空白の語らい

少し前まで意味の分からない喚き声を上げていた妹は物言わぬ肉塊となり、鼠がその肉を啄んでいる。
平時であれば吐き気を催すその光景にも、この異常な状況下においてはすっかり慣れてしまった。
ふと、自分の腕を伝って何かが身体の上を這い回る感覚がする。見てみると、鼠が身体の上を走っていた。

「い……嫌……」

私はまだ生きている。私はまだ物言わぬ肉塊じゃない。
猛烈な忌避感に暴れまわるが、身体を繋ぐ鎖がけたたましい音を上げるだけで、鼠を追い払うには至らない。
懐に忍ばせていたものが地面に滑り落ちた。
硬い音に視線が引き寄せられる。それを目にして、あの言葉が頭を過ぎる。

(どんな苦しい時でも負けては駄目だ。きみの望む未来を、切り拓くんだ)

私はここで挫けてはならない。その言葉を胸に抱き、果てしない苦痛を堪える。
短剣が、気がつけばその姿を変じさせていた。小さな短剣は、大きくて威圧感のある男に。

「ディミトリ……」

その顔に憎悪と怨嗟を浮かべた彼が、何かを告げようと口を開く。

「――」
「エーデルガルト!!」

割り込まれた声に、目が開いた。
開いた目に映るのはあの地下ではなく、見慣れた自分の寝室の天井。そこにいる筈のない彼女が、焦った様相で自分の顔を覗き込んでくる。

「……どうして、あなたがここに……」
「……聞きたいことがあったんだけど、間が悪かったようね」

一体何の用があって、と訊こうとしたが、喉が干からびそうなくらい渇いていて上手く声が出ない。
傍にあった水差しを手に取ろうとし――ベアトリスが先に取り上げる。

「……毒殺されかけたのに不用心すぎるわ。ちょっと城内の警備態勢見直した方がいいわよ?」
「そういうのは、ヒューベルトに任せて……」
「そのヒューベルト任せをやめなさい。今だってあいつが倒れただけでそこら中穴だらけじゃない」

フォドラの覇権を握る女帝がこれじゃ情けない、とベアトリスはぼやく。
それよりエーデルガルトとしては、ヒューベルトが倒れた、というのが寝耳に水だ。

「ヒューベルトの身に何があったの?」
「……今日あったらしい毒殺未遂について、あんたは何処まで知らされてる?」
「私に反感を抱く小貴族が企んだことでしょう。不本意だけれど、別に珍しいことでも……」
「……その裏にアランデル公がいたことは知らないのね」
「え……?」
「ま、それ自体は何の証拠もない、実行犯の言い逃れに過ぎないけどね。けど、毒殺騒ぎに合わせて連中が動いたのは確かよ」

何も聞いていない。彼らに関わることであれば何かしら耳に入れてくれるだろうと思っていた。けれどエーデルガルトは何も知らなくて、目の前の彼女は知っている。

「連中との戦いの準備はあんたが思うより遥かに進んでるわ。今日のことを切っ掛けに、今これから攻めようって所まで来てる」
「そんなこと……私は全く……」
「ヒューベルトはね、あんたの身に何かあってはならないからって、全部あんたに内密で事を進めてたの。それについてはあたしも同感なんだけど……」

ヒューベルトが自分に内密で事を進めてしまうことは珍しいことではない。何度苦言を呈しても、話を逸らされ有耶無耶になってしまっていた。
だけど、それが自分の予期していた範囲を遥かに逸脱している。

「どうしても知りたいことがあってここに来たのよ。あいつら、何したと思う?」

ベアトリスの顔から、一切の感情が削ぎ落とされる。

「リオが拐われたのよ。あいつらの本拠地に」
「そんな!」

それを聞いたエーデルガルトの顔が真っ青になる。その様子に、ベアトリスはますます確信を深めていく。

「知ってるんでしょ、リオの身に何が起こるか。辛いかもしれないけど、教えて。どんなに残虐で恐ろしくても、未知のものを恐れるよりはずっとマシよ」

ベアトリスがエーデルガルトの肩を掴み詰め寄る。悪夢から覚めた矢先で気の毒だとは思うが、ベアトリスも切羽詰まっている。
どんなに忘れようとしても、記録から抹消しても、あの忌まわしい過去はずっとエーデルガルトを付いて回る。
口籠ってしまったエーデルガルトに、ベアトリスが痺れを切らす。

「過去から逃げるんじゃないわよ。陛下は過去に縋り付いていたかもしれないけど、あんただって未来に縋り付いてるようにしか見えない。これからの戦いのこと、お望みならいくらでも教えてあげる。だから、あたしの疑問に答えて」

先程まであれこれ教えてくれたのは、交換条件だったのだ。気付いても手遅れだ。

「……分かったわ。そこまで言うのなら……」

その気迫と狡猾さに、とうとう観念する。エーデルガルトは姿勢を正し、ベアトリスへ向き合う。

「かつて、この宮城の地下で、愚かな行為が繰り広げられていたわ。フォドラを統べる無比の皇帝を造り出すなんて目的で、当時の皇子皇女に強い紋章を与えようとその血に改造を施した。当然、容易に為せるようなことじゃない。果てしない苦痛を伴うそれに人の体が耐えられる筈も無くて……殆どの者は犠牲になった。
あの者達はあの子を全て思うがままの傀儡に仕立て上げようとしているでしょう。なら、あの子に対してかつてと同じ……いいえ、それ以上のものを施すつもりでしょうね」
「…………」

それはベアトリスの想像を超えるもので、それまでの常識がひっくり返ってしまいそうな地獄だった。喉元に酸っぱい感触がこみ上げてきて、咄嗟に口を押さえる。
恐れ慄くと同時に、ようやく核心に辿り着いた、とも思う。ずっと気になっていた、エーデルガルトが何に代えても変革を為そうとしている、その理由の根幹。まさかここまで酷いものだとは思わなかった。

「……あたし、こんな所にいる場合じゃない」

知りたいことは知れた。そして、それを聞いた以上は一瞬一秒が惜しくなる。ベアトリスは立ち上がり、部屋を出ようと足を進める。

「待って、私も行くわ。これから起こる戦いを知っておきながら、知らぬ存ぜぬでは済まされない」

エーデルガルトも、立ち上がり付いていこうとする。

「……あーあ、これはヒューベルトから大目玉だわ」

ベアトリスは肩を竦めるが、こうなるのは予期していたと言わんばかりにその顔は薄ら笑みを浮かべている。

「行く前に一つだけ言っておくわ。
――絶対に、死なないように」

エーデルガルトを連れ出す以上は、彼女を遠ざけていた本来の理由は必ず遵守せねばならない。それが、ベアトリスの通せる筋だ。

prev | next
戻る