「このハンドクリームお気に入りなんですよ」
彼女は楽しげに目尻を下げて、先輩の掌にクリームをたっぷりとくっつけた。
私は知っている、彼は触れた物がべたつくと言った理由から、油分が多いハンドクリームをあまり好まない。
大きく円やかな黒目にレースの飾りをたっぷりと施した彼女は、艶やかな薄紅色に縁取られた唇を自然な動作で突き出してみせる。先程手洗い場で顔を合わせた時に移ったのだろう、彼女が好んで付けている薔薇の香りのコロンが私からふわりと香る。
以前、「香りが強すぎるものは苦手」だと彼が零していた言葉をじわりと思い出した。彼がどんな物を愛用しているのか、どんな肌触りの物が好きなのか、私は良く知っていた。
先輩の綺麗に切り揃えられた爪がつらりと光る。
気不味い、不快だと思う時はあからさまな嘘を吐いたり、目を伏せて誤魔化す癖がある。極稀に少し棘のあるような言葉を紡ぐ。そんな時は怒っているだけでなく、照れ隠しだったりもする。
グラスを手元に寄せて口に含めば、すっかり落ち着いた炭酸が舌先で気怠げに踊った。彼女は右手を持ち上げると、その桃色の指先で柔らかい栗色の髪を左耳へ流す。
「お店熱いですね、酔ってきちゃった」
小鳥が囀るように小さく笑いながら重心を変える。左半身をすいっと寄せて、そのたわわに実った胸元を控えめに揺らした。
先輩はその機嫌を隠すことなく、その指先をおしぼりで拭った。
「みょうじさん、飲み物のおかわりいる?」
別のテーブルに気を取られていた私は唐突に話を振られて「ええっと」と戸惑ってしまった。別に真正面から見ていた訳ではなく、視界の隅の方で捉えていただけなのだけれど。
「のみもの」
と右隣に居る彼に目を合わせると、甘やかす様な声色でもう一度、何が飲みたい? と問われた。
その分かり易すぎる気遣いに出来損ないの笑顔を見せて、彼が手にするメニューを受け取った。
「気になって仕方ないって顔してるね」
お酒の名前を目でなぞっていると、内緒話をするように小さな声を響かせた。その距離感を少しだけ居心地悪く思いながら「仕方ないって程じゃないよ」と、あの人が居る方向に意識を向ける。その行為を遮るように、隣に居る彼は続けて「僕はウーロン茶にしようかな」と声を上げた。
彼、不二くんは、大学に入ってからよく話すようになった同級生だ。
小学校も中学校も一緒だった割にあまり話す事がなかったけれど、大学でのゼミが偶々一緒だった。彼は同級生の中でも落ち着いていて女友達の間でも人気があり、よく目立っていたから私が知っているのは不思議ではない。だからこそ、彼が私を覚えていた事にはとても驚いた。共通の話題がある為か自然と話すようになって、今では私が大学に入学してから付き合っている先輩との近況を話す程の仲になっていた。人の縁というのは不思議なものだなあと他人事のように思う。
初めて先輩との事を伝えた際、彼は「真面目で良い人だから幸せにしてくれるだろうね」と祝福してくれた。
その言葉に私はつい返事を濁してしまい、不二くんはそれをずっと疑問に思っていたらしい。
更に後日、なし崩しに先輩の浮気癖がバレた時は信じられないといった風に驚いていた。
そりゃそうだよなと思う。先輩は本当に真面目で優しくて、道徳心を絵に描いたような人だったのだから。
そして今、親睦会でその光景を目の当たりにした不二くんに気不味く感じる程に気を遣われる、といった事態に陥っているわけだ。
「別にいいんだよ、これは私のせいでもあるの。不二くんも私に気を使わないで他の人と話して来なよ」
