「はあぁ……わからない。まったくわからないわ」

昼下がりの快晴の空の下、冷たくて硬い屋上のベンチで緩やかな風を心地良く浴びながら、深々と吐き出したのは曇天のごとく陰鬱な溜息だった。これまで直面してきた中で最も難解といえる問題を前に、なす術なく思考を投げ出し、背もたれに体を預けてぼんやりと天を仰ぐ。爽やかに澄み渡った青空を。

『それはもちろん、恋っていう意味だよ』

決して冷やかしではないノヴァの諭すような声が、脳裏に柔らかく響く。
幼い頃からそれとなく憧れはあった。恋というものがどういうものかなんてわからないままに、いつか素敵な男性と巡り会って恋愛物語のヒロインのようになりたいと、漠然とした理想を描いていた。男性が恐怖の対象になってからは、もう期待を捨ててしまったけれど。
ただ、ガストとは決してそういうつもりはなかった。あの人は助けてくれた恩人で、とても親切にしてくれて頼りになる同僚で、おこがましくも一緒にいて心から楽しいと思える友人で。接する機会が増えて嬉しいと思えるのも、彼が優しくしてくれる度に温かな気持ちになれるのも、それをお返ししたいと思うのも、ヒーローとして忙しくしている彼を労ってあげたくなるのも、何も特別なことではないはず。彼を男性として意識して緊張してしまうのも、そもそも男性そのものと接することに慣れていないし、身の回りの人間の中でも特に彼には男らしさを感じるからだ。
なのに、ノヴァは見ていればわかるだなんて根拠のないことを言う。そしてそれを戯言として聞き流せず、真に受けて動揺してしまう自分もいる。

「このままでは、本当に合わせる顔が──」
「やっと見つけた」

悩ましく小さな独り言をこぼしていたところに、雲などないはずなのに暗い影が不意に視界に落ちてきたのと、まさに合わせたくなかった顔がほっとした表情を浮かべて真上から覗き込んできたのは、ほぼ同時のことだった。
突然のことに思考が停止して数拍ほど目を瞬かせた後、驚きと焦りと羞恥が一気に喉まで込み上げてきて、混乱の末に絶叫した。

「きゃーーーーーー!?」
「ええぇっ!?」

反射的にベンチから飛び上がり、彼に対して逃げ腰で対峙する。
いきなり叫ばれたことでさぞかし驚いていることだろう、現に彼は目を真ん丸に見開かせて呆然と立ち尽くしている。

「そ、そんなに叫ばれると思わなかったな……」
「アドラーさん! どどどどどうされたのですか!?」
「いやいや、あんたこそどうしたんだよ?」
「な、何を言っているのですかっ? わた、私は全然、いつもどおりですよ!?」
「それでよく誤魔化せると思ったな!?」

あからさまな挙動不審っぷりに、困惑する彼の指摘が容赦なく突き刺さる。いたたまれなくなってきて、あわあわと宙を泳いでいた手が虚しく重力に任せて墜落していく。

「申し訳ございません。まさかこんなところでアドラーさんとお会いするなんて思わず」
「こんなところって、同じ職場の建物の中なんだけどな? ……まあ、びっくりさせちまったのは悪かったけどさ」
「そ、それで、アドラーさんはどうしてこちらへ?」
「いやいや、どうしても何も。あんた、俺のメッセージ無視してるだろ」
「うぅっ……!」

不服混じりで痛いところを突かれ、わかりやすく顔を顰めてたじろいでしまった。
スマホにガストからのメッセージが届いたのは、一緒に出かけようと約束を交わした翌日。互いの仕事の状況を見て予定を合わせていこうという話になったわけだが、仕事よりも精神面で余裕を失っている今、何と返していいかもわからず既に数日ほど放置していたのだった。
さすがに失礼なことをしてしまった自覚もあって、ベンチ越しに恐る恐る顔色を窺う。

「もしかして、怒ってらっしゃいます……?」
「怒ってはねぇけど、ショックはそこそこ受けてる」
「ううぅ、申し訳ございません。無視していたわけではないのですけれど……当分は仕事が立て込んでしまいそうで、なかなか先の予定を読むのが難しくて」
「なんだ、ならそう返してくれてよかったのに」

