どしゃぶりというほどではないにしろ、小雨と呼べるほどささやかなものではない雨の中で、私は征十郎さんと出会った。傘も鞄も持たず、マネキンのようにぼんやりと街灯の下に立っていた私を、彼はどんな思いで見ていたのだろうか。
彼に何をしているのかと問われた時、かすれた声でどこにも帰りたくないと言ったのを覚えている。答えになっていない答えを聞いた征十郎さんは、そのまま私の手を引いて、自分の住むお家に連れていってくれた。
戸惑う私に、征十郎さんは「帰る場所がないのなら、ここに住めばいい」と言って、生活に必要なものをすべて与えてくれた。こんなに厚遇してくれる理由は教えてくれなかったが、理由に興味がなかったので私はおとなしく住むことにした。
寝る部屋は征十郎さんと同じで、食事も彼がいれば一緒に取った。学校に通う必要も仕事をする必要もない。征十郎さんのそばにいれば、すべての義務から私は解放されていた。
何もかも快適なこの待遇に、不満などあるはずがなかった。
私の“悪い癖”が出始めたのは、征十郎さんに会ってから10日ほど経った日のことだった。征十郎さんのお世話をしている使用人さんたちの噂話を盗み聞きしていた時、彼の好みの女性は「品のある女性」だということを知った。それを知った私は、すぐに大雑把にまとめておいた髪を下ろし、シンプルなメイクをし、征十郎さんが買ってくれた白いワンピースを着て、背筋をまっすぐに伸ばし、口元にゆったりとした笑みを浮かべることにした。鏡を見たら、捨て犬のようにやつれた私の代わりに、色白のほっそりとした美人が映っていた。
部活を終えて帰ってきた征十郎さんは、すっかり別人となった私を見て少しだけ目を丸くしたが、微笑んで頭を撫でてくれた。とても、嬉しかった。
それ以来、私は征十郎さんの言葉の節々から、彼は何が好きで何が嫌いなのかを探り始めた。将棋が趣味だと知ったら、基本的なルールは1日で完璧に覚えたし、彼の部活であるバスケに対しても知識と理解もずっと深めた。
彼の好きな料理も作れるようになったし、彼の好きな音楽も本も香水も色も理想も信念も全部全部全部、私は吸収していった。私ほど、征十郎さんの理想に近い人間はいないだろう。
でも、征十郎さんが屋敷にいないと寂しくて仕方がないから、彼に似た人形を作って、それを彼がいない時には持ち歩くことにした。人形を持って廊下を歩く私を、使用人さんたちが白い目で見ていた。
私はあまり快く思われていないようだった。征十郎さんの父親からも、使用人さんからも。当然だろう、どこの生まれかもわからない小娘が何もせずにのうのうと自堕落に生きているのだから。
それでも、誰も私を追い出そうとしないのは、私を家に住まわせると宣言した征十郎さんの尋常ならざる迫力を見たからだろう。今まで周りの人間に目立って反抗してこなかったらしい彼が、いったいどうしてか私のことになると鬼気迫った表情になるのだ。
それからしばらくして、いつものように暇を持て余した私は、使用人さんたちの話を盗み聞きしていた。
私は征十郎さんからいつも多めにある程度のお金をもらっている。それで人の迷惑にならない範囲なら何をしても、何を買っても良いことになっている。
にもかかわらず、暇な時間を娯楽ではなく盗み聞きに費やしていたのは、それが私にとっての精神安定剤のようなものだったからだ。
盗み聞きは物心ついた時から得意だった。相手が子供だろうと大人だろうと何人いようと、会話をこっそり聞くことができた。例えば、いつから冷戦状態にあるかわからない両親が離婚の際に私の世話を押し付けあっている会話とか、クラスの女の子たちが日々のストレスをぶつけるために私をはぶる約束をしている会話とか、先生たちが私の暗い顔を見て「あの子は扱いづらい」と話しあっていることとか。
盗み聞きをしているうちに、私は人がそれぞれ抱えている“本性”に気付き始めた。他人が心の奥底で望んでいることが何かを悟るようになっていたのだ。
