多くの人々が忙しくなく行き交うターミナルに、一組の母子が降り立つのを見つけてそちらへ足を向かわせる。母親と仲良く手を繋いでいた五歳の男児はこちらの姿に気づいたらしく、母親の手を離すと嬉々として無鉄砲に駆け出した。

「あー! おねーちゃーん!」
「ああっ、こら! 勝手に走らない!」

セレーナと同じ色の髪を長く真っ直ぐに伸ばした母親は慌てて咎めるも、男児は聞く耳持たずに器用にも人の往来の合間をすり抜け、腕を伸ばしてセレーナの腰に抱きついた。
相変わらず人懐っこい甥っ子のあどけない愛らしさに頬を緩め、優しく頭を撫でて愛でる。

「相変わらず元気ねぇ」
「まったく、元気過ぎて困るぐらいよ」

遅れて後を追ってきた姉は、困憊した様子でため息をこぼした。身篭ってすぐに夫を亡くして以来ずっと、ほぼ一人で我が子を育ててきた苦労を考えると、そう言いたくなるのも無理はないのかもしれない。
とはいえ、姉はとても丈夫な人だ。夫を亡くして悲しみはすれど、思い詰めることなく逞しく前向きに生き抜いてきた。だから、顔を合わせる度に変わらない姿を見ると安心する。

「お姉ちゃんも元気そうね」
「そういうセレーナこそ。研究に明け暮れてやつれてたらどうしようかと思ったわよ」
「もう、お父さんじゃないんだから、そんなことないわよ」

こうして調子良く揶揄ってくるところも相変わらずだが。口では反抗しながらも、ここ最近の生活リズムの崩れを省みると内心では否定しきれずにいるのが悔しい。

「ねえねえ、おねえちゃんのヒーローのおにいちゃんはっ?」

スカートの裾を軽く引っ張る甥っ子に何やら期待を込めた視線を向けられたものの、意図される人物像を汲み取れずに首を傾げる。

「う、うん……?」
「あー。この前、この子がヤバい男にアイスぶちまけたって時の……あんたたちを助けてくれたって人がヒーローだったって知って、相当憧れちゃってるみたいでさ。あれからずっと会いたいって言ってはしゃいでるのよ」
「あぁ、アドラーさんのことね」

姉に補足されてようやく合点がいった。
思えば甥っ子は、彼がまだヒーローではなくただの通りすがりの恩人だった頃から、彼のことをヒーローみたいだと言って喜んでいたっけ。元はといえば甥っ子が引き起こした事件なのだが、当の本人はさほどトラウマになった様子もなく暢気なものだった。肝が据わっている辺り、きっと母親である姉に似たに違いない。

「ぼく、あのカッコイイおにいちゃんに会いたい!」

子どもならではの純粋な輝きを秘めた瞳に良心を掴まれ、ぎょっとする。

「ええっ、それは急すぎるわ」
「えー、じゃあ私はブラッド様に会いた〜い!」
「そんなのもっと無理よ」

便乗して浴びせられるとんでもない我儘を、思わず強く拒否してしまった。
よりにもよって、ヒーローの中でも最も忙しいのではないかと思しき人物を呼べだなんて、無謀にも程がある。ただでさえ一切の綻びを見せることのない厳格な彼に対し、かなりの苦手意識を持っているというのに。
そんな気も知らないで、姉はまるで子どものように唇を尖らせる。

「何よケチー。せめてそのアドラーって人と連絡取れたりしないワケ?」
「え。と、取れないことはないけれど……」
「じゃあ言うだけ言ってみようよ。案外すんなり来てくれるかもよ?」
「ええっ? もう、本当に図々しいんだから」
「そう言わないの。私だってちゃんと、あんたたちを助けてくれたお礼言いたいしさ」

無遠慮な姉の催促には辟易していたが、そう言われると無下にはできず言葉を詰まらせる。確かに件の話をした時の姉は、我が子のことだけでなく妹である自分のことも深く心配してくれたのだから。
そして、後押しする甥っ子の期待の眼差し。

