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原作+5年くらいのIF


「少しの間、離れ離れになるけれどこの町で待っていてくれ。なに、ちゃんと迎えにくるさ。」

 言いつけを守って一年。静六さんがわたしを迎えにくることはなかった。わたしは静六さんを待っている間、頭を下げて呉服屋で働かせてもらい、小さな家を借りて生活していた。一年は「少しの間」ではないのかもしれない。あとちょっと待てば、きっと迎えに来てくれるはずだ。何かあってここへ戻ってくるのが遅れているのかもしれない、不安に思いつつもわたしはまだ彼を待っていた。
 
 二年経っても静六さんはわたしを迎えには来なかった。迎えどころか手紙の一枚も届かない。この一年、わたしはいろいろなことを考えて、悲しいけれど静六さんはきっとわたしのことを忘れてしまっているのだから、もう待つのはやめようと思った。
 
 三年経つころ、わたしは商人一家の息子としばしば出かけたり食事を共にしたりするようになった。彼は大層わたしを気に入ってくれたらしく、結婚を前提に交際をすることになった。恋人と呼べる人ができるのは初めてで、わたしはどうしたらいいかわからなかったけれど、右も左もわからない世間知らずなわたしにも彼は親切にしてくれて、大変助かっていた。
 
 そして四年目の冬、次に春が来たら結婚しようという話が出た。わたしは嬉しかったと思う。これがわたしにとっていい選択なんだと思い、了承した。
 
「なまえ。」
 心臓の音がうるさい。寒いくせに身体の内側はひどく熱くなってきた。
 外で洗濯物を取り込んでいると、懐かしい声が耳に入ってきた。忘れるなどするものか。わたしはかつてこの人にたくさん名前を呼んでもらった。呼んでもらうたびに幸せな気分になっていたものだった。だけど、振り向きたくはなかった。
「久しぶりだな。」
 わたしが何も反応せずにいると彼が近づいてきた。
「……静六さん。」
 観念して目を合わせ口を開くと、彼は昔みたいにわたしの髪に触れて頬を撫でた。大きな手は硬くて冷たかった。
「変わってないようで何より。」
「それは…。」
 あなたがこういう風にしたんでしょう。わたしはもう何年も髪や爪を切っていなかった。彼と過ごしているうちに、不思議とわたしの身体の時間の流れは極端にゆっくりになってしまっていた。
「いくつになったんだ?」
「…二十四。」
「へえ。知らない間に大人になったんだねェ。」
 わたしの頬を両手で包むと、冷たいなと言った。彼もまた、わたしをこの町へ置いていったあの日とちっとも変わっていなかった。
 いくら夕方で人通りが少ないとはいえ、わたしはもうすぐ結婚するのだ。こんなところを見られて変な噂を立てられては困る。
「静六さん、寒いでしょう。お茶を淹れるから中へ入ってちょうだい。」
 
 静六さんを部屋に上がらせてお茶を用意しようとすると、自分がやると言われてしまった。
「一人でできるよ。わたし、今はなんだって自分でやるんだよ。」
 わたしがそう言って座らせたままにしてお茶を出した。静六さんはわたしの手を見ると、自分の手で包んで、甲をざらざらと撫でた。
「こんなになっちまって…。かわいそうに。苦労させたみたいだな。すまないね。」
 どうしてあなたが謝るの。わたしの手は、家事や仕事のせいで皮がところどころ剥けている上に、乾燥しているせいでひび割れて赤くなっていた。静六さん、違うの。同じくらいの女の子はきっとみんな同じような手をしてる。わたし、出来は悪いけれど、今はちゃんと働いて一人で生きているんだよ。ずっとあの時みたいにきれいな手ではいられない。
「静六さんのせいじゃないわ。」
 わたしはどうしようもない気持ちになった。静六さんと過ごしていた昔のことをひしひし思い出した。彼はわたしに何もさせたがらなかった。わたしが家事をするのを嫌がっていた。火や包丁を使わせたがらなかったし、重いものも持たせなかった。服だって本当は一人で着れたのに彼が着せていたし、わたしが箸すら持たない日だってあったのだ。だけど、あの頃とはもう何もかもが違う。わたしは何だって一人でできる。一人で生きていかなくてはいけなかった。
 静六さんはわたしの足に目をつけるとくすくすと笑った。ああ、懐かしい笑い方だ。
「まだ外してなかったのか。」
 足首の鈴を指で動かしてちりんちりんと鳴らした。わたしはすごく恥ずかしくなった。静六さんを待つのをやめてから二年も経つのに、一度だって彼につけてもらったこの鈴を外そうと考えたことはなかったことに今気付かされた。
「…だって、みんながかわいいって言うから。」
 自分の意思で外していないと認めたくなくて嘘をついた。わたしがずっと静六さんのことを待ち続けていたと思われるのが少し嫌だった。
「なんだ、俺のことを待っていたわけじゃないのか。」
 悪戯っぽく笑って、寂しそうな表情なんて見せなかった。わたしのつまらない嘘なんて、静六さんには全てお見通しなのかもしれない。それでもわたしは自分のために強がっていたかった。
「待ってなんかいないわ。だって…」
 だってあなた、手紙の一枚も送ってくれなかったじゃない。わたしは言うのをぐっと堪えた。静六さんに弱気なところを見せたくなかった。わたしは一人でも大丈夫なのだとわからせたかった。
「待っていたから、この町に留まっていたんだろう?」
 わたしは何も言えなくなってしまって俯いた。彼を待つのはやめたはずなのに、ここを出ようと思ったことはなかった。
「来るのが遅くなったから拗ねてるのか?」
 静六さんはからかうように言った。
「ちがう、ちがう…。そんなんじゃないよ…。」
 じわじわと目の奥が熱くなってきて、喉が痛くなってきた。
「静六さん。わたし、春が来て暖かくなったら、結婚しちゃうんだよ…。」
 彼は少し驚いたような顔をしたけれど、穏やかな表情でわたしの頭を撫でた。
「そりゃあめでたいねェ。」
 とうとうわたしは泣き出してしまった。どうしてそんなこと言うの。わたしが欲しかったのはそんな言葉じゃない。どうして優しい顔をするの。
「泣くほど嫌な男なのか。」
 静六さんはわたしの涙を丁寧に、形のいい指で拭った。昔のわたしは泣き虫で、よくこんなふうにしてもらっていたものだった。
「そんなことない。すごく優しくていい人だよ…。」
 彼がわたしを抱き寄せて子どもあやすみたいに背中を撫でると、蓋をしていたはずの想いがどんどんと溢れ出てきてしまった。本当はいけないことだって、頭の中ではよく理解しているのだ。だけど、恋い焦がれた人を前にして我慢できるほどわたしは大人になれてはいなかった。
「静六さん、すき。だいすき。」
 わたしは泣きじゃくりながら情けない声で言った。
「…俺も好きだよ。」
「本当は…本当はずっと待ってたの。会いたくて仕方なかった。あなたのことばかり考えてた。」
「知ってる。」
 静六さんはわたしの言葉を聞いて満足そうに笑うと、その柔らかい唇でわたしに口づけて優しく組み敷いた。
 
