悩ましげなため息が思わず大きくこぼれた。すぐさま我に返り、しまったと慌てて指先で口元を覆ったがもう遅い。
ノヴァの椅子を借りて控えめに腰かけながら見守る先──床で野垂れ死んだように眠るノヴァをジャックと一緒に寝台に運び上げていたジャクリーンが、しっかりとそれを異変として拾い上げてそばに寄ってきた。

「セレーナちゃま、何かお悩みナノ〜?」

ロボットなのに、とても繊細に感情を表現できているものだと毎度のことながら感心してしまう。
足元で心配そうに体を傾けてこちらを覗き込む姿と、小さな体躯から発せられる女の子の声を象った機械音は、健気で愛らしさすら感じられる。うっかり何でも話してしまいそうになるが、ここで釣られてはいけないと思いとどまって、とっさに笑顔を繕う。

「ううん、大丈夫よ。それよりごめんなさいね、すっかり任せちゃって」
「イイエ、ジャックの役目デスカラ。そんなことより、今日のセレーナの調子の方が心配デス」
「えっ?」
「今日のセレーナちゃまは元気がないノ〜。絶対何かあったに違いないノ〜」
「えええっ?」

そんなに顔に出ていたかしら。なんて己の無自覚さを内省しつつ、他意なく純粋な厚意を向けて詰め寄るロボットたちに狼狽えてしまう。きっと、このままはぐらかそうとしても心配性な彼らは許してくれないだろう。
いっそ吐き出してしまった方が、一人で思い悩むよりは楽かもしれない。意を決して、昨夜の睡眠不足の原因にもなった出来事を吐露することにした。

「……実はね、昨日のお休みに甥っ子とレッドサウスの街をお散歩してたの」
「それって、前に連れてきてくれた男の子ナノ〜?」
「ええ、そうよ。それでね、アイスが食べたいって言うものだから買ってあげたのたけど、よっぽど嬉しかったのか少し手を離した隙に駆け出しちゃって、ちょうどすれ違う男の人にぶつかって服を汚してしまったの」
「ウーン、ジャクリーンみたいにお転婆な子デスネ……」
「ジャクリーンはそんなことしないノ〜!」

ジャックの失礼な発言に憤るジャクリーンを前に、確かにジャクリーンならありえるかも、とは口に出して言えなかったが、微笑ましいやりとりに少しだけ気が紛れる。

「えっと、それで必死に謝ったのだけど全然許してもらえなくて……挙げ句の果てにはクリーニング代は体で払えだなんて迫ってくるものだから怖くて固まってたら、親切な男の人が体を張って助けてくれたの」
「カッコイイ〜! ヒーローみたいナノ〜!」
「でも私、その親切な人も大きな体をしてたし、素手であっという間に相手の人を倒していたからなんだか怖くなって、甥っ子を連れてこっそり逃げ出しちゃったのよ……お礼も言わずに……」
「怖い思いをしたのデスカラ、それは仕方ないのデハ? セレーナは男の人が苦手デスシ……」
「そんなこと、相手は知らないし、せっかく助けたのにお礼もなく逃げられたら気分が悪いでしょう? 身元を突き止められてここまで押しかけられたりしたらと思うと、全然眠れなくてっ……」

あれからずっと渦巻いていた懸念が溢れだしてとうとう耐えきれず、全てを遮断するかのように両手で顔を覆った。話せば少しは不安が解消されるのではと僅かに期待していたのに、むしろ悪化した気がする。

「元気出して! そんな人が来たら、ジャクリーンが追い返してあげるノ〜!」
「ト言いますカ、さすがにここまで押しかけてくるのは一般市民には不可能だト思いマスガ……」
「そ、そうよね。ここなら警備体制も厳重なのだし、ここから出なければ安全──」
「失礼しまーす。……あ? あんた、昨日の」

せっかくロボたちの励ましを受けて持ち直そうとしていたのに、突然の来客に頭が真っ白になってしまった。噂を聞きつけたようなタイミングで部屋に現れたのが、まさに話題の人物だったから。
その人が制服を着ているだとか、そんなことはセレーナの目には入っていない。ただただびっくりして、見知らぬ男性への湧き上がる恐怖心とあの時の恐怖心が折り混ざって、堪らず衝動のままに絶叫した。