どこか安心した様子の彼を前に、莫大な罪悪感をひっそりと胸に秘める。仕事が立て込んでしまいそうだなんて、返事を先延ばしするための嘘なのだから。
良心を対価にして手に入れた猶予で、この体の中心で今も激しくなっていく動悸の正体を解明していかなければ。このままでは、彼と長く過ごすのに支障が出てしまうだろう。
彼の顔を控えめに見上げながら、またノヴァの言葉を思い出して、途端に何を話していいかわからなくなる。無性に緊張して強張る体を竦め、震えながら固まる足を動かすこともできずに立ち尽くしていると、彼は一瞬だけばつが悪そうに目を泳がせた後、改まって不安げな視線をこちらに向けた。

「……なぁ。俺、あんたに何かしたか?」
「えっ?」
「俺たち、この間の一件でだいぶ打ち解けられたと思ってたんだけど。ここ数日、急に俺のこと避けるようになったよな?」
「そ、そんなことはっ」

図星を突かれ、ますます腰が引けてしまった。慌ててはぐらかそうとしても、彼は納得いかない視線を固く絡めてくる。

「いや、ある。絶対ある。昨日も廊下で反対側から歩いてくるあんたに声かけようとしたのに、目が合った瞬間急に方向変えて逃げていっただろ」
「あらぁ、そうだったでしょうか? 私はアドラーさんのことなど見かけた記憶がございませんし、たまたま目が合ったように見えただけなのでは〜?」
「いくらなんでも誤魔化すの下手くそ過ぎねぇか?」
「ううぅ……」

それはもうできる限りの愛想笑いをもって平常心を装ったつもりだったのだが、全く空振りに終わってしまったらしい。むしろ哀れみを向けられ、いっそ悲しくなって項垂れる。

「べ、別に避けているつもりはないのです、本当に。ただ……」
「ただ?」

言えるわけがなかった、貴方に恋をしているかもしれないだなんて。口にした瞬間、今までゆっくりと築き上げてきたものが全てなくなってしまう気がして、怖くて。
蟠りが喉に纏わりつくのを不快に感じ始めた頃、ガストの背後に彼よりもさらに背丈の大きいよく見知った男が立つのが見えた。

「ふむ、珍しい組み合わせだな」
「ジェ、ジェイっ?」

ガストは小さく狼狽えてジェイの方を振り返った。彼の意識が自分から逸れてくれたことに胸を撫で下ろしながら、この状況を有耶無耶にしてくれたジェイには密かに感謝した。
一方、ジェイ自身は割って入ってしまったことへの後ろめたさがあるのか、決まりが悪そうにほんのり顔を歪めているのだが。

「すまない、二人の邪魔をするつもりはなかったんだが……つい今し方ノヴァ博士と居合わせて、セレーナを励ましてやってほしいと頼まれてな」
「ノヴァ博士からっ?」
「二人とも、知り合いなのか?」

このタイミングでノヴァ博士がそのようなことを言い出すだなんて、とてつもなく嫌な予感がしてたじろいでしまう。そうしている間にガストが意外そうに目を見張ってこちらを向き、そういえば彼には詳しく言っていなかったことを今になって思い出した。

「ジェイさんは、かつて私が誘拐された時に助け出してくださったヒーローなのです」
「そう、だったのか」

それこそ絶望から救ってくれた救世主ともいえるジェイに敬意を表して『ヒーロー』と口にした瞬間、彼は何やら複雑な顔で目を逸したが、その真意を探ることはできなかった。
背後で見えていないジェイは何も知らずに、ベンチと彼を挟んだ向こう側で続けて語る。

「それ以来、今は亡き彼女の父であるメーア博士が時々彼女をここに連れてくることがあったもんで、リリー教官と一緒によく顔を出して可愛がっていたんだ」
「父は私にここで信頼できる大人たちと触れ合わせることで、少しでも他者への恐怖心を軽減させようとしていたようです」
「へぇ……じゃあ、ノヴァ博士やドクターとも?」
「はい。昔からのお知り合い、ということになりますね。特にノヴァ博士はとても親身になって接してくださりました」
「……そっか」

