レストラン

「ただいまぁ……」
 誰かが待っているわけでもないが、そう言って家に入るのがなまえの癖になっていた。癖と言えば、靴を脱ぎ捨ててソファへばたりと倒れ込むのもそうだったが、今日はそういう訳にもいかない。なまえはヒールをシューズラックの奥へと押し込み、小さな鞄の中から荷物を取り出しては片手に持った紙袋へポイポイと移しながら部屋へと向かった。空になった鞄をクローゼットの脇において、ドレスに手をかける。
「……はあ」
 今日の式のことを思い出すと、自然とため息が漏れた。
 素敵な結婚式だった。それは素晴らしいものだった。高校時代からの友人のあんなにも幸せそうな笑顔を見て、心の底から祝わないはずがないし、思わず泣いてしまったほどだ。しかし――当分はお腹いっぱいだ。そう思って首を振るのも、いったい何度目だろうかとなまえはまたしてもため息を吐く。
 ここ数年、なまえの周囲では結婚が続いている。初めは高校時代の先輩だった。その次は職場の同僚やら後輩やら、そして友人と来た。結婚を急ぐ年齢でもなければ、なまえ自身、結婚を焦っているわけでもない。しかし、今日結婚した友人とは、つい去年まで『プロポーズされるなら誕生日がいいね』とか『花束を贈られたら素敵だよね』とか、少女のような理想を語り合っていた。彼女は今日幸せな結婚式を迎えたが、なまえには間近に迫った誕生日を祝ってくれるような彼氏すらいない。なんだか、胸にぽっかりと穴があいてしまったようだし、純粋に友人の幸せを祝いきれないことにも腹が立つ。ぽっかりあいた穴を黒い感情が満たしてしまう前に、なまえは自身の両頬を叩いた。
「よし! ……よぉーし、お風呂入れよ……」
 下着姿のまま浴室へ向かい、風呂の支度をすると、なまえはふぅ〜と大げさなため息を吐き出しながらソファに倒れ込む。これこそ女子力が足りないと言われる所以なのでは? と一瞬考え、しかし、別に誰も見てないのだから大丈夫と、なまえはごろごろしはじめた。
「そういえば、引き出物何かなぁ」
 ソファの脇に置いていた紙袋へと手を伸ばす。ごちゃごちゃに突っ込まれたままの家の鍵やら財布やら郵便物やらに、なまえは「あ〜……」と声を漏らした。普段使いの鞄に必要なものを突っ込み、残った引き出物の袋と封筒を取り出す。高校時代の先輩は夫婦の顔がプリントされたお皿だったなぁと思い出し、そういった類のものではないことを祈りながら引き出物を取り出す。どうやら、中身はカタログらしい。ほっと胸を撫で下ろし、なまえは残った郵便物へと視線を向けた。
 広告はがきを横に除けていると、なまえの目に真っ白な洋形封筒が留まった。美しい字で住所となまえの名が書かれている。封筒の感触を確かめるように握ると、何かカードのようなものが入っているらしかった。なまえはぼんやりとそれを眺めたあと、くるりとひっくり返した。
「鶴見……?」
 そこに書かれた文字を読み上げ、なまえは首を傾げた。聞き覚えのない名字だ。相手の住所はどこにも書いていない。何かの間違いかともう一度裏返すが、やはりこの部屋の番号とみょうじなまえ様の文字が行儀よく並んでいた。
 不思議がりながら封を切り、なまえはまたしても首を傾げた。中にはカードキーと折りたたまれた手紙が入っている。手紙には丁寧ながらも親しげな文面で、ディナーへのお誘いの旨が書かれていた。予約日はなまえの誕生日で、某ホテルの中にあるフレンチレストランの名前が書かれている。休日に観たバラエティ番組で紹介されていて、思わず「おいしそ〜。いいなぁ」と呟いたのも記憶に新しい。一番下には鶴見なる人物の署名があったが、やはり、住所やら電話番号といった類の連絡先がどこにも書いていなかった。
「……ん〜……白石かな」
