせているようだった。仕方がない事だ。魔術師の家系は、一子相伝。素晴らしい才能のある娘2人を授かった時臣君に残されていた道は、ホルマリン漬けか養子に出すという2択しかない。桜ちゃんの未来を考えるならば、どちらを選んだ方が幸せかは考えるまでもないだろう。もし私が彼と同じ立場にいたならば、やはり養子にと考えた。
 彼はまた重い荷物を背負った。今までも、そしてこれからも、時臣君は運命の気まぐれによる「罪」を背負って生きるしかないのだ。由緒ある魔導の家系に生まれたにも関わらずあまり才能が無かった罪、自分の感情を殺して家の為に生きている罪、自分の愛する娘を養子に出すという選択をした罪。私がいなければ悪夢を見るという記憶がこびりついて、そこから考えを放棄している。だが、言い方を少し変えるならば、私がいることで彼は睡眠中はその誰かから押し付けられた罪から解放されるということなのだろう。
 私は、酔い潰れて全く優雅じゃない時臣君を抱きしめ返した。一瞬体が強張ったが、途端にほっとした雰囲気を感じる。彼は今夜も悪い夢を見ない。夜にひっそりと泣かなくていい。その事実が、ひどく私を安心させる。
 もしかしたら、幼馴染がいなければ悪い夢を見てしまうというのは私も同じなのかもしれない。



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