耳を傾けていたガストの顔がどこか捉えどころがないように見えて、ざわざわと冷たくて不穏な風が胸を擽る。いつもなら一緒にいて居心地良く感じられるはずの彼が、なんだかとても居心地悪く感じられて。
だけど、それは気のせいだったのかもしれない。気まぐれに泳いでいた視線が、不意にしっかりとこちらを案じて向けられた。

「にしても、励ますって言ったよな。セレーナ、やっぱ何か悩んでるのか?」

別の意味で、居心地が悪くなってしまったけれど。

「い、いえ、それはっ」
「ノヴァ博士からは、セレーナが最近恋をするようになって戸惑っているようだから、何かアドバイスしてやってほしいと頼まれて──」
「きゃーーーーーーーーっ!!」

意表を突かれて狼狽えていると、事情を深く知らないジェイがよりにもよってノヴァの言葉を平然とそのまま口にするものだから、とっさに大声で叫んで掻き消すと同時に慌てて駆け出した。

「なっ……!?」
「な、何だっ!?」

二人が呆然としている間にジェイの義手ではない生身の腕を絡め取り、ぐいぐいと引っ張ろうとする。さすがに自分とは比べものにならないくらいの体格の大きさもあって、この非力な腕ではびくともしないが。

「ジェ、ジェイさん、あのっ、その話は談話室の方でしましょう!?」
「えっ、でもガストとの話はいいのか?」
「アドラーさん、また今度ゆっくりお話しましょう! ねっ!」
「えぇっ!? ちょ、ちょっと! セレーナ!?」
「さあ、行きましょう!」

背後で戸惑いの果てに呼び止めようとするガストを振り返る勇気もなく、そんな彼を気遣って困惑しているジェイを必死に急かすことで屋上から逃げることにどうにか成功した。
屋上から下りていくエレベーターの中、隣に立つジェイは至極申し訳なさそうに沈む声を、こちらのしなだれた頭にかける。

「すまん、もしかして地雷を踏んでしまったか?」
「い、いえ……」
「あまりこういったことを聞くとセクハラだなんだと怒られてしまいそうだが、その……恋の相手というのは、ガスト、なのか?」

別にそこまで気にすることはないのに、慎重に言葉を選ぼうとしてくれている辺り、彼の人となりが窺える。どれだけ当たり障りのない言葉を選んだところで、その名を挙げられた時点でこちらの心は取り乱してしまうのだけれど。

「わ……わかりません……恋なんて言われても、全くわかりません!」

そんなはずはない。そう言えるだけの理解もなければ、知識も経験もない。困らせてしまうとわかっていても、再び混乱し始める頭を抱えて声を震わせるだけで精いっぱいだった。
実際、ジェイは返す言葉を失って黙り込んでしまった。かつて助けてくれたスーパーヒーローに対して、こんなに失礼な態度をぶつけていいわけがない。すぐさま謝ろうと口を開いたところで、先に彼の明るい声が降ってきた。

「そうだ。今晩、リリー教官と飲みに行く約束をしているんだが、一緒にどうだ? 確か、セレーナももう成人したところだったよな」
「そ、それはそうですが……そんな、よろしいのですか?」

唐突な誘いに拍子抜けして顔を上げると、いい案が思い付いたと言わんばかりのどこか無邪気な顔が視界に映った。
予定としては問題はないが、目上の大人たちの酒の席に自分が入ったところで邪魔をしてしまうだけのような気がして、気後れしてしまう。畏縮していると、こちらの心境を察した彼は快く笑ってみせた。

「あぁ、セレーナが来るとわかれば、リリー教官もむしろ喜ぶだろうからな。それに、俺一人の意見よりは女性視点の意見もあった方が参考になるだろう?」

思い返してみれば、彼らは心に傷を負った幼い頃からずっと、そうして手を差し伸べ続けて守ってくれていた。大人たちの温かくておおらかな優しさが深くこの身に沁みて、ほんのりと涙腺がじんと熱くなるのを感じた。