「ヒーローのおにいちゃんくるの!?」
「お姉ちゃんが呼んでくれるってー。よかったわねぇ」
「やったぁ!」
「ううぅ……もう、わかったわよ」

子どもの無邪気さを利用されては抗えず、懐にしまっていたスマートフォンを渋々取り出して、少し緊張でぎこちなくなる親指を液晶画面上に滑らせた。
ちょうど先日、実験に協力してくれることになった折に連絡先を交換したところだったが、まさか最初にこのような用件で活用されることになるとは予想外だった。
気後れしながら無理なお願いを打ち進めていると、甥っ子と手を繋ぎながら待つ姉がふと首を傾げた。

「あぁ、そういや、アドラー? ってそんな感じの名前、なーんかどっかで聞いたことあるような気がするのよね」
「え?」
「うーん、なんだったかしら。たぶん、父さんが言ってたんだと思うんだけど」
「お、お父さんが?」

思いもよらぬ可能性に、どきりと心臓が強張って思わず顔を上げる。親同士に繋がりがあったからといって二人の関係に影響があるわけでもないだろうが、何故だか無性に引っかかりを覚えた。

「ま、でも同じような名前なんていくらでもあるだろうし、記憶違いかもね」

しかしそこから答えに辿り着くことはなく、姉の顔は些細なことであるというようにからりと晴れてしまった。

「そんなことより、ちゃんと送れたー?」
「ま、まだ!」

気まぐれに話を戻す姉に急かされ、すっかり止まっていた親指を慌てて動かす。そうだ、今はこちらに集中しなければならない。
甥っ子はともかく姉が余計なことを言わないとも限らないので、いっそ断ってくれた方が気が楽なのだけれど。密かに後ろ向きの願いを込め、低姿勢に固めたメッセージを送信した。


「まさか、本当にすんなり来ていただけるなんて……」

なのに彼は姉の我儘をあっさりと聞き入れ、そんなやり取りをしてから約一時間後にこうして顔を見せにきてくれた。ありがたいような、申し訳ないような、だけどやっぱり嬉しいような。複雑な気分を両手に掬って胸に抱えていると、タワーの一般向けの入口付近で待ち合わせた彼は人の善い笑みを浮かべた。

「い、いやぁ、あんたに呼ばれたなら行かなくちゃと思ってさ。どうせチームのヤツらはみんなバラバラだし、パトロールが終わったらすぐ直行してきちまった」
「うぅ、ありがとうございます。でも私、最近なんだかアドラーさんの時間を独り占めしてしまっている気がするのですけれど」
「そ、そんなことないって! 俺としてはむしろ、もっとあんたに独り占めされたいっていうか……」
「は……はいっ……?」

ぼそぼそと小さく消えゆく声がかろうじて耳に届いたものの、その言葉を理解するのに数拍かかった。何かとんでもなく恐れ多いことを言われた気がしたのだが、聞き間違いだったかもしれない。
唖然として彼の顔を凝視していると、次第に彼は狼狽え始めた。

「あぁ、いや、別に深い意味はないからなっ? あんたとはもっと仲良くなりたいっつーか……その……」

気まずく泳いでいく視線は、途切れていく声と共にぎこちなく揺らいでいる。
ひとまず先程の言葉は聞き間違いではなかったらしい。だからといって、どう返していいのかもわからない。そう言ってもらえることは嬉しいけれど、とても恥ずかしくて上手く言葉が浮かばないし、顔がすぐに火照ってしまう。
二人の会話がいよいよ手詰まった頃、小さな影が勢い良く傍らを駆け抜けて彼の前で立ち止まった。

「ヒーローのおにいちゃん! このまえはぼくとおねえちゃんをたすけてくれてありがとう!」
「お、おぉ……」

憧れを秘めたはつらつとした声が、擽ったくも停滞した空気を発散させてくれた。彼も助かったと言わんばかりに甥っ子へ意識を向け、跪いて目線を低く合わせる。

「ちゃんとありがとうが言えるなんて良い子だな。もう勝手にお姉ちゃんから離れて突っ走って行っちゃだめだぞ? お姉ちゃんが困っちまうからな」
「うん! きをつける!」
「はは、いい返事だ」