 これは誕生日サプライズというやつでは? こういうことを考えそうな友人の名前を呟き、しかし、なまえはすぐその考えを捨てた。
 確かに、白石という男は意外とマメだし、友人想いなところもあって、サプライズをするのもされるのも好きだ。店を予約するときにまったく違う名前で予約するなんてイタズラをしていたこともある。が、彼は万年金欠男である。何の仕事をしているのか、そもそも働いているのかどうかもよくわからない。なにより、なまえの知る白石は、フレンチへ行く元手を増やしてやろうとして競馬で溶かしてしまうようなタイプである。
(まあ、彼女が相手なら違うんだろうけど……って、そうだ……そもそも、こういうサプライズしてくれる彼氏がいなかった……)
 なまえはずむん……と肩を落とす。親しい異性の友人は他にもいるが、こんな祝い方をされるような関係ではない。では、いったい、この『鶴見』とは誰なのか。どれだけ記憶を掘り返しても、なまえには心当たりがなかった。しかし、文面から察するに、鶴見なる人物のほうはなまえのことをよく知っているらしい。
(なんか気味悪いなぁ……)
 なまえはじっと手紙を見つめた。送り返そうにも封筒に住所が書いていないし、それに相手はなまえの住所を知っているのだ。逆上されて家にまで来られたら、たまったものではない。捨てるにしても、もしもゴミを漁られていたら? ホテルに送り返すとしても、ポストに投函しているところを見られるかもしれない。直接ホテルへ返しに行く場合も同様だ。なまえはんん、と小さく呻いた。
(……いっそ、当日に返しに行こうかな。流石に人目につくところで何かされたりはしないだろうし……早めに行って、フロントに事情を話して……相手の顔をこっそり拝んでおいたら……)
 なまえがそんなことを考えていると、友人の一人が「なまえちゃん、なんでそうやってすぐに無茶するの! 何かあったら言ってって言ったよねぇ?」と叱ってくる姿が思い浮かんだ。なまえは思わず笑う。確かに彼――杉元ならそう叱るだろう。とはいえ、彼のほうこそ無茶をするタイプだ。仲のいい友人のためであればカッとなって手が出てしまうこともしばしば。そういうところが『彼らしい』の代名詞ではあったが、事を大きくしたいわけでもなければ、彼に警察のご厄介になってほしいわけでもない。頭の中で叱る彼をゴメンゴメンと宥めながら、なまえは手紙を見つめた。


 当日、なまえは約束よりも一時間ほど早くホテルへとやってきた。パンツスタイルのスーツで、いかにも今から打ち合わせですと言わんばかりの表情でホテルの入り口をくぐり、鞄から招待状とカードキーを取り出す。実際、ラウンジでの打ち合わせは稀にあるのだが、このホテルは初めてきた。入ってすぐに広いロビーが確保されているものの、フロントはどうやら奥まったところにあるようで、なまえから見える範囲にはない。
「おや、どうしたのかな」
 周囲に視線を彷徨わせていると、背後から声が聞こえ、なまえは振り返った。そうして、思わず肩を震わせた。声の主はなまえをじっと見下ろしている。彼の頬より上には火傷の痕が広がっており、恐らくその大きな額当ての下にも痛々しい痕が残っているのだろう。しかし、外見だけではない、何かをなまえは感じ取った。それが何なのかはなまえにもよくわからないが、ともかく彼は異質だった。だが、彼はなまえの態度に気付いていないのか、あるいはわざとなのか、ずいっとなまえに身体を近付ける。そうして、パチパチと瞬きをした。何故かなまえの目にはデフォルメ化した星が飛んでくるのが見えて、なまえもまた瞬きをした。彼は妙に嬉しそうに笑っている。それはお茶目で可愛らしい紳士の姿らしくなまえの目に映り、彼女は強張った肩から力を抜いた。
「あ……いえ、フロントはどこかなと」
「レストランではなく?」
 どうしてそれを?