「で、では、お言葉に甘えて!」

せっかく差し伸べてくれた手を払い除ける方がずっと失礼なことだと信じて、臆することなくその手を取った。すると、ジェイはとても満足げに頷いてくれた。



品性を持った大人たちのどこか開放的な時間を彩るピアノジャズの音とざわざわと控えめに交わされる談話の音に混じって、グラスの中の氷がからりと小気味良い音を立てる。店内はぼんやりと落ち着いた灯りがバーカウンターやダイニングテーブルを照らしているだけで、全体的には少し薄暗い。
こういった空間に連れられるのは初めてで、自分には不釣り合いな場に緊張して肩が縮こまってしまう。カウンターに並んで右隣に座る、最も憧れの存在である女性がそこに注がれていた酒を勢い良く喉へと流し込む様をぼうっと眺めていると、彼女は機嫌良く顔を綻ばせてこちらを見た。

「どうした、飲まないのか?」
「あ、いえ……」
「まだ成人したばかりなんだから、リリーのペースに呑まれないようにな」
「は、はい」

場の空気に気圧されているだなんて恥ずかしくて言えず、返答に困っていると左隣からすかさず入れられるフォローに救われた。さすがは人生のベテラン、気配りが細やかだ。などと深く感心しながら、そっとグラスを口元に傾けてカシスオレンジの甘酸っぱさを渇いた舌に馴染ませた。
その傍ら、リリーはカウンターテーブルに片肘をつくと、まじまじと感慨深くこちらの横顔を見つめる。

「それにしても、遂にセレーナも恋をするようになったのか。めでたいな」
「い、いえ、まだ恋と決まったわけではっ」
「それだけ思い悩んでいれば、もう決まったようなものだろう。それとも、他の男とのことを言われても同じように悩むのか?」
「うぅ、それは……」
「ははは、セレーナは初めての恋に戸惑っているんだろう」

容赦なく捲し立てられて思わず口ごもっていると、左隣からやんわりとリリーを宥めてくれた。ただし、あくまでも大人たちにはどうしても恋をしているように見えているらしく、唯一自分自身だけがそれを捉えられずに肩身の狭い思いをする羽目になっている。
大人たちには当たり前に見えているものが見えないもどかしさを視線と共に、グラスに張った赤みがかったオレンジ色の水面に落としてそっと沈める。

「そもそも、恋とはどういうものなのでしょうか。書物などで調べてみても、出典によって定義が微妙に違ってなんだか曖昧で……私の気持ちが本当にそこまでのものなのか、自分のことなのにわからなくなってきてしまって。世の皆さんは、どうやって恋というものを知っていくのでしょう」

ノヴァに指摘されて数日の間、何もしなかったわけではない。ひとまず辞典を開いてみたり、それとなく人に問うてみたり──とはいえ、交友関係の少なさと人選によって聞く相手はかなり少数に絞られてしまったが。なんともふわふわとして捉えどころがなく、的確に掴もうとしても逃げられてしまう。
結果、余計に惑わされることになり、今に至るわけだが。

「それはなかなか難しい質問だな。若いうちにたくさん悩んで知っていくというのも大切なプロセスだと思うが……」
「セレーナの場合、少し難しく考えすぎている気がするな。まず、セレーナはガスト・アドラーのことをどう思ってるんだ?」

ずい、と前のめりになって覗き込んでくるリリーの、胸の奥に秘めたる本質を睨むような視線に、ぎょっと肩を小さく竦めた。

「えっ……どう、というのは?」
「端的に言えば、好きか嫌いかだな」

漠然とした問いかけに困り果て、有耶無耶にして回答から逃げようとしたところで先制されてしまった。単純明快を通り越して、その二択はあまりにも大雑把ではないだろうか。

「それはもちろん……す、好き、ですけれど」

嫌いだなんて、たとえ嘘でも言えるわけがなかった。残されたたった二文字を唱えるだけなのに、異常な緊張感と羞恥心に襲われて声が震えた。まだ酔ってもいないのに、顔に熱が集中して逆上せそうになる。
それに追い打ちをかけるのが、両隣の二人の沈黙だった。ただでさえとてつもなく恥ずかしいのに、無性にそわそわして気が気でなくなってくる。今の反応は何かおかしかっただろうかと確認したかったが、二人の表情を目の当たりにするのが恐ろしくて首が固まってしまう。
そろそろ精神の限界が近づいた頃、ようやく二人は同時に反応を示した。それまで堪えていたものを吹き出すかのように笑って。

