――逃げ場はもうあの世しかないようだ。じゃあな、零
一通のメールが送信された。
国際的犯罪組織――通称『黒の組織』。公安警察から諸伏景光と幼馴染み兼警察学校同期の降谷零の二人が潜入していた。
二人とも順調に幹部まで登り詰め、コードネームもちになったまではよかったが、突然、諸伏が組織側にNOCだとばれてしまった。幹部全員に通達されて、追手をかけられてしまった諸伏は、情報の塊である携帯を持って直ぐ様逃亡を図った。
(彼奴までバレる訳にはいかない!)
このまま捕まると、一緒に潜入している幼馴染みだけではなく、古巣にまで被害が及んでしまう。
そう考えた諸伏はとある廃ビルに走り込んだ。
階段を駆け上がり、屋上へ続く扉開けた瞬間、思いもよらない光景が視界に飛び込んできた。一人の女性が壁を乗り越え、今にも飛び降りようとしていた。中々衝撃的なものを目の当たりにしてして、諸伏は自分の置かれている状況が頭から消し飛んでしまった。
「死んでは駄目だ!」
全速で駆け寄りながら思わず大声で叫んでしまった。その声に驚いた女性は、びくりと体を震わせ諸伏の方を振り向いた。次の瞬間、バランスを大きく崩し、ビルの外へと体が傾ぐ。
「危ないっ!」
咄嗟に諸伏が腕を伸ばすと、女性も同じ様に伸ばしてきた。間一髪、手首を掴んだまではよかった。しかし、ビルの外へと倒れる勢いは殺せず、諸伏は女性に引っ張られて空中へ放り出されてしまった。
諸伏は掴んだ手首を引いて女性を抱き込み、体勢を入れかえた。
(すまない、ゼロ……迷惑をかける……)
このままだと携帯はほぼ無傷で回収されてしまう。どうにか機転をきかせて逃げ切ってもらいたい、そう願った。そして、せめて最期にこの女性だけでも助けたいとぐっと腕に力を込めて強く思った。すると突然、酔っぱらったように頭の芯がくらり揺れた。思わず手で目を覆う。
「!?」
その指がうっすらと透けてきているのに気づいた。どういうことだと驚いていると、強い目眩が襲ってきて意識が白く染まった。
「スコッチ!!」
諸伏を追って屋上へやって来た男は、女性を抱え込み、ビルから落ちていく同僚を茫然と見下ろしていたが、突然その姿が消えた。驚きに目を見張ったが、直ぐ確認のために急いで下りていく。落下地点にたどり着いたが、そこにあるはずの同僚の遺体はなかった。
――なまえ
――ママ
何よりも大切で愛おしい家族だった。それが一瞬に全て失ってしまうことになるとは夢にも思わなかった。二人の四十九日を終え、一段落がつくと、なまえは虚無感に襲われた。ふらりと家を出たところまでしか覚えていない。気づいたら、どこかのビルの屋上で身投げをしようとしていた。
「危ないっ!」
一人の青年が飛び込んできてこちらに腕を伸ばしてきた。その声に驚き、バランスを崩したなまえもまた、青年に腕を伸ばして手首を掴まれた。しかし、外へ向かう勢いは止まらず、青年諸ともに空中へ投げ出されてしまった。抱き込まれ、力強い腕と伝わってくる温もりに夫を思いだし、堪らなくなった。
(あの日、買い出しを頼まなかったならば)
後悔に胸が痛む。
(あの日をもう一度やり直したい。またあの人とあの子と生きていきたい)
薄れゆく意識の中、切にそう願った。
諸伏となまえが気がついた所は、小さな公園だった。確かにビルの屋上から落ちたはずなのだが、いつの間にか無傷でここにいる。疑問は尽きないが、二人は取り敢えず互いに自己紹介をして、それぞれの事情を話した。
諸伏の方は組織のことなど話せるはずもなく、たまたま迷いこんだと適当に誤魔化しておいた。
「ここは私の家の近くの公園です」
諸伏は知らない場所だったが、なまえにとっては子どもをよく遊ばせに来る、見知った所だった。
「……日付が戻っている」