 訝しげに彼を見上げ、しかし、すぐに手に招待状を持ったままであることを思い出す。なまえが何か言うよりも早く、彼はポンと手を打った。
「ああ、スーツでも大丈夫な場所だから、気にしなくていい」
「え、あ……はあ、そうなんですか……」
「美味しいところだよ。……さ、お手をどうぞ、お嬢さん」
 彼はごく自然な仕草でなまえの手を取り、パチンとウインクをした。あまりにも完璧で、慣れている所作に、なまえもまた当たり前のようにエスコートされてしまう。はたと気付いてなまえが「あの」と口を開きかけると、彼はそれを遮るように彼女に話しかけた。
「甘いものは好きかね」
「え? ええと……はあ、まあ」
「そうか。それはよかった。ここの料理は特に食後のデザートが格別でね。きっと、キミも気に入るだろう」
 いつのまにやら、なまえの腰に手が添えられている。するりと撫でられ、なまえは身動ぎして彼を見上げる。彼はなまえに微笑みかけたあと、視線を逸らして見えないように――しかし、明らかになまえにだけは気付かせるように――少しばかり悲しそうな顔をしてみせた。その表情に、なまえはまるで自分が間違っているような錯覚を覚える。それに抵抗するように、なまえは小さく首を振ると、毅然と、今度こそ彼に遮られることなく言った。
「あの。私、フロントに行きたいんですけど……」
「食事をしてからでいいよ。……それとも、部屋のほうがいいか?」
 まさか。なまえはようやっとある可能性に気付く。
 彼の様子を窺うように見上げると、彼は至って真面目そうな顔でなまえを見つめていた。
「…………鶴見、さん?」
 なまえは震える声で、そう口にした。その言葉をどう解釈したのか、彼はぱっと笑顔を浮かべて「冗談だよ」と言う。なまえはさっと青褪めた。流されるように着いてきてしまったばっかりに、既にエレベーターの前だ。人気は……見事なまでにない。挙句、しっかりと手と腰を取られている。せめてもの抵抗と、なまえは声を上げようと口を開く。が、それよりも先に、彼――鶴見がなまえの顔を覗き込んだ。
「もしかして、ホテルのレストランは初めてだろうか」
「ぅえ……」
「思った通り、一時間も早く来ていたから……うん、やはり指定の時間をズラしておいて正解だった」
「うぅ……」
「ところで、今日、仕事は休みではなかったのか? いや、責めているわけではないよ。その格好もかわいらしいから、私は好きだな」
 悲鳴とは、こんなにも相手に接近されてしまうと出てこなくなるものらしい。
 できることなら、実体験で知りたくはなかった。なまえは青褪めたまま、ウンウンと頷く鶴見を見つめた。
 彼はなまえの蒼白な顔を気にも留めず、言葉を続ける。時折沈黙を保つこともあったが、なまえが少しばかり落ち着きを取り戻しはじめると、彼はなまえに語り掛けた。今一つ、なまえはどんな話をされたのか覚えていない。当たり障りのない話であったことは確かなのだが、鶴見は話をしながら、なまえの手を握ったり、頬を撫でたりと、明らかになまえを動揺させる行動を取った。
 おかげで、なまえはロクな抵抗もできず、そのままレストランの席にまでエスコートされてしまった。席を立とうにも、鶴見の眼差しは真っ直ぐなまえに注がれている。視線に呪いでもかかっているのか、なまえはぴくりとも腰を浮かせることができなかった。せめてもの抵抗にとなまえは一切その気はありませんとばかりに妙に姿勢を正したまま、机の上をじっと見つめる。そんななまえを見ながら、鶴見はにこにこと笑って机に両肘をついた。
「キミとこうして食事に来られるなんて嬉しいよ」
「……は、はあ」
「……もしかして、気に入らなかったかな。キミはサプライズが好きだと思っていたのだが……」
 なまえの曖昧な相槌に、鶴見は途端にしゅんとした表情を浮かべ、まるでお伺いでも立てるように、おずおずとなまえに問いかけた。何故か、ずきりと胸が痛み、なまえはどうして痛む胸があるのだとすぐさま自身を叱咤する。とはいえ、なまえにも一つの嫌な予感があった。
(……もしかして、本当に私が覚えていないだけで、知り合いだったりするんじゃ……)
 そう思わされるほど、鶴見の態度はあまりにも堂々としている。だが、その一方で、こんなにも目立つ外見をしている男を忘れるはずがないという確信もあった。
 なまえはまじまじと鶴見の顔を見つめる。顔の火傷と額当てのせいで、一見すると怖ろしい人のように見えたのだが、よくよく見れば鶴見は美しい顔をしている。わざわざ言葉に無駄な装飾をつけずとも、ただ一言『美しい』と表現するのが相応しいとなまえには思えた。そう気付くと、ある種、火傷が尚のこと彼の美しさを引き立てているように思え、何故かなまえには彼の背後に花が咲き乱れているのが見えた。目を擦れば消えたが。