「今の顔が全てを物語っていたような気もするが……」
「えっ……」
「特にセレーナは顔に出やすいからなぁ。ま、そこが可愛いところでもあるんだが」
「えぇっ!?」

親のように温かく見守る視線に挟まれた挙句、右隣から伸びる腕に左肩を励ますようにぽんぽんと叩かれ、ますます羞恥心を煽られて身を竦めた。
自覚もないのに顔に出やすいとまで言われると、ますますわかっていないのは自分だけではないかと思い知らされる。それすらも面に出ていたのか、何もかも見透かしている大人たちはなおも笑っている。

「そうだなぁ……じゃあ、セレーナはそいつと一緒に過ごしている時、何を感じている?」
「な、何を……?」

先程の問いかけとは違って明確な選択肢がないそれに、今度こそ答えが真っ白になってしまった。もちろん、惑いから導いてくれる言葉もない。こればかりは他の人と全く同じなんてない、自分だけの気持ちだから。怖がって投げ出さないで、真摯に向き合わなければ。

「う、ううん……えっと……お話しているととても楽しくて、アドラーさんの笑顔を見ているとなんだか嬉しくなって、一緒にいると心が満たされる感じがします。この幸せな時間がずっと続けばいいのにって、願ってしまうくらいに。時々、勘違いしそうになるようなことを仰るので、恥ずかしくて死んでしまいそうになる時もあるのですけれど」

一つ、もう一つ、恐る恐る言葉にしていくうちに、意外にもすらすらと引き出せてしまって、勢いで余計なことまで言ってしまった気がする。
それぞれグラスを傾けていた二人の反応に、ほのかなどよめきが見えた。

「勘違い、な……」
「それ……実は狙われてるんじゃないのか?」
「い、いえいえ、アドラーさんに限ってそのようなことは……!」
「ははは。まあ、ガストは優しいヤツだからなぁ」

うっかり誤解を与えてしまったらしく、慌てて否定したが二人の表情はまだどこか浮かない。誤解されたままガストの耳に入ってしまったらと想像しただけで、背筋がひやりと冷たくなった。

「しかし、あれだけ男を怖がって逃げ回っていたセレーナが、一人の男に対してそんなふうに思えるようになったんだ。今までにない大きな成長なんだし、認めるには十分だと思うがな」
「そ、そう、でしょうか……」
「あぁ。恋というものは時に、人を強くし成長させるというからな。ノヴァ博士が言っていたぞ、ガストと仲良くなるために手紙まで書いたんだってな?」
「ええぇっ!? ノヴァ博士ったら、そのようなことまで話してしまったのですか……」

幼い頃から見守ってくれていた二人の偽りない言葉だからこそ、恐れ多くもありながら心強さがある。と、せっかく心が動き始めた瞬間、いつの間にか思わぬ話が広まっていたことが判明して妙な恥ずかしさに気分が墜落していった。
ノヴァはきっとよかれと思ってジェイに話したのだろうが、こうも筒抜けになっていると他にも余計なものが伝わっているのではないかと少々心配になってくる。彼のお節介への感謝と不信感の狭間で複雑に顔を顰めていると、左隣で苦々しい笑い声がこぼれた。

「ノヴァ博士も余計なことを言ってしまったと、責任を感じているみたいだったからなぁ。少しでも情報が多い方がこちらもアドバイスしやすいと思ったんだろう。結構落ち込んでいる様子だったから、あまり責めないでやってくれ」
「そう、でしたか……」

よほどの落ち込み様だったのだろう、ノヴァを庇う彼の表情には同情じみたものが窺える。そうして良心に訴えられると、許容せざるを得なくなってくる。
ノヴァの言葉がきっかけで取り乱してしまったようなものだが、彼が保護者の一人として見守ってくれていたのは理解しているつもりだ。随分と困らせただろうし、心配もかけてしまった。落ち着いたら、きちんと謝らなければならない。

