念力

 目が覚めたら超能力者になっていた。
 何度使いまわされたかわからない言葉だが、今の私の状態を説明するには適切な言葉だった。
 頭から水を滴らせながら、私は茫然と木製の床に座り込んでいた。傍らにはつい数分前までコップだったガラスが散乱している。
 ドルキマス空軍が補給を終え、悠々と空を進軍している時のことだった。副官補佐である私は、朝、目が覚めると喉の渇きを覚えていた。机の上の水がめにまだ飲料水が残っていたが、寝起き後の独特の倦怠感により、飲みたいと思いながらも起き上がれずにいた。昨夜の仕事の疲れがとり切れていなかった私は、妙なテンションで『水がめからこっちに来ればいいのに』と考えてしまった。自分でもばかばかしいと思い、ふっと鼻で笑った瞬間、最初の異常が発生した。
 目を閉じて二度寝との誘惑に戦っていると、突然頭上から冷たい液体が降ってきたのだ。眠気と疲労が一瞬にして吹き飛んだわ私は、枕の下に置いてあった拳銃を手に取り、素早く構える。だが、周りには誰もいない。狭い室内には空中に浮いた水がめだけだった。水がめが宙に浮いている時点で異常だが、その時の私は敵襲かと思い、侵入者の気配を探そうとしていた。
 だが、静まり返った部屋を見回しても人の姿は見つからない。ふっと肩の力を抜いた時、第二の異変に気付いた。空中に浮いた水がめを見た私は、驚きのあまりベッドから転げ落ちた。盛大に体を強打したはずみにサイドテーブルが倒れ、コップが割れる。ワンテンポ遅れて、水がめも糸が切れたように落下し砕け散った。中に入っていたはずの水が飛び散らないのを見て、私の戦場で培った勘がひとつの憶測を立てていく。
 私は床にへたり込んだまま、先ほどまで頭を伏せていた枕を見つめる。
 ――枕よ、上がれ。
 そう念じた瞬間、何をしているんだと羞恥で消えたくなる。だが、すさまじいスピードで浮かび、天井に衝突して力なく墜落した枕を見たとたんに、私は自分の身に起こったことを認めざるを得なかった。
 そして、冒頭の言葉へと戻る。

「なまえさん、大丈夫ですか?」

 ぼんやりとしていると、コンコンと扉がノックされた。ベッドから落ち、テーブルを倒し、コップと水がめを割ったのだ。朝っぱらから物騒な物音をたてていれば、誰か心配してやってくるだろう。

「だ、大丈夫です。ちょっとベッドから落ちちゃって」
「あはは、自分も今日落ちそうになりましたよ」

 扉の向こうにいる相手は明るく笑うと、事態を把握して安心したのか遠ざかっていった。
 今頃になって寒気を感じた私はクシャミを一つすると、髪を拭き、寝間着から軍服に着替える。
 なぜこうなってしまったのかはわからないが、とにかくこのことは誰にも知られないようにしないといけない。戦争大好き開発官のレベッカさんにばれたら、間違いなく戦争用の研究対象になってしまう。
 それに、ベルク元帥は魔法の類がお好きではないのだ。私のこれが魔法なのかは定かではない。だが、自分の力のみを信じ、並外れた努力で今のドルキマス軍を築き上げた彼にとって、私のこの突発的な能力は好ましいものではないだろう。
 別に嫌悪されるのはいい。だが、利用できるものはすべて利用するを信条としている元帥がこのことを知り、なおかつ科学の発展のために戦争を推奨しているレベッカさんの耳にまで入ったら、私は人としての人生を諦めざるを得ないだろう。絶対に隠し通さなければ。
 そう決意を固め、私は大きく深呼吸をした。

