ざあざあと冷たい雨が降っていた。みょうじは、日付をあと一時間で越える深夜、ようやく残業を終えて帰路についていた。傘をさしていてもスーツの肩やズボンの裾が濡れてしまうほど雨足は強い。
(帰ったら速攻、風呂に入って温まろう)
気の利く彼のことだ。きっと自分が雨に濡れて体を冷やして帰るだろうと予想して風呂を温めてくれているはず。そう思うと、ほわりと胸が温かくなり、自然と口元が緩むのがわかった。
(誰かが家で待っていてくれることがこんなに嬉しいとはな――)
彼はどんなにみょうじの帰りが遅くなろうが、いつも食事もとらず起きて待っていた。そして「おかえり、みょうじさん。今日もお疲れ様」と笑みを浮かべて、玄関まで出迎えてくれる。
「ただいま降谷くん。今日もお出迎え、ありがとう」
名前を呼んで返事を返すと、笑みを深めて嬉しそうに目が細まった。差し出された手に鞄を預け、靴を脱いで玄関をあがる。軽く会話を交わしながらリビングに足を向けるのがここ最近の一連の流れだ。
きれいに片付いた部屋に美味しいご飯。世話好きなのか、身の回りのことも細やかにやってくれる。また、かなり博学なようで、その知識の豊富さに驚かされながらも、色々話をするのも聞くのも楽しかった。
本名がわからない、病院に行くのを拒否する怪しげな人間だとわかっているのだが。この楽しくも快適な生活は手放したくないと、みょうじは何時しかそう思うようになってしまった。
それが彼の記憶が戻るまでの期間限定だとわかっていても。
(そういえば、彼を拾ったのもこんな雨の日だったな……)
視界に入り込んだビルとビルの谷間にある黒い空間。ふと思い出したのは、現在みょうじのマンションに居候している『降谷くん』との出会いだった。
何時ものように深夜になるまで残業をこなし、会社の入っているビルから出た。人通りは勿論なく、世界に独り取り残されたような錯覚がした。聞こえてくる、ざあざあと雨が降る音がひどく耳障りだ。
(疲れているな……)
暗く堕ちそうになる気分を振り払い、傘を広げて足早に自宅へと帰路についた。
後、数分で到着するというところで、ふと何かに導かれたかのように、ビルとビルの隙間へと視線を向けた。そして目にしたものに驚き、足を止めた。
闇に隠れるように人ひとり、ぐったりとビルの壁に背中を預け座りこんでいた。
じっと見ていると、うっすらと赤く染まった雨水がそこからか流れて来るのに気がついた。
『!!』
傘を放り投げて側へ駆け寄った。
『大丈夫ですかっ!? 今、救急車を――』
正面に屈みこみ、呼びましょうかとつなげようとしたところでがしりと腕を掴まれた。食い込む指は恐ろしく強く、痛みに眉をしかめた。
俯いていた頭が上がり、青灰色の双眼が警戒するようにみょうじを鋭く見上げた。
まだ、二十代前半ぐらいの若い青年だった。ミルクティーブロンドの髪にブルーグレーの瞳。一瞬、外国人だから日本語がわからないのかと思ったのだが。
『救、急車は、呼ば、な、いで、くだ、さい』
青ざめた唇から漏れたのは切れ切れながらもきれいな日本語だった。
『だが、ひどい怪我だぞ。このままだと――』
『おね、がい、しま、す』
説得しようと言葉を重ねると、更に指の力が強まる。みしりと腕の骨が鳴った。
(なんてバカ力だ。これは痣になるぞ)
わかった、と頷くとほっとしたように眼光が緩み、腕から指が離れた。掴まれたところを擦りながら目の前の人物を見つめた。
頭は再びうつむき、肩で荒く息をついている。布越しに伝わってきた体温はかなり熱かった。
(出血もあるし、このまま放っておくと危ないな。救急車を呼ぶなといっていたから、真っ当な人間じゃなさそうだが――)
このまま見捨てて後日死体で見つかった、などとニュースで知ってしまったら、後味が悪すぎる。
はぁ、ため息をはくと、青年の脇に移動して肩の下に自分の腕を差し込み、体を持ち上げた。体の方も火照るように熱い。
何を、と青灰色の瞳がゆるりとみょうじへ向けられた。
『病院に行けないのならば、俺の自宅に連れていく。このまま放置して死なれたら夢見が悪いからな』
そう応えると、青年の様子をうかがいつつ、ビルの隙間から傷に障らぬよう、慎重な足取りで歩き出た。ぐるりと頭を巡らし、傘を探したが、風にさらわれたらしく見える範囲にはなかった。結構高かったのにな、と内心がっかりしながら足を進める。荒い息をはきながらも懸命に足を動かす青年を励ましながらなんとか自宅マンションへたどり着いた。
玄関に入った途端、気が緩んだのか、青年は意識を失った。いきなり加わった重さに慌てたが、なんとか支えるのに成功した。それからが大変だった。部屋に運び込み、濡れた衣服を脱がして体を拭き、傷の手当てをした。それから着替えさせてベッドに寝かせる。頬は熱で赤くなっている。苦しげな呼吸に、やはり救急車を呼ぶかと考えたが、青年の言葉を思い出して、散々迷った挙げ句に連絡をとったのは開業医をしている友人だった。
友人はみょうじからの連絡に驚き、その事情説明に呆れていたが、真夜中にも関わらす往診に来てくれた。ベッドで眠る青年を診た友人は、みょうじを何か言いたげに見やったが、特に問いただすこともなく薬をおいて帰っていった。