「きゃーーーーーーー!?」
「おわあああああっ!? な、なんだなんだ!?」

さらには男の叫び声にまで怯み上がってしまい、思わずジャックを盾にして後ろに隠れようとする。そもそも他ならないセレーナが彼を驚かせたのは明白なのだが、そんなことにまで頭が回るほどの余裕は一切ない。
当然ながら事情を知らない彼は、困惑した顔でこちらを見下ろす。

「ええっと……」
「もしかして、昨日セレーナを助けてくれたのハ、ガストだったのデスカ?」
「えっ、なんでジャックがそのことを知ってるんだ?」
「今、セレーナちゃまから聞いたところナノ〜。ガストちゃまがセレーナちゃまのヒーローなら、追い返さなくていいノ〜!」

ジャクリーンが上機嫌に彼の足元を駆け回る。彼らの親しげな様子を眺めていてようやく、自分を助けてくれた親切な人がヒーローだったのだと認識できた。
どうやら最悪の事態は避けられたようで、少しだけ肩の荷が下りた気がする。ジャクリーンが余計なことまで言うから、新たな問題が発生してしまったけれど。

「お、追い返すって……?」
「も、申し訳ございません。私、助けていただいたのに逃げ出してしまって……その、恨まれているのではないかと」
「いやいやいや、そんなことで恨む奴が人助けなんてするか? 現に俺は全く気にしてねぇし……まあ、振り返ったらいなくなってたのはさすがにびっくりしちまったけど。あんたが無事だったなら、それでいいさ」
「え……」

こんなにおおらかに許してもらえるとは思わず、拍子抜けして固まる。もっと怖い人なのかと想像していたが、どうやらそうでもなかったらしい。
それでもまだ少し怖いけれど、一番の懸念が解消されたおかげでほんのり気持ちが安らいだ。今夜は眠れそうだ。

「ところでジャック、ドクター来てねぇか? 聞きたいことがあって探してるんだけど、部屋にもドクターのラボにもいなくてさ」
「ヴィクターなら、サブスタンスの調査に向かいまシタ」
「ええー、まじかよ。仕方ねぇ、出直すか」
「せっかくだから、ここでゆっくりしていくといいノ〜! ガストちゃまの面白いお話聞きたいノ〜!」
「ええっ!?」

安心して油断していたのも束の間、とんでもない誘いが聞こえた気がして、思わず大声をあげた。さすがにそれは心の準備ができていない。
そしてまた驚かせてしまったらしく、彼はびくりと跳ねさせて、なんとも気まずそうにセレーナを一瞥する。

「ああ、いや……俺、もう行くわ」
「ええ〜、残念ナノ〜。セレーナちゃまにもガストちゃまのお話聞かせてあげたかったノ〜」
「あー、はいはい。それはまた今度な」

しょんぼりと寂しそうにするジャクリーンを宥めようとする彼の声には、細やかな気遣いと優しさを感じられる。この拭いきれない恐怖心を理解した上で、それを露骨に口にすることなく避けようとしてくれているみたいで。だからこそますます重い罪悪感が刺激されて、頭も下へと傾いていってしまう。
それは、彼が立ち去ってからも。

「私、またお礼を言い忘れちゃった」
「ガストなら、またいつでも会えマスヨ」
「そ、それはそうなのだけど……」

ジャックが慰めてくれるけれど、気分が晴れることはない。
今はジャックやジャクリーンがいたから、まだまともに会話ができた方だというのに。二人だけで向き合ったところで、きちんと伝えられる自信も勇気もなくて。
やはり、今夜も眠れそうにない。これだけ騒がしくしても全く起きる気配のないノヴァが、今は心底羨ましく思えた。