 鶴見はなまえの不躾な態度を、今にも鼻唄を歌いそうなほど上機嫌に眺めていた。かと思えば、途端に顔から表情が消え、猫が暗闇からこちらの様子を窺うような目でじっとなまえの顔を観察し始めた。不躾な態度を取ったのはなまえが先とは言え、居心地が悪い。耐えきれなくなったなまえが愛想笑いを鶴見に向けると――どろり。
「ひっ!」
「おっと、失礼」
 ――鶴見の額当てから何かが垂れた。
 なまえは思わず悲鳴を上げる。鶴見はハンカチで額から垂れたそれを拭い、そうして、またにこにことしながらなまえを見つめる。ここまで触れずにいたが――目の前でこんなことがあると、なまえも聞かずにはいられなかった。
「……あの、大丈夫ですか?」
「うん。たまに出ちゃうんだよ、変な汁」
「変な汁……」
 それはもしや脳漿と言うのではないでしょうか。などと言えるはずもなく、なまえはオウムのように繰り返す。
 鶴見はそんな彼女の態度をやっと己に興味を持ってくれたと受け取ったようで、心底嬉しそうに微笑んだ。
「ちょっとした事故でね。前頭部の頭蓋骨が吹き飛んで前頭葉が少々欠けただけだから、大したことはない」
「そ、それは本当に大丈夫なんですか……?」
「ハハハ、キミもご両親と同じようなことを心配するんだな」
「はあ、両親に。……両親に?」
 聞き捨てならない言葉を聞いたと、なまえは鶴見を見上げる。彼は何でもないような顔で「何度か一緒に食事をさせていただいたときにね」と頷いた。
「ああ、そう……なんですか。……ああ、なるほど。そうだったんですねぇ」
 なまえは途端に自身の肩から力が抜けていくのを感じた。ピンと正していた姿勢を少し崩し、なまえは息を吐き出す。今までの警戒は無意味なものだったのだと、なまえは自身に呆れたように笑う。やや前のめりになって鶴見に話しかけた。
「あの、うちの両親と親しいのですか?」
「キミのお父さんには何度か酒の席に誘われたなあ」
「ああ……それはまた……」
「心配しなくても潰されたのは一回目だけだ」
「ご、ごめんなさい、うちの父が」
「気にしなくて構わないよ。そういう席を持てるのもいい関係を築けている証拠だ。それに、二回目からはそう何度も勧められることもなくなったし、キミのお母さんにも『また酔い潰したら悪いから』とラムネ菓子もいただいたから」
「ああ、うちの母、よくそうするんです」
「キミのお母さんには良くしてもらった。今日の食事のことも賛成してもらえたし……ああ、料理が運ばれてきたね。食べようか」
 確かに、なまえの父は酒豪であった。母が酒の席でラムネ菓子を出すのもいつものことだ。
 鶴見に微笑みかけられ、なまえはすっかり安心しきった様子で頷いた。


 食事は驚くほどに楽しかった。鶴見は話し上手で、なまえの様子をよく見ている。彼女の話しやすい話題を選び、知らないことは優しく教え、何よりもそれがちっとも偉ぶっていない。それに、彼はなまえの会社の取引先に勤めているらしく、その上、なまえが行っていた大学の卒業生でもあった。意外な共通点にすっかり打ち解け、会話も食事も弾み、あっという間に最後のデザートになってしまった。鶴見の言っていた通り、確かにここのデザートは格別だった。最後の一口を名残惜しげに口に運び、なまえはふにゃりと表情をゆるめる。
「幸せそうに食べるね」
「え。……あ、えと、そんなに顔に出てましたか?」
「ふふ、かわいいよ」
 なまえの問いかけには答えず、鶴見は今日で何度目ともつかない褒め言葉を口にした。何度聞いたって慣れるはずもなく、なまえは両頬を赤く染める。居心地悪そうに視線を彷徨わせていると、鶴見は満足そうに笑った。
「よかった。こんなに幸せそうに食べてもらえて。……安心した」
 鶴見の言葉に、なまえはごくりと息を飲む。
 妙に喉が渇いて、なまえはコーヒーに口をつけた。
(……鶴見さんが父さんと母さんの知り合いだってわかったけれど……結局、どうして一緒に食事をしているのかは、よくわからないんだよね……)
 むしろ、謎が深まったとも言えるだろう。食べている間それとなく聞こうとしたが、結局、話題を逸らされてはぐらかされた。もう聞くタイミングは今くらいしかないだろう。しかし、なんとなく、聞くのは躊躇われる。給仕の男性がデザートの皿を下げに来たのを横目で見て、なまえは意を決した様子で「鶴見さん」と呼びかけた。
「あの、どうして今日はここに?」
 鶴見は不思議そうに瞬きをした。まじまじとなまえの顔を見つめる彼は、なまえの言っていることがわからないと言いたげだ。やがて、彼は「以前ここに来たいと言っているのを聞いたからだが……」と呟いた。
「え? 私、父にも母にも言った覚えはないのですが……」
「うん? いや、キミの口から直接聞いたんだよ。言っていただろう、『いいなぁ』と」