諸伏が携帯で日付と時間を確かめるためディスプレイを見ると、日付がNOCばれした日から遡っていた。
「えっ? 日付が戻っているんですか? 何日の何時になってます?」
それを聞いた途端、なまえが焦ったように訊ねてきた。諸伏が日付と時間を伝えると、なまえはその場に崩れ落ちた。
「これで……これであの人とあの子を助けられる」
歓喜に声が震えている。
事故で亡くした夫と一人娘。諸伏が伝えた日は事故のあった当日で、時間はその前のものだったのだ。
「早く行かなくちゃ。あの人とあの子を止めないと」
よろよろ立ち上がり、公園から出ていこうとした。
「待って。俺も手伝うよ」
そう申し出た諸伏に、なまえは始めは初対面の人に迷惑をかけたくないと断った。が、諸伏の説得により、漸く承諾した。
「時間が大丈夫なら、メールを一通送りたいんだけど」
諸伏がそう言うと、時間は大丈夫だと返ってきた。メール作成画面を開き、文字を打ち込む。
――警察内に組織と繋がっている奴がいるかもしれない。俺は今動けないからゼロに調べて欲しい。
そう打つと、送信ボタンを押した。
(これは賭けだ)
メールが送信されるのを見ながら心の中で呟く。
ヘマした覚えがないのに突然NOCばれした原因はよく分からない。一番の可能性として――本当はあっては欲しくないが――身内からのリークが考えられる。
予想が当たり、内通者がいたら勝ち。
はずれていなければ負け。
自分が気づかない所でこれからやらかすのかもしれない。
(警察官としてはいないで欲しいが、俺としては原因がはっきりして欲しい)
諸伏は何とも複雑な気持ちになった。
「どうかしましたか?」
携帯を握りしめたまま、黙りこむ諸伏に、なまえが声をかけてきた。
それに諸伏は、はっと我に返り、何でもないと応えた。
「待たせたな。さぁ、二人を助けに行こう」
「はいっ。現場に案内しますっ」
これからやろうとしていることに緊張しているのか、なまえは少し裏返った声で言った。諸伏は自分のひっくり返った声に赤くなったなまえにくすりと笑うと、落ち着かせるように背中を軽くぽんぽんと叩いた。
「――すみません、ちょっといいですか?」
なまえから聞き出した事故現場から手前の場所で、諸伏は一組の親子に声をかけた。
(こういうのはゼロが得意なんだけど)
内心そう思いながら、立ちどまった彼らに、人好きのする笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「最寄りの駅の場所を教えてくれませんか?」
父親は見知らぬ男からのお願いに、嫌な顔をせずに駅名と道順を快く教えてくれた。
「ありがとうございました」
「いいえ、お役にたてて良かったです」
そう言葉を交わす二人の脇をもうスピードのトラックが通りすぎていった。それ車道からはみ出し、歩道を突っ切りそのまま店に突っ込んでいった。 大きな衝撃音に、子どもは驚き、父親にしがみついた。大人二人もトラックを凝視したまま動かなかった。
最初に我に返ったのは諸伏で、視界の端になまえがこちらに走ってくるのが入ったからだ。
「すみません、急ぐので失礼します!」
そう言い残してなまえの元へ走りよった。腕を引き、物陰に隠れる。二人に見つかるとややこしくなるから、隠れているように言い含めていたが、心配になって飛び出してきてしまったようだ。その気持ちは分かるので、責めることはしなかった。
「……すみません、心配で思わず……」
なまえは身を縮めて言った。諸伏は宥めるように頭を撫でた。
「気持ちはよく分かるよ。大丈夫、二人とも無事だ」
くしゃくしゃと髪をかき混ぜて言った。なまえは涙を滲ませ嬉しそうに顔を綻ばせると、ありがとうございます、と礼を言った。
(これで目的は達成した。後は元の時間軸に戻るだけだが……ん?)