「あ〜〜……」

扉が自動的に閉まる音を背に、覇気も尽き果てた声が無意識に流れ落ちた。せっかく念入りにセットした前髪をくしゃりと手のひらで潰して、様々な情が入り混じってフリーズしそうになる頭を抱える。
昨日、彼女はチンピラにあからさまな言いがかりをつけられ、今にも泣きそうな顔で必死に謝り続けていた。あれは故意に標的を定め、アイスを片手にはしゃぎ回る小さな男の子に自らぶつかってイチャモンをつけてくる、所謂当たり屋だったのだが。ただただ恐怖心に苛まれて硬直していた彼女は、全く気づいていない様子だった。あのままでは男の良いようにされていただろう。
見過ごすことは当然できず、颯爽と助けに入ったわけだが、往生際の悪いチンピラに抵抗されて少々荒っぽい手を使ってしまった。
と、それはいいのだが、チンピラを撃退して振り返った瞬間、背筋を凍らせるほどの焦りが駆け巡った。彼女の姿が忽然と消えていたのだ。
あれだけ怯んでいた上に子どもを連れていた彼女が、まともに動けるとは思えない。まさか、周りに潜んでいた仲間に連れ去られたか。地面に這いつくばるチンピラに問い質しても、知らないと言い張るばかりで収穫はない。まだ遠くには行っていないはずだと踏んで、早急に周囲を捜索するも一向に見つかる気配はなく、それ以上の手がかりも望めず諦めてタワーに戻ったのだった。
もっと彼女に気を配るべきだったと己の浅慮を深く反省し、なんとも後味が悪い状態で一日を過ごす羽目になってしまったが、まさかこの場所で再会することになるとは思わなかった。
とにかく、彼女と連れていた子どもが無事でよかった。心からそう思う。何故か随分と怖がられてしまっていたが、あまり積極的に押されるとそれはそれで困るので、こちらとしても助かったというべきか。実際、あれだけの会話でも緊張していやに力が入ってしまったくらいだ。ジャクリーンに引き止められた時は、どうしたものかと悩んだが。

「……あ。名前聞くの忘れてたな」

確かジャックとジャクリーンはセレーナと呼んでいたが、勝手に呼ぶのも気持ち悪いだろう。また顔を合わせた時にでも改めて挨拶をすればいいのだとは思うが、果たして上手く言葉を交わせるかどうか。

「ドクターもいないし、いったん部屋に戻るか」

ひとまず一番の問題は解決した。今はごった煮になった思考を放棄して、頭を冷やそう。情けなくも棒のように立ち止まっていた足を鈍く動かし、普段よりも重い足取りで部屋までの通路をとぼとぼと歩いた。




「ガストちゃま、ありがとうナノ〜」
「いや、それは別にいいんだけどよ……」

それから数日後。彼女のことを詳しく知るきっかけになったのは、迷子になったジャクリーンだった。
ノヴァのラボに帰ろうとしたら道がわからなくなったというので、送り届けてやることになったのだが。ノヴァのラボに行くということは、彼女とも顔を合わせることにもなる。別に彼女自身を厭うわけではないが、やはり目の前にすると緊張してしまうし、彼女のこともまた怯えさせてしまうのではないかと思うと、少々気後れしてしまう。

「ガストちゃまが一緒なら、セレーナちゃまもきっと喜んでくれるノ〜」
「はっ?」

なのに、ジャクリーンが嬉々として真逆を口走るものだから、思わず耳を疑った。

「いや、俺ってむしろ嫌われてるんじゃ……」
「全然嫌ってなんかないノ〜! セレーナちゃまは男の人が怖くてあまりお話できないだけで、本当はガストちゃまとも仲良くしたいはずナノ! さっきだって、今日も助けてもらった時のお礼が言えなかったって悲しんでたノ〜!」
「そ、そうなのか……?」

突如、怒涛の勢いでまくし立てられ、すっかり気圧されてしまった。
一方で彼女に抱いていた誤解を改められたのは、いい収穫だった。自分が特別恐怖を抱かれていたわけではなかったらしく、むしろ自分と同じような事情を抱えているとわかれば共感できる。

「でもね、パパみたいにだらしないけど優しい男の人なら平気ナノ。顔が怖い人や、体の大きい人が特に苦手なんだって〜」
「顔が怖い……え、俺、そんなに怖い?」
「ガストちゃまは背が高いから、怖く感じるのカモ……」
「あ〜、そっかぁ。確かにあの子と比べりゃ、結構体格に差はあるかもな」

正直なところ、チンピラを相手にしていた時は不良時代の癖のようなものが出てしまった気がするし、そこが彼女を怖がらせる原因になったのだと思い込んでいたのだが。もっとシンプルな理由が原因だったのなら、少しは前向きに捉えられるかもしれない。

「だから、ガストちゃまも優しいところを見せれば、セレーナちゃまも安心して仲良くできると思うノ〜!」
「仲良く、ねぇ……」

ジャクリーンに期待の視線を向けられ、僅かにたじろぐ。決して仲良くしたくないわけではないが、どうしても臆してしまう自分がいる。
でも、彼女もまた自分と向き合おうとしてくれているのなら、それに応えないわけにはいかないとも思う。

「……ま、やれるだけやってみるか」

なるようになれ。半ば自棄みたいなものだが、勢いと流れに身を任せてみるのも時には大事だ。彼女のためにも、自身の今後のためにも。逃げ腰だった精神に気合いを入れて、背筋をしゃんと正した。






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