 その言葉を、なまえは発した覚えがある。しかし、その言葉を口にした場所は――いや、なまえは首を振った。これ以上は考えたくない、理解したくないとなまえの本能が訴えている。しかし、どうしても聞かずにはいられなかった。
「どうして、」
「ずっと何を贈ろうかと悩んでいたんだ。かわいい恋人の誕生日を初めて共に祝えるのだから……どうしても特別にしたくてね」
 鶴見はなまえの顔を見て優しく笑いながら、なまえの都合の良い想像を壊してみせた。
 あまりにも堂々とした鶴見の態度は、なまえ心に不安を抱かせるには充分すぎた。実は、本当に鶴見を愛していたことがあって、何かの事故でその記憶を失ってしまったのではないかと一瞬でも思わせるほどだった。だが、それはありえない。ありえるはずがないと、なまえは首を振る。なまえが鶴見と出会ったのは確かに今日が初めてで、欠落した記憶があるはずもない。何かが欠けているとすれば、それは目の前の男にこそ言えることであった。何度もそう自分に言い聞かせなければ、なまえはその考えに飲まれてしまいそうだった。
「まあ……私はできれば、次の段階に進めたいと思っているのだが」
 肌にぶわりと汗が浮かぶ。激しく鼓動が鳴り、なまえは自分の視界がぐらりと揺れるのを感じた。なまえの様子を鶴見は意にも介さず、両肘を机について微笑んだ。
「何度か、ご両親と食事をさせていただいたと言っただろう? 勿論、そういうつもりで。キミには今日まで内緒にしていたが……いずれはそうするつもりだったのだから、構わないだろう?」
 からかわれているだけであれば、どれほどよかっただろう。しかし、鶴見は笑顔のカタチを保ってはいるものの、所詮は形状だけであった。彼はじっとなまえを見つめている。鶴見という男にとってなまえがそういう位置付けにあり、また、彼女をその場所へ引きずり込もうとしているのが、なまえ自身にもわからされてしまった。
 ふいに周囲が騒めきはじめ、なまえの意識は一気に現実へと引き戻された。何一つ変わらない目の前の光景が、これは現実であるとなまえに知らしめる。いや、一つ、違うことがある。
(――ああ、まさか)
 鶴見の横に給仕の男が立っていた。男は花を抱えている。真っ赤な、薔薇の花を。鶴見は立ち上がってそれを受け取った。優雅な足取りでなまえの傍らに立つと、彼は跪く。周囲から色めきだった声が聞こえた。
「年齢の数だけの薔薇なんてちょっと気障だったかな」
「…………」
「でも、特別な日だからね」
「…………」
「かわいいキミの誕生日だ」
「…………」
「そして、これからもっと特別な日になる」
「…………」
「なまえ、結婚しよう、私と」
 声も出ないとはまさにこのことだ。
 しかし、なまえが何も言わずに凍り付いたとしても、周囲は何も不思議がったりはしない。当然だ。突然のプロポーズに言葉を失っているだけだと誰もが信じている。そうして、誰もがなまえがその花を受け取る瞬間を、固唾を飲んで見守っている。
「…………っは、」
 なまえはようやっと息を吐き出した。あらゆる感情が混ざり合い、なまえには自分が何を考えているのかさえわからない。震える喉で言葉を紡ごうとするが、何を言うのが正解なのかもわからなかった。ただ、本能が鳴らす警鐘に従って身体を後ろへと引く。すると、鶴見の手が、なまえの膝の上で握りしめられている拳にそっと重なった。
「……そういえば」
 ふと、何でもないような口ぶりで鶴見は口を開いた。
「食事、美味しかったかな?」
 その一瞬で、なまえの脳裏に食事中の会話が過ぎった。彼はなまえのことをよく知っている。なまえもまた、自分のことを彼に話してしまった。それどころか――。
(……住所も、職場も、実家も、父のことも、母のことも……この人は……知ってる)
 なまえには選択肢などなかった。鶴見に見初められた瞬間から、物事は粛々とこうなる運命へと動いていたのだろう。他でもない鶴見の手によって。そうであれば、もはや彼女にできることは一つしかない。
 ――周囲から拍手と歓声が聞こえる。どこか遠くの出来事のように、なまえはぼんやりとしていた。だが、現実だ。どうしようもなく。
「よかった。受け取ってもらえなければ、どうしようかと」
 白々しい鶴見の言葉に、なまえは腕の中に収まった花をきつく抱き締めた。ずきりと腕が痛む。
「ああ。駄目だよ。その薔薇には棘がある」
「……大丈夫です」
 せめてもの抵抗だ。なまえは鶴見に笑みを向ける。彼の額からどろりと脳漿が零れた。気が早いかな、と彼は呟きながらも、なまえにうっとりと視線を向ける。
「キミの理想通りの、素敵な結婚式にしようね」
 その素敵な結婚式に、幸せな花嫁はいるんでしょうか。
 彼女の声は誰にも届かなかった。



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