二日後、漸く目を覚ました青年は、自分の名前と過去の記憶を覚えていなかった。
君の名前は『降谷零』。雨の『降る』日にビルの『谷間』で拾ったから、雨が降るの『降』と谷間の『谷』で『降谷』。それから『ゼロ』から始まるから数字の『れい』の『零』。
呼ぶときに名前がないと不便だからとみょうじからつけられた仮の呼称。青年も何故だかしっくりくるとその呼称に承諾した。
目を覚ますと、名前だけでなく、今までのことも全く覚えていなかった。正確には個人的な記憶だけが欠けており、一般常識や日常的なことなどは覚えている。自失から我に返った途端、強い不安感に襲われた。
(俺は誰なんだ……)
自分という存在があやふやに感じられた。それが途轍もなく怖い。かたかたと震え出す体をおさえつけるように布団の中で丸めた。
(これからどうすればいいんだ……)
途方にくれる自分に、様子を見に来たみょうじは記憶を取り戻すまでここで暮らせばよいと提案してくれた。唯一の手がかり、スマホも壊れて役に立たず、しかも現金も持っていなかったので、その言葉に甘えてお世話になることに決めた。
『名前まで忘れたのか……。ないと呼ぶのに困るな。どうするかな……』
暫く考えこんだ後に告げられた名前が『降谷零』だった。
由来には少々思うところはあった。だが、出会った時に因んだものだからかなんだか嬉しいし、妙にしっくりもしたので頷いておいた。
『じゃあ、今から君は『降谷零』くんだ。これからよろしくな、降谷くん』
そう言って差し出された手を握ると、自分よりも大きくそして温かった。
何日間か一緒に過ごしているうちにみょうじのことが少しずつわかってきた。
この部屋の持ち主は少々ずぼらなところがあるようで、脱いだスーツやワイシャツ、靴下などをよくソファーやリビングの隅に脱ぎ散らかしている。それから食生活はあまりよろしくなく、ゴミ箱にはコンビニ弁当やスーパーの惣菜のパッケージが捨ててあり、冷蔵庫の中身は酒やお茶といった飲み物か、ゼリー飲料ぐらいしか入っていなかった。降谷は何度も言い含めたが、一向に改善されなかった。
長年の習慣は中々抜けなくてね、とみょうじはばつが悪そうに頭を掻きながらそう弁明した。
呆れながらも降谷はスーツをハンガーにかけ、ワイシャツと靴下は洗濯機に放り込んだ。それから作っておいた夕飯を温めてテーブルに並べた。
どうやら自分は料理が得意で凝り性だったようだ。乱れたみょうじの食生活を改善しなくてはと謎の使命感に襲われ、毎食バランスのよいメニューを考えて作っている。食材は勿論、降谷が食費を預かり買い出しに行っていた。
あれこれと世話を焼くのは嫌ではない。寧ろ自分がやってあげないとこの人はまともな生活が出来ないのでは、と思い始めていた。
「ありがとう、降谷くん」
みょうじは挨拶や礼を言う時、きちんと降谷と視線を合わせて礼の後に名前を呼んでくれる。
その度に態々呼ぶのは何故か、とみょうじに尋ねたことがあった。それは名前や過去の記憶を忘れてしまって自分の在り方が不安定になっていた降谷のためだと返ってきた。名前や記憶はその人たらしめるものだ。記憶の方はどうすることも出来ないので、せめて名前を言うことで少しでも『自分』という存在を確立してくれればいい、と思ったからだとみょうじが教えてくれた。
何も憶えていないと怯える降谷に、みょうじは名前と居場所を与えてくれた。奈落に落とされる悪夢にうなされた時は側にいてくれた。そして、どんなに遅くなっても毎日自分の所へ帰ってきてくれた。
(ここにいる限り、孤独に震えなくてもいい)
温かく居心地のよいここは、何時までも浸っていたくなるぬるま湯のようだった。
「ただいま、降谷くん」
「おかえりなさい、みょうじさん」
玄関で交わす挨拶。みょうじに名前を呼ばれる度に、ここで暮らす時間が長くなっていくごとに降谷は自分の存在が確かになっていくような感じがした。そして、何時しかみょうじの存在が自分の中で大きくなっていたのに気づく。
(このまま記憶なんて戻らなくてもいい……。大切なものを失うのはもう、嫌だ)
そう思うと、居ても立ってもいられなくて、みょうじに抱きついてしまった。
(僕をずっと側において)
すがるように、請い願うように胸の内で呟いた。ぺたりと胸にくっつけた耳に伝わってくる温もりと穏やかな心音。心地よいそれらにうっとりと瞼を閉じた。
(絶対に離さない。誰にも渡さない。この人は僕だけの人だ)
開かれた青灰色の双眼は暗く鈍い光が浮かんでいた。が、それはすぐに消え、顔を上げた時には、蕩けるような甘い笑みを浮かべていた。
(みょうじさんに『おかえり』って言っていいのは僕だけ。僕だけの役割。誰にも譲らない)
「僕の名前は『降谷零』。僕は雨の『降る』日にビルの『谷間』で拾われた。だから、雨が降るの『降』と谷間の『谷』で『降谷』。そして『ゼロ』から始まるから数字の『れい』の『零』。僕の大切な人につけて貰ったんだ。ふふっ、いい名前でしょ?」
嬉しげに目を細めて自慢するように自己紹介で告げた名前が、奇しくも本名と全く同じだとは知るよしもない。そしてこれから先も。
過去の記憶は、頑丈に、そして意識の奥深くに封印された。