「そもそもセレーナは何故、そこまで頑なに恋を否定しようとしているんだ?」
「えっ?」
「いや……初めてのことで戸惑うのはわからなくもないが、セレーナの場合は何かを恐れているようにも見えるからな。何がそんなに気がかりなのかと思ったんだが」

リリーの眼差しが真っすぐに、こちらの目の奥に隠れた臆病な心まで覗き込もうとして、思わず慄える息を詰まらせた。そこには決して強く問い詰める意志はなく、むしろ柔らかな気遣いが感じられる。
言葉にすれば、これまで勇気という形で張ってきた虚勢が一気に崩れていくと思っていた。そうすれば、二度と立ち直れなくなってしまいそうで。だけど誰よりも憧れた女性が目の前で受けとめようとしてくるから、胸の内で悶々と蟠っていた負の感情を素直に吐露してしまった。

「やっと怖くなくなって、仲良くなれたのに……こんなことが知れたら、ご迷惑に思われるのではないかと思って……嫌われてしまうのが……怖くて……」
「そ、それは悪く考えすぎなんじゃないのかっ? ガストならセレーナのことをよく気にかけていたようだし、そんなふうには捉えないように思うがなぁ」
「そうだぞ。大体、こんなにも可愛いセレーナの好意を無下にするような男はヒーローとしても失格だ」
「いや、さすがにそれは言い過ぎだと思うが……」

じわりと湿った声を振り絞ると、両隣の大人たちは珍しく面食らう様を見せ、必死に慰めてくれた。せっかく成長したと褒めてくれたのに、結局はこうして相変わらず二人を振り回してしまっていることが申し訳なく思えてくる。
今日は特に駄目な日なのかもしれない。ガストにも失礼な態度を取ってしまったし、今だって親身になって相談に乗ってくれている二人を困らせてばかりで、ますます自己嫌悪が惨めさを増して沈んでいく。

「そうだな……ガストに好意を伝えるのが怖いというのなら、まずはこっそり片想いを楽しんでみるというのはどうだ?」
「片想いを、楽しむ……?」

そこから掬い上げてくれたのは、ジェイからの思いもよらぬ提案だった。ただでさえ未知の感情であるというのに、そんなものを楽しむことなどできるのだろうか。半信半疑でジェイの顔を見上げると、彼は穏やかに微笑んでいた。

「ノヴァ博士に、今のセレーナはとても幸せそうでキラキラしていると言われたんだろう?」
「え……えぇ……」
「なら、そういった気持ちを大切に育んでいくといい。無理に自分の気持ちを否定して押し殺してしまうよりは、ずっと意味のあることだと思うぞ」

希望ある言葉がすとんと心地良く懐に落ちていく。もしもジェイの言うようにできたなら、今までどおりガストの隣で笑っていられるだろうか。
少しだけ前を向き出した気持ちをさらに押し出すように、リリーが背中をぽんと優しく叩いた。

「セレーナの場合、変に隠そうとするよりその方が悟られずに済むんじゃないのか?」
「うっ。ノヴァ博士には悟られてしまいましたが……」
「だが、仲良くなれるだけ一緒にいても、本人からは何も突っ込まれていないんだろう?」
「今のところは、ですけれど」
「なら堂々としていればいいさ。その方がセレーナの魅力も存分に伝わるだろうしな。いっそヤツを惚れさせるぐらいのつもりでいけ」
「それは荷が重すぎます……!」

随分と大胆なアドバイスまでされて腰が引けてしまったが、それでも彼女の力強い激励は失くしかけた勇気を確かに奮い立たせてくれた。
そして単純なもので、勇気を取り戻すと次に考えてしまうのは早く彼に会って話がしたいということだった。まずはまた避けてしまったことを謝って、困らせてしまった数だけ笑顔にしてあげたい。
自分にはまだ自信を持てないけれど、自分にはスーパーヒーローたちがついているという自信があるから、明日を待ち望めた。





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