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 神社の近くには、大きな黒い犬がよくいる。人に飼われている様子なんてちっともないのに毛並みがよくて大人しい。
 わたしは本当は犬より猫の方が好きだけど、この黒い犬はわんわん吠えてびっくりさせてこないし、無闇に顔や手を舐めてこないから気に入っていた。
 ここの神社は比較的大きいけれど、少し離れにあるから人があまりやってこない。建物は立派だけれど、どんな神様が祀られているかは知らない。頻繁に管理されているようではなくて、木や草が繁って鬱蒼とした雰囲気になっている。
 やることがないときわたしはよく神社に行っていた。他に人は来ないし、日陰があって涼しいから。犬がいれば一緒に遊んだり、お花を摘んでお供えしてみたり、汚れているところをお掃除してみたり、たまには参拝もしてみたりした。いいことをしている気持ちになって、少し気分が良かった。拝殿の方へ行くと決まって黒犬が尻尾を振って付いてきて、それがかわいくてわたしはすきだった。
 
 
 秋になった。今年は作物の出来が悪い上に雨がほとんど降らない。大人たちは集まって何かを話すことが多くなっていた。わたしはというと、相変わらずやることはないしお腹も空いていて、退屈さと空腹を紛らわせるためにまた神社へ行って、犬と遊んだりお花を摘んだりして一日を過ごしていた。
 ある朝、大人たちに呼ばれて突然神社に連れて行かれた。外で服を脱がされて、なんだかいつも着ているようなのとは違ったのをいそいそと着せられた。わたしがされるがままにぼうっとしていると、偉いおじいさんが話し始めた。要するに、あんまりにも不作で雨も降らないから神様に生贄捧げることになって、それにわたしが選ばれたというのだ。
 生贄に選ばれるというのは光栄なことだと思わなければならないらしい。わたしはどうにか逃げようなどとは考えていなかった。逃げたって他に行く場所がないもの。街にいたってどうしようもなかった。
 本殿にそのまま引っ張られ、動けないように手や足を縛られた。縄をぎゅっと絞められて手首と足首に食い込んで痛かった。これで終わりかと思いきや布で目元まで覆われてしまった。
 足音がだんだん遠ざかって、本殿の戸が閉められる音がした。目隠しをされているし、灯りなんてひとつもない上に、建物が木々で覆われているから視界が真っ暗になってしまった。
 これからどうなるんだろう。わたしが遊びにきていたときにほとんど他の人を見なかった神社だ。偶然見つけて助けてくれる人なんていないだろう。それに、わたしを神様に差し出したから、街の人々はここに近寄らないよう言われているはずだ。
 いろんなことを考えているうちに、頭の中がぐるぐるして疲れてしまった。今日は少し早く起きて、朝から連れ回されて疲れたからまぶたが重い。ここでは何をしても誰にも怒られないんだ。きっとまだ昼間だろうけど、眠っても大丈夫だろう。
 
 烏の鳴き声やすきま風の冷たさ、床の硬さでぼんやりと目が覚めた。眠ってからどのくらい時間が経過したのか、今が夕方なのか夜中のか、朝方なのかな全くわからなかった。これじゃあ飢え死にする前に凍え死んでしまうかもしれない。でも、眠ったまま目覚めることがないのなら、お腹が空いて眠れないよりもいいのかもしれない。わたしは考えるのが面倒くさくなって、一度寝返りを打ち体勢を変えて再び目を閉じた。
 
 お腹と太もものあたりが暖かい。わたしは驚いて一気に目が覚めてしまった。ぬくい何かがわたしの近くにいる。心臓がばくばくした。わたしがもぞもぞと動いていると暖かいものも動き出した。気配がお腹のあたりから顔まで移動してきて気づいた。このあったかいのは、多分いつもの黒い犬だ。
 犬はわたしの顔をくんくんと嗅いで擦り寄ってきた。たまに食べるものをあげているからだろうか。優しくて、柔らかな毛が暖かい。でも、ごめんね。今日は何も持ってないの。わたしがあげなくても、この犬はどこかでごはんをもらえるだろうか。わたしはここで死ぬけど、犬はどうなるんだろう。
 驚いたり悲しい気持ちになったりして疲れたから、また眠ることにした。今度は犬がぴっとりとくっついていてくれるからあんまり寒くなかった。
 
 寝て起きてを何度か繰り返しているうちに、だんだんと意識が朦朧としてきた。とにかくお腹が空いていて何も考えられない。そのくせ変な汗が出てきて不快になるのだ。ぼうっとする。眠りたいのに眠れない。たくさん寝過ぎたのかな。あれ、ここに連れてこられた日からどのくらい時間が経ったのかな。どうしよう、あとどのくらい我慢すれば終わりがくるんだろう。気付いたら犬もいなくなっていて、涙が少し出てきた。目元の布が湿って気持ち悪くなった。お腹が空いてひどく喉が渇いている。どうしようもなく身体がだるい。
 どうにかまた眠ろうとしていると、開くはずのない戸がかたかたと動かされる音がして涼しい風が入ってきた。こんな人気のないところへ誰がくるのだろう。建物は立派だから、もしかしたら泥棒かもしれない。わたしはもう声を出すことも難しくて、何もいうことができなかった。もしかしたら、街の人が様子を見にきたのかもしれない。わたしが死んでいたら遺体の処理をするために。
 でも、もし泥棒だったら…?わたしはどうなってしまうのだろう。殺されてしまう?もうそれでもいいと思った。苦しい身体をどうにかして欲しかった。
 
 どこからか優しい鈴の音が聞こえるような気がする。足音がだんだんと近づいてきた。わたしはもう動けなくて、ころされるのをただじっと待っていた。
「ああ、こんなに弱っちまって。かわいそうに。」
 男の人だろうか。上の方から優しげな声が聞こえてきた。彼はわたしを支えて上半身を起き上がらせると何かを口元へ寄せてきた。
「ほら、飲みな。おまえさんのためにもってきたんだ。」
 見えないからわからないけど、これは多分水だ。抵抗する力も残っていないから流されるままに受け入れた。唇がつめたい。
「今食事を持ってきてやるからな。いい子にして待ってろよ。」
 彼はそう言ってわたしを横にさせたがすぐに戻ってきて、再び身体を起こさせた。口元へ運ばれてくるものをわたしはゆっくりと咀嚼していった。久しぶりに口にしたものは何だかわからなかったけれど、この世のものとは思えないほど美味しかった。
「なんだ、泣くほど美味かったのか。そりゃあよかった。」
 男は食事を運ぶ手を止めて、手足を縛っていた縄を丁寧に解き、目を覆っていた布を外した。暗いのと目が霞んでいるせいでほとんど何も見えなかった。
「社務所に布団があるはずだ。持ってきてやるからゆっくり休みな。」
 彼は戸を開けて本殿を出て行ったが、外は真っ暗だった。
 わたしが起き上がることもできずに横たわっていると男が戻ってきた。わたしの近くに来ると、どこから持ってきたのか蝋燭をつけて布団を敷いてくれた。動けないわたしを抱えて丁寧に布団に入れてくれた。それからまたゆっくりと食事をとらせたり、水を飲ませたりした。
 久しぶりに食事をした疲れと満腹感で眠たくなってきた。それを察したのか、男はわたしに布団をかけてもう今日は眠るようにいった。彼は枕元に座り、わたしの頭を撫でた。
「きっと明日には元気になってるさ。」
 ひんやりした手に触れられているのが気持ち良くてわたしは目を閉じた。
 そういえば、あの黒い犬は今どこにいるのだろう。


2020.10.13


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