 *

 ばれないように隠し通す――とは言っても、自分の力がどの程度まで周りに影響を与えるのかは知っておかなければならない。自分がコントロールできる範囲を理解しなければ、隠すのに必要以上の労力を注いでしまうだろう。
 幸い、今日の仕事は目立たない細かい雑用だったため、ちょっと手を抜いても問題なかった。軍の資料室で、書類や書物の整理をすることになった私は、誰もいない資料室でこっそりと能力のテストを行っていた。
 朝、突然に能力を得て、さっそくそれを試す自分の適応力の高さに呆れてしまうが、それが私の最大の長所でもあった。兵士としての戦闘能力は並だが、不測の事態や予測できない状況において、最適な方法を導き出せる臨機応変さは、元帥閣下直々にお褒めをいただいたものだ。ここしばらく、外部の問題も予想の範囲内で、内部も平和だったからすっかり自分の長所を忘れるところだった。
 複数のテストを行ってみてわかったことがある。一つは対象を念じることによって触れなくても動かすことができるが、長距離は無理だということ。15メートルほどが限界だ。
 二つ目は対象を自分の視界内に入れなければいけないということ。視界からはずれた瞬間に効果が切れてしまう。
 三つ目はできる限り平常心で念じないと、コントロールを失ってしまう。
 これらの大まかなルールに加え、自分を動かすことはできないこともわかった。ただ、それが生物を動かせないという意味なのか、それとも自分だけなのかは定かではない。

「……迷惑すぎる」

 できるだけ無心になりながら、分厚い書物を棚に入れる。実験のほとんどは本で試したが、思ったよりも自由な能力ではないらしい。こうなってしまった心当たりがない以上、いつまでこの能力と付き合い続けなければいけないのかもわからない。能力を保持している期間が長くなればなるほど、ばれる危険も高くなるのだ。
 とりあえず、練習も兼ねて手のひらの上で小型の辞書を浮かべることにする。手のひらに載せた辞書をじっと見つめ、『五センチほど上にゆっくりと上がって、そのまま静止しろ』と念じる。ふわりと浮かび上がり、念じた通りに動きを止めた本に小さくほほ笑んだ。この程度ならさほど大きな影響もないし、かわいいものだ。
 あとは冷静さを失わないように思考を制御できれば、この能力の不安定さはそれなりに解消されるだろう。

「なまえ、終わりましたか?」
「うひゃぃっ!?」

 突然、入口から聞こえてきた副官の声に飛び上がる。コントロールを失った辞書は私の額にぶつかると、地面に力なく落ちた。痛みにうずくまり、声にならないうめき声を出していると、頭上から呆れ声が降りかかった。

「……何をしているんですか」
「す、すみません。ちょっと本棚に頭を……」
「気を付けてください」

 よろよろと立ち上がり、腕組みをしている副官にごまかし笑いを向ける。副官は私の背後にある積み重ねられた本の山を見て、「……まだ時間がかかるようですね」とつぶやいた。

「珍しいですね。あなたにしては随分と時間がかかっているようですが」

 首をかしげて本の山を見る副官に、私はひやりと冷たい汗が流れるのを感じた。こそこそと能力実験をしていたのだから、終わっていないに決まってる。

「手伝いましょうか?」
「い、いえ。副官の手を煩わせるわけには……」
「そうですか。とりあえず、ひとりでするにしろ私が手伝うにしろ、一度手を止めてください。元帥閣下があなたとお茶をしたいと仰っています」
「……え?」

 閣下が、私と、お茶を。
 まったく繋げることのできない三つの単語が、脳内をぐるぐると回る。なぜ、どうして、理由がわからない。
 完全に思考停止した私の前で、副官が困り顔になっている。

「閣下がなぜそう仰ったのかはわかりませんが……とにかく、もう準備はできていますので行きましょう」
「……わかり、ました。すぐ参ります」

 真っ白な頭のまま何とか返事をする。副官が私の手から本を取り、本の山の頂上に置いた。整理は後回しにするしかないようだ。

 *

「ふむ、来たか」

 執務室に向かうと、閣下が薄く笑いながら自分の椅子に座っていた。デスクに両肘をつき、手のひらを組んでいる元帥の目はこれからお茶をする人間とは思えない。どちらかというと尋問タイムが始まりそうだ。
 緊張を隠すように一礼すると、対面の一人用ソファーに座るよう促されたので、おとなしくそれに従う。

「はーい、紅茶と苺タルトでーす。いい茶葉が手に入ったんですよー」

 緊迫した空気をとろりと溶かすような声と一緒に、従兵のエルナさんがティーワゴンを押してきた。二人分の紅茶からは香しいかおりが振りまかれ、タルトには宝石のようにつぶのそろった苺が所狭しと載せられている。
 普段あまりお目にかかれない高級品に、閣下の目の前だということも忘れ、じっと紅茶とタルトを見つめてしまった。