そう言えば不二くんは少しだけ考え込んだ。教授にくらい挨拶しないと、と促すと「それもそうだね」と言って席を立つ。彼が居なくなってから、目の前に置いている焼き鳥と手羽先が一味で埋まっている事に気がついた。これは食べてから行って欲しかったなぁ。興味本位で一口食べて噎せていれば、私の目の前に座っていた同期が心配そうに水を差し出してきた。有り難うと受け取って流し込み、枝豆に手を伸ばす。うん、おいしい。
「ねぇ、それにしてもみょうじさんって、不二くんとすごく仲良いよね」
「う〜ん、仲は良いと思うけど、すごくって程ではないよ。私達小中で一緒だったからそのよしみで優しくしてくれてるんだって」
「へぇ、ちっちゃい頃の不二先輩! どんな子供だったんすか?」
今と同じように優しかったよと答えると、身を乗り出すように続きを催促された。成る程、相変わらず何処にいても話題に上がる程魅力的らしい。
数少ない細やかな思い出話に驚きの盛り上がりを見せる姿を好ましく思う。そして何がどう転じたのかチュパカブラの話題で盛り上がっていた時に、戻ってくる不二くんの姿が見えた。話を中断して意識を向ける。おかえりなさい、と迎え入れれば「抜けるね」と私達だけに聞こえる声量で言い放って側に置いていた私の荷物を手に取った。その突拍子のない言動に思わず間抜けな声を上げて彼の顔を見る。
「ええ! 不二くん帰っちゃうの?」
「うん、ちょっと気分が悪くて。ねぇ、一人で帰るのは不安だからついてきてくれないかな」
私の鞄を持っている時点で私に選択肢はないよなあと思いながら、二つ返事で了承して立ち上がった。軽く挨拶をしてから幹事の先輩にお金を払う為に鞄を受け取ろうと手を伸ばせば、腕をやんわりと掴まれ引っ張られた。
わあ、と色のついた声に背を押されて店を出る。
その声に混じってあの人の焦ったような声も聞こえたけれど、追いかけて来る事はなかった。
「不二くん、参加費は?」
「払ったよ、君の分もね。後で渡してくれればいいよ」
そうは言うけれど払わせるつもりは無いんじゃないかと勘ぐってしまう。今までだって受け取ってくれた試しがないし、彼に現金を渡す自分のイメージがとんと浮かばない。
どうすればいいだろうかと考えて、「もう一軒行こうよ」とその背中に声をかけた。次のお店で私が支払うことになれば、きっと彼も快くとはいかないとしても受け入れてくれるはずだ。
それまで淀みなく進められていた足が止まって、不二くんが振り返った。
余りにも表情がなく何を考えているのかはわからないけれど、私を連れてきたのは何か言いたい事があるからだろう。私のこういった勘はだいたい当たるし、そもそも彼はお茶しか飲んでいなかった筈だった。酔って気持ち悪いって訳じゃないんでしょう、続けてそう言うと、彼は何かを主張するように私の名前を呼んだ。
「こういった事に口出しするのは余り好きじゃないんだけど、あの先輩と一緒に居るのは考え直した方がいいんじゃないかな」
「……急だね。どうして?」
「あの人は君の価値を下げる言動をしてる。態と傷つけようとしてみせたり、みょうじさんの気持ちさえ蔑ろに扱うような人だ。そんな人に君の時間を割く必要はないよ」
「不二くん、あの人と話したんだ。」
「……彼が君の事をどんな風に言ってるか、知っているの?」
「何でも許してくれるって、心底自分に惚れてるって、そう言ってた?」
きっとその上で、私が彼に許して来た色んな物事の話を聞いたんだろう。あれはあの人にとって惚気のようなものだった。
「いつもの事なんだ、ごめんね」
と謝れば彼は少しだけ黙って、君が謝ることじゃないと呟いた。
そうは言っても、その要因は私との事だろうから謝らずにはいられない。そういった事を伝えれば、私達を取り巻く空気がスッと冷えた気がした。