憧れのヒーローに頭を撫でられて、甥っ子も満足そうだ。
快く甥っ子の相手をしてくれる彼の姿勢には、面倒見の良さが滲み出ていて微笑ましくなる。自分たちを助けてくれたのが彼で、本当によかった。温かな思いに満たされて、和やかに目元を柔く細める。
そんな気持ちを台無しにしたのが、肩にずしりと重く沈む肘だった。正直、少し痛い。

「ちょっと、イイ男じゃない。しかもちゃっかり仲良くなっちゃってさぁ……ひょっとして、付き合ってたりする?」
「へ……!?」

臆することなく好奇心を曝け出した声が、彼の驚きの目を引き付けた。目が合った瞬間、姉の下世話にかけられた言葉と相まって熱を持った焦りが腹の底から急激に込み上げてきて、恥に耐えきれず姉に向かって力いっぱい叫んだ。

「や、やめてよお姉ちゃん! そんなわけないじゃない!」
「えぇっ、違うの? やっとセレーナにも初めての彼氏ができたんだと思ったのに〜」
「もう、余計なこと言わないの! アドラーさんにも失礼でしょう!?」

何故か心底がっかりされてしまったが、余計なお世話だ。決して冷やかしではなく、最も事情を知る家族だからこそ気にかけてくれているのは理解しているつもりだけれど。だからといって、そんなことで軽率に彼を巻き込んでいいわけがない。
ちらりと彼を横目で盗み見ると、甥っ子の前で跪いたままそれはもう気まずそうに顔を歪めている。

「おねーちゃん、どうしておこってるの?」

唯一状況を理解していない甥っ子は、不思議そうに首を傾げてこちらを見上げてくる。
しまった、小さな子どもの前で声を荒げてしまうなんて。己の失態を胸の内で反省しながら、慌てて笑顔で取り繕う。

「お、おこっているわけじゃないのよ。ちょっとママにビックリさせられただけ」
「ママー、おねーちゃんのことビックリさせちゃだめなんだよー?」
「はいはい、ママが悪ぅございましたよ」

我が子に窘められ、やや不服そうな顔をしながらも素直に認める姉。もはやどちらが親なのかと疑ってしまう光景だ。
と、姉のせいですっかり妙な空気が流れてしまったが、小さく咳払いをして仕切り直す。一方的に呼びつけておいて、まだまともに家族の紹介すらできていないのだから。

「えと、まだきちんと紹介していませんでしたね。アドラーさん、こちらが私の姉です」
「どうもっ。先日はこの子たちを助けていただいたみたいで、本当にありがとうございました! なんでも、相手はヤバい感じの男だったとか」
「あぁ、いえ……この子、明らかに最初から目付けられてたんで、放っておけなかっただけですよ」

彼は立ち上がって姉に向き直ると、いつもよりぎこちなく笑って応えた。姉の悪気のない不躾っぷりに引いてしまっているのかもしれないと思うと、なんだかとても申し訳ない気持ちでいっぱいだ。本人は全く気にしていないようだが。

「しかもセレーナと随分仲良くしてもらってるみたいで。この子、男苦手だし結構迷惑かけたんじゃない?」
「うぅっ」

包み隠すことのない言葉が容赦なく胸に突き刺さり、苦い顔をする。これに関しては一切否定できず、後ろめたさに視線が下へと沈んでいく。

「いえいえ、そんなことは! むしろ俺の方が迷惑かけてる方かも? なんて」

だけど、いつだって嫌な顔一つせず付き合ってくれる彼の気遣いに掬われて顔を上げる。以前は彼の言葉を本心として受け取る自信がなかったけれど、今は素直に胸の芯が温かくて、愛おしむことができる。

「ぼくね、ずっとおにーちゃんにあいたかったんだ!」

甥っ子が彼の長い脚に抱きついて甘える。他の人より懐くのが早いような気がするのは、やはりヒーローへの憧れがあるからだろう。
彼は嬉しそうに笑って、そんな甥っ子の頭を撫でて受け入れる。