「ふふ、そんなに見つめなくても逃げたりしませんよ〜」
「えっ、そ、そそそそういうわけでは!」

 エルナさんにふわりと笑われ、ぱっと赤面してしまう。閣下の方を見るが、表情は先ほどから何一つ変わっていなかった。呼吸を落ち着かせ、目の前に置かれた紅茶とタルトと閣下を順番に見る。

「……い、いただいてもよいのですか?」
「無論。遠慮はいらん」

 あっさりと返した閣下は、ティーカップの取っ手に指をかけ、口元へと運ぶ。優美なしぐさで中の液体を口にした元帥は、エルナさんに深い笑みを向けた。

「これは確かに良い茶葉を使っているようだな」
「でしょう? あ、ローヴィさんの分もありますからあとでどうぞ!」
「は、はい。ありがとうございます」

 閣下の後方に控えていた副官は、突然自分に話を振られたからか、瞳を左右にさまよわせた。
 私も紅茶を口にするが、香りのみならず味にも深みのあるそれに言葉を失う。紅茶は何度か飲んだことがあるが、今まで飲んだものとは比べ物にならないほどの質の高さだ。
 ぱちくりと目を丸くしている私を、閣下が面白おかしそうに見ている。温かい紅茶を飲んだせいなのか、心が先ほどよりほぐれた気がした。何となく照れくさくなり、はにかみながらカップをソーサーに戻す。

「貴官は紅茶を飲んだことはないのかね?」
「いえ、軍に志願する前に母が入れてくれたことがあり、何度か口にしました。しかし、どれも庶民に向けたものでしたので、ここまで素晴らしい紅茶ははじめてです」
「ならば、あとでエルナから茶葉を分けてもらい、家族のもとに届けるといい」
「それは、その……」

 天変地異が起こりそうなほど普通ならあり得ない閣下の好意に反応するよりも、“家族”という単語にふっと表情が曇った。すぐに私の表情の意味を悟った閣下が口を閉ざす。代わりにエルナさんが口を開く。

「なまえさんのご家族はどこにいらっしゃるんですか?」
「両親とも他界しています。父は私が幼少の頃、戦争に巻き込まれて。母は昨年、病で……身内と呼べる者は両親しかいないので今はひとりです」
「そうだったんですか……」

 ドルキマス軍にいる兵士たちの中には、どこかで家族や友人といった親しい者を失っている。別に珍しいことではないし、私も割り切ってはいるが、改めて口にすると暗いさびしさが胸中を満たす。

「申し訳ございません」
「その謝罪の意味はなんだ」
「このような陰鬱な話をして、閣下のご気分を損なってしまい……」
「別にひとことも貴官の話を嫌ったとは言っていないが」
 
 淡々とした言葉だが、確かにこちらを責める色は含まれていない。

「そうですよ! 元帥閣下はなまえさんのそういう個人的な話を聞きたいと思っているんですから」
「え?」
「否定はせんよ」

 再び紅茶に口をつけた元帥閣下を、じっと見つめてしまう。私の軍人としての能力に興味があるのはわかる。だが、個人的な話に関心を向けるとはどういう風の吹き回しなのだろうか。身近にいる人間の弱みでも握るためなのか?

「閣下。紅茶のおかわりはどうされますか?」
「ああ、もらおう」

 悶々と考え込む私の視界の隅で、エルナさんが元帥のカップを手に取る。その時だった。
 エルナさんの足がティーワゴンの車輪に引っかかり、小柄な体が前のめりになる。彼女の指先からカップが放り出され、決して安物ではないカップが宙を舞った。
 鍛え上げられた私の動体視力がその光景を目に収めた時、手より思考が先立った。
――落ちないで!
 コンマ一秒にも満たない短い時間。だが、宙に浮いてそのまま硬直したカップを見て、脳内が真っ白になる。慌ててカップを手に取り、まるであたかも最初から手で受け止めたかのように振る舞おうとするが、顔を上げることができなかった。激しい後悔に襲われ、心臓がぎりぎりと締め付けられる。
 やってしまった。この狭い室内に三人もいるのに、なんてことをしてしまったんだ。

「どうかしましたか、なまえ」
「え、あ、あの、その」
「顔色が悪いですよ」

 副官に声をかけられ、恐る恐る顔を上げた。彼女はいぶかしげに眉をひそめている。もしかして、見られていなかったのか?
 エルナさんの方をちらりと見る。彼女はパチパチと目をまばたかせて首をかしげていた。自分が今見た光景を不思議がっている様に、私は彼女がそれ以上思考を進めないようにカップを勢いよく差し出した。