 わたしは本当にあっけなく彼に抱かれてしまった。拒絶するわけがなかった。できるわけがなかった。きっとずっとこの人に触れたかったし、触れられたくて仕方がなかった。わたしは最初からこうなることを期待していたのかもしれない。
 たくさん彼の名前を呼んだ。彼もわたしの名前を呼んでくれた。それだけで胸がいっぱいになってまた涙が出た。
 もうだめだった。忘れようとしたはずなのに、心の奥底にしまっておいたはずなのに、全てを思い出してしまった。わたしはこの町であの人と結婚した方が普通の幸せを手に入れられるに違いない。けれど、わたしはその幸せが欲しいとはもはや思わなかった。
 わたしには何もなくていいのだ。自由なんてわたしには必要なかった。全てを奪われたままでよかった。静六さんがいるだけで、それだけでよかった。ずっとこの人に縛られていたかった。彼の所有物になりたかった。あの時のわたしたちの関係は歪んでいたけれど、わたしは生きているうちで一番大事にされていたし、一番幸せだった。彼がだいすきだった。ずっと一緒にいたかった。
 こんなことはよくないのだ。しかし、あの時の幸せがすぐそこにあるのに、手を伸ばさないでいられるわけがなかった。わたしはずっと静六さんのことを待ち続けていた。それに、わたしが一番幸せでいられるのは彼の隣だとよくわかっていた。
 
 ぬるい気怠さに身体が包まれてわたしが微睡んでいると、静六さんはわたしの髪をいじったり、唇を指でなぞったりしながら口を開いた。
「明日にはこの町を出て行くよ。」
「ほんとうに?…もっと一緒にいたいよ。」
「おまえさんはどうしたい?」
 本当はわかってるくせに。わかりきっていることをわざわざ聞くなんて意地悪だ。
「言わせないで。」
「言わなきゃわからないさ。」
 わたしが考えることなんて全て理解しているくせに。昔からこの人は、大事なことはわたしの口から聞きたがるのだ。
「…わたしも連れていって。もうどこへも置いていかないで…。一緒にいさせて…。」
 彼はわたしを抱き寄せ、よくできましたと頭を撫でると額に接吻した。外は寒くて、布団は狭かったけれど、二人でいれば暖かかったし静六さんの腕の中で彼の心音を聞きながら眠りにつけることはこの上ない幸せだった。
 
 翌朝、二人で食事を摂って、何を着ようかしらと箪笥の前で考えていると静六さんがすぐそばへやって来て服を選んでくれた。彼がかつてわたしに与えてくれたのがいくつかあったが、それを全て覚えていたのには驚いた。
 それから服を着せてくれて、器用に化粧をしてくれたのが懐かしかった。静六さんはわたしが気に入っていた髪飾りも覚えていて、引き出しの中から持ってくると、金細工のそれでわたしの髪をまとめてくれた。
 今度は静六さんを座らせて、昔のようにわたしが彼の髪を梳かして結った。何もできないけれど、これだけは得意だった。静六さんは、懐かしいなと言った。わたしはうんと頷いた。
 
 わたしは呉服屋にも行かず、あの人にも会いに行かず、静六さんに連れられて町の外れまで来た。十年近く前、わたしは故郷の町から彼と牛車で隣町まで行き、そこで初めて鬼鉄騎とやらに乗り、知らない場所へ行った。今日も昔のように町の外れに行った。あの時とは違うことがたくさんあるけれど、あの日をもう一度なぞっているようだった。そこにはまた鉄の車があって、それを動かす人がいた。静六さんはわたしを先に乗せて、御者と何か話してから車に乗り込んだ。
 揺れる鬼鉄騎の中でわたしは静六さんの肩に頭を預けうとうとしていた。彼はくすくす笑うとわたしの頬に触れたり、猫みたいに顎の下を撫でたりした。くすぐったくて、わたしも小さく笑った。
 わたしは、自分がどこへ向かっているのか全くわからなかったし、別に知りたいとも思わなかった。あの日もそうだった。だけど、この人と一緒なら、わたし、どこへ行ったって幸せなんだよ。

2020.10.17


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