人肌

 明かりのついていない薄闇の部屋。床に散乱する埃、ごみ、空き瓶、空き缶。それらに埋まったベッドでつくねんと腰掛ける私。
 二メートルくらい離れた窓際、マホガニー色の椅子にはブン太が座っている。窓べりに頬杖をついて私を見る、彼の純な視線。まっすぐすぎる。怖い。
 彼の視線を気にしながら、私は手にしたペットボトルに口をつける。麦茶のペットボトルはスキットルがわり。傾けるとウィスキーがこぼれた。手が震えて仕方ない。でもやめられない。嫌なこと全部忘れられるから。
 ある意味、お薬みたいな液体が、私の舌と唇を濡らし、頬を汚す。このドジはわざとではなかった。が、ブン太はここぞとばかりに立ち上がり、私に詰め寄った。咫尺の間。交わる視線。自分の酒臭さが彼に移ってしまいそう。
 断りもなく彼の指先が私の頬に触れた。不快感が胸を占める。でも抵抗しなかった。我慢できた。私の顎に伝うウイスキーを指先で掬いきったブン太が笑顔で呟いた。
「お前、やっと俺にも耐性ついてきたのな」
 本心から喜びを見せるブン太の逆光になった笑顔。彼の背後には、赤い空を映す窓がある。今日も一日が終わる。藍と赤が融合する黄昏が示す無常。世界には今日があり、明日がある。私にも、また明日が来る。終わりなく凛烈な日々が続く。そう感じた瞬間、肺いっぱいにこみあげる厭世の念。息が苦しい。
「ブン太なら平気になってきた」
「あっそ。ならその相変わらず根暗な顔も早くなんとかしろぃ」
 数年前に死んでしまった私の表情筋をブン太が辛辣に形容した。私を貶すことに寸毫も躊躇いがないのは旧知の仲だから。昔と何も変わらない。彼はいつも私をぞんざいに扱う。そのせいで幼い頃はよく泣かされた。
 ブン太はサバサバしていて、ときどき吃驚するくらい冷淡。けれどなんだかんだ優しい。こんなになってしまった私に対しても、小鳥を慈しむ天使のように優しい瞳を向けてくれる。
 たぶん、いや、きっと、ブン太は私を愛している。何年も前から。不変の絆で私に何かを示そうとしている。だって彼は依然として諦めようとしないのだ。多くの人が私を憫笑し、諦め、捨て去ったというのに。今や奈落の底で夢をなくした私に微笑みかけてくれるのは、この世で唯一、彼だけ。
「ブン太みたいに楽観的ではいられないから」
「もっと気楽にいこうぜ。その方が楽しいって」
「楽しい?」
「ああ。時間が楽しく過ぎる」
「嘘。今ですら楽しくないのに」
「はぁ? 俺が目の前にいんのに?」
 ふざけているのか本気なのか。ブン太はヘラヘラ笑って自信満々の台詞を吐くと、そのまま目を細めて顔を近づけてくる。だから私は慌てて彼の胸を押し返した。そんな気分じゃなかったし、私にはそういう欲求がない。あるのは憎悪だけ。キスでもしたら、たまらなく不快で吐きそう。嫌いだ。ブン太なんて嫌い。彼が、今も、私をジイッと見つめてくる。熱い熱い眼差しで、私を焼き尽くそうとしてくる。気持ち悪い。
「キスすんの嫌?」
「嫌」
「あっそ。まぁ、いいけど」
「ブン太、気持ち悪い」
「ならなんで俺のこと部屋に入れんの」
 そう言って彼は周囲を見回す。服やゴミがぐちゃぐちゃに散らかった、猥雑で昏い私の家。ブン太の家から近いせいで、昔からよくお互いの家に遊びに行っている。二十歳を過ぎた今も、彼は帰り道のコンビニに寄る感覚で私の家に来る。
「それはたぶん……私が、ブン太に来てほしいから」
「わかってんじゃん」
「でも触らないで。ブン太は待つの苦手かもしれないけど」
 いつか、腕を広げたブン太の胸に飛び込んで、柔い抱擁のぬくもりを知りたい。彼と体をくっつけて眠ってみたい。二人で朝を迎える喜びを感じてみたい。いつの日か。けれど、まだ駄目。怖い。温度も汗も感触も、私に地獄を思い出させる。数年前、知らない男の人が私に触れて私を陵辱して私を消費した地獄の記憶。
「オイオイ。ついにアル中で記憶が飛んだか?」
 私の発言を受けてブン太が不敵に笑った。
「俺が超天才ボレーヤーだってこと忘れんなよ。俺は辛抱強くチャンスを待って得点するのが得意なんだぜ」
 そういえば彼は中学時代にテニスの強豪校で全国大会に出ていたのだった。あの頃は私も、むせかえるような陽炎の中で彼の応援に精を出したっけ。試合の後に甘い特製スポーツドリンクを作ってあげたりして。周りからは、付き合ってるとか、散々、茶化されていた。
「そうだった。そんなこともあったね」
「おう。忘れんなよな」
「忘れてたかも」
「忘れんな。俺がずっと昔からお前の視線の先にいたってこと」
「うん」
「それと、今も俺の視線の先にはお前がいるってこと。この二つだけは……」
 そう告げるブン太の顔があまりに真剣で彼らしさの欠片もないから、おかしくって、ふふっと鼻から二酸化炭素が漏れる。「笑うな」と怒りながら口角を上げて私に微笑むブン太。ほんと、気持ち悪い。壊玉有罪。こんな優しさ、こんな男、私には相応しくない。でもまだ間に合うと彼が思ってくれるなら、私も現実社会に戻る意欲を失わないでいたい。
「忘れないように、お酒、なるべくやめるね」
「そうしろ」
「でも時間がかかるよ」
「バーカ。そんなの今更すぎるぜ。俺がこれまでの人生でどんだけお前に時間割いてきたと思ってんだ。責任取れ」
 責任取れ、というその言葉で思い出した。中学時代、彼は私に全く同じ台詞を言った。二人でおやつの手作りケーキを作っていた時。「私がブン太の胃袋を掴むより先にブン太が私の胃袋を掴みそうだね」って冗談をこぼした私に向かって、顔をそむけたブン太の小さな呟き。「胃袋どころか、俺の気持ちはお前が掴んでんだよ。とっくにな。責任取れ」
 それは、まだ、彼がただのテニスの上手いデブで、私が百合の花だった頃の話。
「ふふ」
「あ、また笑ったな。こっちはマジメだっつうのに」
「ごめん。つい……」
「いや、笑ってろよ。お前はその顔が一番イケてんだから」
「そうかな」
「そうだって言ってんだろぃ」
 私はブン太と一定の距離を保ったまま彼の温容を見つめた。いつか必ず肉叢への憎しみを超克し、彼に抱きついて、ありがとうと愛してるを言いたい。



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