「あの、エルナさん。これ、どうぞ」
「え? あ、はい。ありがとうございます……?」

 私から受け取ったカップを両手に持ち、エルナさんはきょとんとしている。だが、先ほど見た光景を目の錯覚だと処理したのか、すぐにいつもの村娘のように親しみのある笑顔に戻った。ほっと安堵し、肩の力が抜けていく。
 だが、最後に元帥の方を見た瞬間、先ほどの緊張とは比にならないほどの戦慄が走った。

「あ……ぅ……」

 喉が急速に乾き、呼吸とまばたきの仕方を忘れる。震えることさえ許されない威圧感に、私は意識を失いそうだった。
 閣下は静かに私を見ていた。睨むわけでもない、驚愕しているわけでもない。なんの感情もなく、ただシンプルに私を見つめ続けている。それだというのに、戦場の最前線に立った時よりおぞましい恐怖と緊迫が、私の血管を血の代わりに流れ始める。
 一瞬のことで閣下もよくわからなかっただろう。なんていう考えが甘かったことを痛感する。捕食者と研究者の両方を合わせたような冷酷な瞳は、私の心に徹底的な動揺を与えこむ。
 彼を直視できず、自分のひざを見つめてしまうが、重圧が消えることはない。

「なまえさん……?」

 うつむいたままピクリともしない私に、エルナさんが不安げに声をかけてきた。何か返事をしなければ、もっと不安にさせてしまう。いや、もしかしたら先ほどの光景が目の錯覚ではないと疑われてしまうかもしれない。
 副官も口を開こうとしているが、元帥閣下が何も言わないという違和感に気付き、言葉に迷っている様子を感じる。

「――なまえ」
「ひっ、せ、整理が終わっていないので! し、失礼します!」

 つ、と頬を汗が滑り落ちたと同時に、閣下が私の名前を呼ぶ。はじかれたように立ち上がった私は、彼の顔を見ることもなく部屋から飛び出した。資料室にかけこみ、頬を流れる汗をぬぐう。
 ふらりと棚に背中を預けた私は、先ほどの閣下の目を思い出し、こめかみに指をあてた。あの人の何が恐ろしいって、私にだけ威圧を与えていたのだ。副官とエルナさんに気付かれないように。人の姿をした悪魔だろうか。
 深呼吸をし、できるだけ冷静になろうとする。すでにミスを犯しているのだ。これ以上の失敗は命にかかわりかねない。
 まず、元帥閣下に尋問されるのは間違いない。洞察力の高いあの方のことだ。私が隠そうとすればするほど、それを逆手にとって吐き出そうとされるだろう。隠せば不利になるのなら、こちらから話したほうがましだろう。

「なまえ、ここにいたか」
「げ、元帥閣下!」

 地を這うように低い声と共に、閣下が資料室へと入ってくる。パッと背筋を伸ばした私は入口の方を見て硬直した。
 長身痩躯の彼は静かに私を見ていたが、その視線に加わっている威圧感は消えておらず泣きたくなる。

「なぜ逃げる」
「そ、それはその」

 閣下が一歩こちらに近づくたびに、私の足も一歩下がる。さっきのことを切り出さなければいけないが、何から口にすればいいのだろう。話術にたけているわけではないのに、この危機的状況を乗り切らなければいけないのはきつすぎる。相手が元帥でなければ、物理的に押しのけられたのに。

「か、閣下」
「なんだ」
「あの、できれば近づくのをやめてくださると……」
「距離があったら貴官から話を聞くのに不都合だろう?」

 そう言った閣下が笑うが、目は無感情だ。もしかしなくても怒っているのだろうか。美しい人が怒ると、刃物のように恐ろしいと誰かが言っていたが、まさにその通りだ。
 後ろに下がりすぎたせいで、背中に本棚があたる。もう逃げ場がない。元帥閣下がさらにゆっくりと足を進めてくる。万事休す。
――もっと彼が離れればいいのに。
 そう思った瞬間、本日二度目の後悔に襲われる。3歩ほど前に立っていた閣下の体が浮かび上がったかと思うと、そのまま反対側の壁にたたきつけられたのだ。