何もわからないというのは怖い。自分の理解の範疇にないものには怯えるしかない。でも、例え悪意であっても無関心であっても、誰が私にどんな感情を抱いているのかということを知ると、不思議と気持ちが軽くなっていった。
やがて、人の心がわからず怯える自分はいなくなり、代わりに他人が私に見る理想から外れて見捨てられるのではないかという恐怖が根付き始めていた。
「なまえ」
窓の隙間から注ぎ込む月光を、布団にくるまりながら浴びていると、耳元で征十郎さんが囁きかけてきた。隣で眠る彼の体温は、私にとって睡眠導入剤のようなものだ。これがないと眠れなくなる。
「泣いていたのか?」
「……泣いてません」
「嘘は良くない」
征十郎さんが私の顔を覗き込もうと、上に覆いかぶさってきたから、慌てて枕に顔を押し付けた。てっきりもう寝ていたのかと思っていたから、こっそり泣いていたのだが、どうやら狸寝入りだったらしい。
「ほら」
かすれた優しい声に促され、彼の方にゆっくりと顔を向けた。親指の腹で目元をぬぐってくれた征十郎さんは、私のお腹に腕を回し、自分の方へと引き寄せた。
「どうして泣いていたんだい」
「……昔のことを思い出して」
「昔?」
「征十郎さんがここへ連れてきてくれる前のことです」
「……そうか」
征十郎さんは、猫がすり寄るように私の肩に顔を寄せてきた。ふんわりとした柚子の香りがくすぐったい。
『寄生虫』と学校では呼ばれていた。親がいても守ってくれなくて、何に対しても臆病な私は、いつも強い人、やさしい人のそばにいなければ、息が詰まって苦しくて怖くて仕方がなかった。
『楽でいいよね、寄生虫なんだから』そう言われたこともあった。楽なんかじゃない。絶対に楽なんかじゃない。一緒にいる相手に嫌われてしまったら、そっぽを向かれてしまったら、息ができなくなってしまうから、必死に笑顔を振りまいて、相手の好きなタイプになって必死に自分を何度も作り直した。相手が私にセックスを望んだら躊躇いなく受け入れたし、相手が私を引き立て役として望んでいるのなら、喜んで地味で惨めな姿になった。
それでも、相手は結局私から離れて行って、そのたびに私は新しい相手を望んだ。そうして、何度も何度も相手の望むように自分を作り替えていった。
でも、ある日、すべてが怖くなって、すべてが無意味だと思って、私は財布だけ持って外へと飛び出した。帰りの電車代のことなんて考えもせずに、お金を使い切るまで電車を乗り続けた。
そして、とうとう無一文になった時、私は征十郎さんに出会ったのだ。
「なまえ、昔のことなんて思い出さなくていい。 ここにはお前を苦しめる奴なんてどこにもいないから、安心しておやすみ」
「……。……征十郎さんは、私のこといじめたり、しません……よね……?」
答えはすぐには返ってこなかった。ひんやりとした静寂の後に、征十郎さんが口を開く気配を感じた。彼の方に体を向けると、幼さの残る美しい顔立ちが目の前にあった。
薄く形良い唇が静かに動き出す。
「……僕はすべてに勝ち、すべてにおいて完璧さが必要だ。それは未来の伴侶においてもだ」
「はい」
「お前が完璧であれば、僕はお前を見放したりしない。お前の望むものはすべて与えよう」
月明かりの中で征十郎さんが微笑んだ。左右で違う色の瞳が妖しげに細まっている。
私はその言葉を聞いてかつてないほどの安堵に包まれていた。今の私は見捨てられないことがわかったから、それだけで十分だ。
「なまえ……僕のためにこれからも完璧になってくれ。お前の意思も、お前の心も、すべて僕の理想通りに……」
耳元でささやかれる声が、魔法のように私の体を支配していく。
今度、この人に嫌われたら、私は本当に死んでしまう。今度、見捨てられたら、私の心臓は動くのを止めてしまう。心が消えてしまう。だから、だから、もっともっと上手くやらなきゃ。彼に嫌われないように、関心が遠ざかってしまわないように、もっと“良い自分”を作ろう。
彼の理想の姿になって、今度こそ私は“素敵な私”になるのだ。彼が守ってくれる限り、私は生きていけるのだから。
枕元に置いた征十郎さんにそっくりな人形が、冷たいぬくもりを抱く私を見て嗤っていた。