「おぉ、そんなに俺のこと気に入ってくれたのか?」
「だって、おにーちゃんはすっごくカッコイイ、おねーちゃんのヒーローだもん!」
「えっ?」

一際明るく注がれた憧れに、引きつってしまったが。その顔を見た瞬間にセレーナは体内を奔走する焦りに駆り立てられ、慌てて幼い子ども特有の思い込みを正そうとする。

「ちょっ、ちょっと、アドラーさんは私のじゃなくて、みんなのヒーローなのよ?」
「えぇー。でも、ヒロインのピンチをすくうのはヒーローのやくめなんだよ」
「ヒ、ヒロイン!?」
「あっはは! それって、テレビに出てくる別のヒーローのお話じゃない」

なんだか突飛な方向に話が展開してしまっているが、隣で姉は暢気に声をあげて笑っている。こちらは恥ずかしさのあまり逃げだしてしまいたいくらいなのに。

「ぼくもおにーちゃんみたいにつよくてカッコイイおとこになって、ママとおねーちゃんをまもるんだ!」
「そ、そっか。それは頼もしいな」

子どもの抱く無垢な夢に深く突っ込むのは野暮だと思ったのか、彼は何も言わずに聞き入れてくれた。彼の心が広くて助かった。
募る罪悪感にいたたまれなくなって、小さく項垂れる。

「ううぅ、申し訳ございません。親子揃って好き勝手言ってしまい……」
「あぁ、いや……まあ、あながち間違いでもねぇしな」
「え」
「ほら、ジャクリーンもよく言ってるだろ? 俺があんたのヒーローだって。最初はなんか小っ恥ずかしかったけど、だんだんそう名乗っちまうのも悪くねぇかもって思えてきてさ」

満更でもないといった声色が頭上に降ってきて、ゆっくりと顔を上げる。と、至極優しい微笑を向けられていることに気づき、一瞬、息が詰まった。

「あんたを守るのは、俺の役目だから。なんてな」

ぎゅっと奥歯を強く噛み締めて、体の奥から込み上げてくる熱い情が喉を逆流してくるのを堪えた。揺るぎなく真っすぐに捧げられた言葉の意図をどう捉えたらいいのかわからなくて、戸惑っているはずなのにどこかで浮かれてしまう自分もいて。

「そ、そんなことを言われては……色々と、勘違いしてしまいそうになります……」
「えっ。勘違いって……」

混乱の末に思わずこぼしてしまった動揺を拾い上げられ、顔が熱に炙られていく。とんでもない失言をしてしまった気がして、もうだめだと思った。これ以上顔を合わせていては、今度こそ彼に多大なる迷惑をかけてしまうことになる。
視線を泳がせながら、逃げる術を必死に考え巡らせた結果。

「あ……お……お姉ちゃん! そろそろ行かなくちゃ、この子が待ちくたびれてしまうわ!」
「えぇー。おねえちゃん、ぼく、まだおにいちゃんとおはなししたいよー」
「……って言ってるけど?」
「ほら、アドラーさんだってお忙しいのだし、あまり長々と引き止めるのもよくないと思うの! だからまた今度にしましょう! ねっ!」
「えっ、いや、俺はまだ大丈夫なんだけど」

平然を装って話を逸したつもりだったけれど、尽く上手くいかずに泣きたくなった。からからに渇いた喉はひっくり返った声しか出せないし、こちらの意に反して皆はここに留まろうとする。酷い有り様だ。
困惑する緑の目と不意に視線が合うと、なんだか心中を探られているような錯覚に囚われて。

「う……あ……アドラーさん、突然お呼び出ししてしまって申し訳ございませんでした! えと、あの、また後ほど上で!」
「ええぇっ!?」

耐えきれずに姉と甥っ子すら置いてタワーの中へと逃げ込んでしまった。彼の驚愕する声と姉たちの困惑する声を背に、振り返ることはできなかった。
その後の彼らがどうなったかはわからない。ただ、後に連絡を取り合って合流した姉には、散々文句を浴びせられる羽目になったのだった。





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