「……っ!?」

 突然のことに受け身がとれなかった彼の唇から、小さなうめき声があがる。頭を強く打ってめまいでもするのか、なかなか立ち上がらない閣下。真っ青になった私の前で、彼のかたわらの机に山積みにされた本が衝撃で傾く。
 十数冊の分厚い本が閣下の頭上に降りかかる瞬間を想像した私は、ぞっとして揺れる本に指示を出そうとする。だが、先ほど元帥を吹き飛ばしてしまった光景が脳裏をよぎり、なけなしの理性がそれを踏みとどめさせた。
 真っ先に思いついた方法をやめた今、私にできることは身を挺して閣下をお守りすることだけだった。

「閣下!」

 地面を蹴り、一気に元帥のもとへ駆け寄った私は、その勢いをゆるめずに彼の頭を胸元に引き寄せた。勢い余って床に伏せた私の背中と頭に、本が容赦なく注がれる。痛いが仕方ない。こうなったのも、もとはと言えば私のドジのせいだ。
 早く閣下の容態を確認しなければ――そう思うが、痛みで脳と体が麻痺しそうだ。目を閉じて痛みが和らぐまで動かないでいると、ぱたぱたと足音と扉が開く音がした。まずい。

「なまえさん、閣下、大丈夫ですか!? すごく大きな音がし、ま……」

 エルナさんの声だ。まだぼんやりとする頭を上げ、扉の方を見る。本日三度目の後悔。現実は直視すべきものだが、時には逃避も大事だと主張したい。
 扉を開け放ち棒立ちになっているエルナさんは、ぽかんと口と目を大きく開けていた。そりゃそんな反応にもなる。誰がどう見ても私が閣下を押し倒しているのだから。
 痛みが一瞬にして消えた私はその場に凍り付く。気まずい沈黙が流れ、このまま溶けてなくなってしまいたい。

「……えっと、ごゆっくりどうぞ〜」

 最初に動いたのはエルナさんだった。小声でそう言った彼女は、そっと扉を閉めて出ていく。私が状況を説明する暇もないほど動きに無駄がなかった。

「シェンク従兵、今の音は?」
「えーと、物を落としちゃったみたいです!」
「元帥となまえは資料室にいるのでは? 私、見てきます」
「だ、大丈夫ですよ! 怪我はされていないようでしたし、ちょっと二人きりにしたほうがいいと思います!」
「? そうですか。あなたがそう言うのなら……」

 扉の向こうでエルナさんの含みのこもった声と、副官のハテナまみれの声がゆっくりと遠ざかっていく。……あとでエルナさんに食事をおごらないといけないな。
 ふぅ、と安堵の息をはいた私は、自分の置かれている状況を少しばかり忘れてしまっていた。

「……貴官はいつまでこうしているつもりだ」

 押し殺した声に背筋が震え上がる。下を見ると、前髪をわずかに乱れさせ、呆れた目をしている元帥と視線が合った。記憶が一瞬にして戻り、心臓がぞわりと泡立った。

「も、申し訳ございません!」

 彼に負担をかけないように降り、正座をしてうなだれる。一生分の失敗をしてしまった。人前でコントロールできていない念力を使い、元帥を吹き飛ばして押し倒した挙句、エルナさんにそれを見られるとか、もう国外に逃げるしかない。

「……お怪我はございませんか?」

 ぷるぷると震えながら訊くと、身を起こした元帥は「ああ」と短く答えた。

「では、説明してもらおうか。見るに、貴官は物体を触れずに動かせるようだが」
「……はい」

 元帥を直視できないが、それでも今朝の出来事を順に話していく。この能力の制約まで伝えきったところで、どこかやるせない気分になる。
 先ほど元帥を吹き飛ばしてしまったことで、対象が人間でも問題ないことがわかった。いや、問題大ありだ。確かに私は適応能力は高いが、それでも人である以上、瞬間的なショックを味わうことはある。そんな時にこの能力を使ってしまったら、元帥を吹き飛ばすだけでは済まないかもしれない。

「事情は把握した。だが、なぜそれをすぐに言わなかった」
「……それは、その、あの」

 あなたとレベッカさんの反応が怖かったからです。とまでは言えず、うつむいたまま煮え切らない返事をする。ぐるぐると感情と戸惑いと後悔が渦巻き、私は圧迫感から逃れるように息を小さく吐き出した。