「あの人がああなったのは私の所為でもあるから。最初からあんな風じゃなかったの」
「確かに、彼を変えたきっかけは君の言動だったのかもしれない。でもそれを選んだのは彼自身だ。みょうじさんが責任を感じる事なんてなにもないよ」
「不二くん、もしかして怒ってる?」
「……ごめんね、君が心配なんだ」
そう言って目を伏せた彼に「優しいね」と不謹慎にも笑ってしまった。
改めて人の縁というものは不思議だなあとも思う。
だって、彼の感情が動く程の何かが私の人生に起こる事も、彼の人生がこんな形で私に関わる事も、想像した事がなかったから。
「大丈夫だよ。あの人が私を必要としてくれる限り私は側にいるって決めてるの。それは私が選んだ事だし、その所為で何かが起こっても自業自得かなって」
「君の心が壊れてしまうかもしれないのに?」
「壊れるって、大袈裟だなぁ」
「それでも良いって思う程に彼の事が好きなんだね」
私が抱いているこの気持ちはそれでも良いというよりも、仕方がないと言ってしまった方が正しいような気もするけれど。
ただ私を見据えて言葉を紡ぐ彼に充てられて居た堪れない気持ちになる。二人分の靴先を確認した所で自分が目線を落としている事に気が付いて、その格好のつかなさが情けなくて笑ってしまった。
「好きって気持ちほどままならないものって無いよね、嫌になるや」
私は随分と前から、諦めを伴ったこの感情を扱い損ねている。
私の興味を引こうと行われていた先輩の浮気は、私への関心さえ薄れさせて行くものだったように思う。
そもそもの話、どこからを浮気とするのかなんて定かじゃない。
裏切られたという曖昧な感覚を頼りにしていると言うのなら、私はあの人の行為を裏切りだと感じる事が出来なかった。蔑ろにされたという覚えはある。けれど、私を必要としてくれた先輩がそれを望むのならそれでいいと心から思っていた。
自分の価値の在り方さえ決められない私に「私だけ見てほしい」なんて可愛らしい嫉妬、できっこなかったんだ。
そうして先輩は、私のその言動を愛から来るものだと謳った。自分達は心底愛し合い信頼し合っているからこそ許し合うのだと。
好きだという感情すらままならない私には、その関係すら心許ないものだったというのに。
「ねぇ、いっそのこと僕と浮気しようか」
不二くんが発した言葉の軽率そうな響きは驚くほど彼に似合わなかった。思わず顔を上げれば、不釣り合いに真剣な表情がそこにあった。酷い冗談だと笑ってみせる。彼は手入れの行き届いた滑らかな指先で私の手に触れた。割れ物を扱うような優しい手付きが擽ったい。
「不二くんってプレイボーイだったの?」
「みょうじさんの心の拠り所になれるなら、それでもいいよ」
貴方の価値を傷つける事になるかもしれないよと自嘲気味に言えば静かな笑い声をひとつ零して「そうなったら自業自得だ」と言ってみせた。初めて触れた彼の手に、想像していたよりもずっと男の人の手をしているという事を知った。
彼の向こう側にある煌めきが目に焼き付くようで、不二くんにはネオン街よりも星空が似合いそうだとぼんやりと思う。
思い返せば先輩は、彼に少しずつ似ていたんだ。
無条件な優しさだとか、言葉尻の声の響きだとか、ふとした瞬間の表情だとか。
偶然にも彼と関わるようになり、言葉を交わす度に、それまで心を掠めていた違和感が奇妙な程に浮き彫りになった。
そしていたく自覚してしまった。
私を必要としてくれたあの人を好きになりたいという勝手な願いも、あの人が望むような人間になろうと足掻く私も、これから先報われる事はないのだろう。
「私の心が拠る所ははじめから貴方だった」と。
それを伝えずに彼に手を引かれる私は、ずるい人間だ。