どうやれば戻れるのかと考えていると、指が透けているのに気づいた。
なまえの手を見ると、彼女の指は透けておらず、ある予感を感じながら諸伏はそっとその手を握った。すると、彼女の手もまた透けだした。
「元の所へ還るようだ」
透けていく体を見ながら諸伏が言った。
「みたいですね。本当にお世話になりました」
なまえは深々と頭を下げて言った。諸伏はよかったなと笑みを浮かべて言った。
やがて二人は陽炎のように揺らめき消え去った。
意識を取り戻した諸伏の視界に入ったのは、白い天井だった。ぐるりと視線を辺りに巡らすと、内装からここが組織で用意された部屋だと分かった。
ドアの開く音がして、幼馴染みが顔を覗かせた。諸伏が起きているのに気づくと、足早にベッドサイドに近づいてきた。
「目が覚めたみたいでよかったです。気分はどうですか?」
心配そうに眉をひそめて諸伏の顔をじっと見つめた。
「気分は悪くない」
その言葉に幼馴染みはほっとしたように表情がを緩めた。
どうやら元の時間軸にもどってきたようだった。だが、諸伏には現状がさっぱり分からなかった。内心が顔に出ていたのか、幼馴染みは再び眉をひそめた。
「……覚えていないんですか? 貴方、任務中に倒れたんですよ」
「えっ? そうだったのか?」
諸伏は目を見開いて驚きの声をあげた。手を顎に添えて記憶を探ってみる。すると、脳裏にその様子が浮かびあがってきた。しかし、それはまるで映画を見ているような感じで、実感はない。
「うーん、迷惑かけたようだな、悪かったな、バーボン」
「顔色が悪かったので、寝不足からくる貧血でしょうね。丸一日寝てましたし」
ここのところ忙しかったですからね、とバーボンは重い息を吐きながら言った。その顔も疲労が濃くでており、目元にはよく見ると、隅ができていた。
「――ひとつ、報告がある」
バーボンは口調を本来の自分、降谷のものに変えて言った。まとう空気が硬質なものになる。
「お前から送られてきたメールを元に調べさせたら、警視庁の公安捜査官が組織と繋がっていたことが発覚した。ヒロの情報を組織側に流す前に拘束したから、NOCばれはないとは思う。が、油断はするなよ」
賭けに勝って未来を変えられたことに安堵して気を緩めた諸伏に、降谷は釘を指した。
分かったとホールドアップすると、諸伏は降谷に、
「現実主義なゼロには信じがたいと思うが」
と前置きすると、自分の身に起きたファンタジーな出来事を話した。
本来ならば、組織側にNOCばれしていて、情報漏れを防ぐために自決するつもりだったと言うと、降谷は凶悪な表情になった。おそらく、内通した捜査官のことを思い浮かべたのだろう。潔癖な一面を持つ幼馴染みは、裏切りと不正は絶対に許さない。きっと容赦ない処分を下すだろう。
他人事ながらも、諸伏は降谷の怒気に体が震えた。
ところで、と空気を変えるように努めて明るい声で切り出した。
「ひとつ頼みごとがあるんだが」
「何だ?」
降谷の問いに、諸伏は頼み事を話した。自分と一緒に過去に跳んだみょうじなまえという女性の現状を知りたいと。あの時、確かに暴走車から父娘を助けた。こうやって自分は回避したが、彼女もそうだとは限らない。もしかしたら、あの後違う事故、または事件に遭遇したかもしれない。そう想像すると、居てもたってもいられない気持ちになる。だから、頼むと頭を下げた。
黙って諸伏を見つめ、話を聞いていた降谷はひとつ息をついてから了承した。
「サンキュー、ゼロ」
諸伏は笑みを浮かべて礼を言った。彼女も運命を変えられていますようにと胸の内で祈った。
一週間後、諸伏は軽く変装してとある一軒家の側にやって来ていた。降谷が調べ出してくれたみょうじなまえの住んでいるという家である。
電柱に凭れて眺めていると、門から賑やかな声と共になまえが出てきた。その右手は小さな女の子と繋がられている。少し遅れて旦那らしき男性が大きな荷物を持って来た。
全て失ってしまったと、嘆いていた彼女は、大切なものを無事取り戻せたようだ。安堵に胸が一杯になり、思わず目頭が熱くなった。
諸伏の視線に気づいたのか、なまえがこちらを振り向いた。始めは訝しげな表情だったが、誰だか分かったようで、笑みを浮かべてペコリと頭を下げてきた。それから、それを見た男性に何か聞かれて答えていた。やがて、男性は諸伏を真っ直ぐに見つめ、深々と頭を下げた。諸伏もまた、それに返した。幸せそうな様子を確認し、目的が達成されたのでその場を離れた。
(過去への時間遡行。夢のような能力を使ったのは恐らく自分だろう)
過去から戻る時の状況を思い浮かべる。
(ならば、もう一度過去に戻り、失われてしまった友を助けたい。もう一人の友の為にも)
そう強く思った瞬間、頭の芯がくらり揺れた。思わずブロック壁に手をつく。その指先がうっすらと透けているのに気づいた諸伏は歓喜に震えた。