「申し訳ございません」
「貴官は謝罪ばかりだな。私が望んでいるのはそんな言葉ではない」

 自分のひざを見ているせいで、元帥閣下の顔色はわからない。言葉からだけでは彼が怒っているのか呆れているのか、それとも同情しているのか読み取れない。最後のひとつはありえないだろうけど。

「貴官はその力をどう扱うつもりだ」
「人前ではできるだけ使用しないつもりです。完全に制御できるのならともかく、今の私には過ぎた力ですので……」
「隠し通す、と。好かんな」

 素っ気ない元帥の言葉に、肩が小さく震える。

「か、閣下は魔法の類がお好きではないようですので、使用は控えようと……」
「それが好かんと言っている。確かに私は根拠の脆弱な魔法を好んではない。だが、実用性のあるものをしまい込むのは愚かだ」

 実用性。どう考えても軍事目的のためだな、これは。
 しかし、いったいどう使えばいいというのだろう。15メートル程度しか動かせないうえに、視界からはずれると効果が切れ、なおかつ具体的に念じないと能力が不安定になるというのに。

「まだ制御が完全ではなく、先ほどのように貴方を吹き飛ばしてしまう可能性も……」
「それがどうした。貴官はまだ“それ”を手に入れてから数時間なのだろう? それに、貴官はまだ能力の自覚をしていない状態で水がめを宙に浮かせた。つまり、本来はもっと自由に使いこなせるはずだ」

 確かに言われてみればその通りである。今朝の水がめは私が驚いてコントロールが切れるまで、宙に浮いていたのだ。それまでは視界に水がめを完全に捉えていたわけでもなければ、持続的に念じていたわけでもない。
 そうなると、この能力の限界を作り出しているのは心理的な要因か。

「ドルキマスの兵士を名乗っているのならば、そう簡単に限界をつくるな。まだ貴官が知らないこともたくさんあるだろう」

 そう言われ、私はやっと顔を上げる。私が押し倒したはずみに落ちた軍帽をかぶり直し、乱れた前髪を整えた元帥はいつもの危うさを持っていなかった。
 今まで見たことのない彼を見つめてしまった時、彼と私の距離がそう離れていないことに気付く。こんなにも近くでこの人のことを見たことなんてなかった。少し手を伸ばせば触れられそうだ。
 思えば、この人のことを本気で知ろうと思ったことなんてなかった。それは私だけでなく誰もがそうだろう。ただでさえ自分のことを語りたがらない人なのだ。ブルーノ・シャルルリエという男が元帥の親友だったことは噂に聞いているが、彼はすでにこの世にいない。
 この人を元帥としても、またディートリヒ・ベルクというひとりの人間としても知ろうとする者は、はたしてどれほどいるのだろうか。

「それより、貴官は先ほどから私の身を案じてばかりいるが、自分の身も顧みてはどうだ」

 ふ、と元帥の長い指先が伸ばされ、私の首の裏へと回る。白い手袋ごしでもわかるほど冷たい指先が縦に短くすべった。彼の猛禽類のように鋭い瞳からは想像もできないほど優しくなでられる。先ほどとは違う緊張が走り、私は視線を下へとさまよわせた。

「赤くなっているな。先ほどぶつけたのか」

 そう言われたが、私には首裏の確認はしようがない。それに、赤いのは本が直撃しただけではないと思う。仕事中は髪をまとめているので、ごまかすこともできない。

「あとで医務室で診てもらうといい」
「……はい」

 元帥閣下の指が離れるのを感じる。安堵と落胆の感情を抱いていると、今度は頬に指先が触れた。しかも、今度は指先だけではない。手のひら全体で慈しまれるように触れられている。ゆるんだ肩が一瞬にしてこわばった。
 なぜ触れているのですか。そう問おうとするが、喉が熱くなり、唇を開くこともままならない。

「言い遅れたな。先ほど私を庇ってくれて、感謝している」
「あ、あれは、私が原因なのですから当然のことで……」

 変に声がうわずり、二重の意味で恥ずかしくなってしまう。
 そういえば、この人は私の個人的な話を聞きたいと言っていた。最初は自分の近くにいる人間の弱みでも握るためだと思っていた。だが、本当は違う意味だとしたら、私は本当にこの人を誤解していたのだろう。こんな状況に陥らなければ、私は一生元帥の隠された一面を知ることはなかった。――この能力も少しは良いものと思える気がする。

「貴官の肌は熱いな」
「……あなたの指先は冷たいですね」
「嫌か?」
「……いえ」

 ちらりと元帥の方へ視線を上げると、透き通るような青い瞳が私に注がれていた。なんて氷のように美しく、なんて刃物のように危うい人なんだろう。
 しばらく視線が交わっていたが、普段目にしない美貌を長い間直視できず、結局横に流してしまう。すると、周りに散らばった本と書類が視界に入り、私の中にわずかな迷いが浮かぶ。
 迷いを振り払うように小さく深呼吸をし、一番手前の歴史書を視界に入れる。著者名とタイトルを確認した私は、それが本棚のどの位置にしまうべきかをイメージする。
 まだ頬から消えない冷たいぬくもりが体をこわばらせるのに、心は森の泉のように静寂さを持っていた。
――動け。
 そう念じた瞬間、ゆっくりと対象の本が浮かび上がる。頭の中にしっかりと、この本が指定の場所へ収まる場面を想像すると、それは私と閣下の間を浮遊していく。
 歴史関係の本棚は私の後ろにある。なおかつ著作名とタイトルからしても、上の方に並べなければいけない。このままいけば、本が視界から消えるのは間違いない。コントロールを失うことを想像して反射的な恐れがわき上がった。
 私の恐れに気付いたのか、頬にあてられた元帥の手が動き、目の下を親指でやわらかくなでる。そのなで方が父にそっくりで、唇がふっとゆるんだ。もう一度元帥の目を見る。今度はもう逸らさなかった。
 本当に今日のこの人はおかしい。でもまあ、それでもいいか。これが本日限定のただの気まぐれだとしても、いったい今の私になんの関係があるというのだ。
 完全に恐れが払しょくされた私は、イメージをより鮮明に思い浮かべる。
 空中を移動していた書物が、私の視界から消える。だが、落下の音はしない。そのままイメージを固く保ったまま、意識を集中させる。
 しばらくして、コトンという小さな音が頭上から聞こえてきた。目の前の閣下のうすら笑いが深まったのを見て、私もつられて笑っていた。

「やはり貴官は、私の見込んだ通りの適応能力を持っているようだ」

 笑みを含んだ称賛の言葉に、私は頬が局所的に熱を帯びるのを感じた。この能力はやたらと知らせるべきではないのは変わりないし、不明な点もたくさんある。だが、閣下の言う通り、私の限界はここではない。

「閣下、あの、ありがとうござ……」
「ディートリヒでいい」
「え……」

 瞬く間に急上昇する心臓の鼓動。その意味を問う前に、頬にあてられていた手が今度は顎をやさしくつかむ。もう何も言うなと言わんばかりに、唇を親指でなぞられ背筋があわだった。彼の青い瞳に映る私の顔は見たことのない顔をしていた。
 どうして彼はこんなにも人を惹きつけるのだろう。魔法を持たないただの人間だというのに、周りの人間を魅了し狂わせていく。
 閣下の瞳が細められる。緊張が最高潮になったその瞬間、扉が開け放たれた。

「なまえ! いるか!? 前にお前が貸してくれた軍記物だが、なかなかおもしろ……」

 ピンクの髪に強気な顔立ちのクラリアさんは、入口で仁王立ちしていたが、ぴたりと言葉を止めた。閣下の手は私の頬から離れておらず、距離もかなり近い。クラリアさんの目と口が丸くなるのも当然だろう。というか、この状況に見覚えがありすぎて困る。
 ああ、可愛いな……なんていう現実逃避もむなしく、ぱたぱたと二人分の足音が追加で入ってきた。

「あああっ、入っちゃダメですって!」
「か、閣下? なまえ、これはいったい……」

 あちゃー、と額に手を当てるエルナさんに、唖然としている副官。瞬く間にカオスな空間となったこの状況は、いくら私でも受け入れられるものではなかった。

「ふむ。貴官には能力の練習より先にすべきことがあるようだな」

 やっと私の頬から手を離した閣下が人ごとのように言った。目元が笑っている。私はまったく笑えない。

「あの〜、なんかもうごまかすのも大変なので、説明をお願いします!」

 エルナさんが控えめに言っているが、その目は好奇心でキラキラとしている。わかりやすい人だな。
 能力のことから話せばいいのか、それとも閣下と良い雰囲気になったことだけ話せばいいのか。どちらにせよ、私の兵士人生が波乱に満ちるのは避けられないようだ。それも、まったく予想外のところで。



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